第一章 二十四話 紅白戦⑩―一回裏― 手札
ドッ、ドッ、ドッ、と胸を打つ音がいつもより速い。別段運動しているからという理由ではなく、どちらかというと緊張というか、気持ちが昂ってという理由が近いかもしれない。――
「……ふぅ、浮かれてばかりもいられないなぁ。」
そう独りごちる私はつい数分前のやり取りを思い起こした。
『――久遠さんの
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「さて、まずは状況を確認しよう。」
僕はマウンドに集まっている区立板東二中の面々を見渡してそう切り出した。
「一回裏、
「特別ルールってことで四番の人に繰り上がったんですよね!!」
授業中の質問に元気よく回答するかのように手を挙げながら新山さんが僕の言葉に続けて言った。……良かった。タイムを挟んだことでタイム前のお通夜のような沈黙した雰囲気は若干改善された。これは新山さんの持つ天性の明るさのおかげだ。
「その通り。試合展開で言えば『もうこれ以上の点はやれない』って状態で迎えたピンチだね。」
僕は努めてフラットに話すことを意識してそう口にした。可能な限りありのままの事実のみ伝えたい。この試合展開でこれ以上テンションを落として良いことは何もない。
「それにあの四番の人には一打席目に
「あー、あれめっちゃ飛んだよな。」
言葉にする久遠さんの表情がその時の悔しさを思い出したかのように曇り、寺原君は打たれたホームランを思い起こし、遠い目をしている。
「……
「2年生で四番ってことですか?……それは凄いですね。」
「まぁ、チームで一番飛ばせるのは確かだけど、
「うへぇ。あれで……。」
漆原さんが「四番」という単語だけを拾って勘違いしないように僕が知っている竜朗の特徴を伝えると、眉間にしわを寄せて嫌そうな表情を見せる新山さん。
都立板東は守りのチームだ。打撃の能力で突出したメンバーは居ない。数少ない出塁機会を得点に繋げ、こちら側は最少失点で乗り切る。そんな都立板東で数少ない長距離が望める打者。――それが
「そんな
「「…………。」」
「あれ?全滅?」
僕の問いかけに皆は口を噤んでしまう。
「いや……扇コーチ、正直打ち取れる
僕がそう問いかけると、ついさっきまで捕手という立場で試合の舵取りを担っていた上原君が久遠さんに気を遣いながらも言いづらそうに口にした。
「う~ん。……こういうのも最終的には自分たちで考えられるようになってほしいけど……じゃあ今回は僕が選択肢を挙げようか。……まず選択肢その1、四番を敬遠するかしないか。」
「「…………!?」」
皆ポカンとした、あっけに取られた表情で僕を見る。打ち取れる
「お、扇さん、それは……。」
「あ、あれ?あの四番の人扇さんと勝負がしたくて直談判したんじゃ……。」
慌てて久遠さんと新山さんが言い淀みながら僕に確認する。
「勝負だよ。勝負した結果として
状況はさっき確認した通り、
「まず勘違いしないで欲しいのが臨時の出場とはいえ、僕は今一時的に区立板東二中野球部のチームメイトだ。皆が試合継続を望んだ。勝ちを望むのであれば、僕個人の事情は
あくまでさっきの竜朗の要望は僕個人に対してのもの、だから今のこのチームには関係のない話。
「……チームメイト。」
「そう。チームメイト。だからチームの総意として選択した方を僕は尊重するし、それに応じて全力でプレイする。」
僕の言葉に思うところがあったのか久遠さんは『チームメイト』という言葉を反芻する。
「……仮に四番との勝負を避けるとして、でも次の五番にも今日2-2で打たれてる。」
「その通り。この選択をする上ではそこも考えなきゃね。」
流石は捕手。上原君は今日の各打者の対戦結果をちゃんと把握できている。
「四番には
口には出さないが、五番も
野球は3アウトを取るまで
「ここは夏波の気持ち次第だと思う。どっちがまだ投げやすいか。そういう世界の話だと思うから。」
漆原さんが今、口にした話もまた真理だ。野球は3割の確率でヒットが打てれば巧打者と言われる。どれだけ優秀な打者でも凡退はする。だから前の打席で
「……今日の結果だと、どの打順でも満遍なく打たれちゃってるから勝負するなら
「俺もそれが良いと思う。」
久遠さん、上原君のバッテリー間の意思が合致したことでチームとしての総意となった。
「OK。じゃあ次は『四番と勝負する上でどう攻めていくか』だけど、さっき上原君は『打ち取れる
「えぇ……と。一打席目、
「二打席目は際どいコースで内外攻めすぎて、それがストライクにならなくて
上原君が額に手を当てて、その時の配球を思い起こす。二打席目に関してはあまり内容が良くなかった自覚があるのか、久遠さんが後に続いて説明してくれた。
「今日の久遠、結果だけ見れば調子悪そうに見えますけど、球自体は結構悪くないんですよ。コントロールも良い感じだし、球威も結構来てた。…………それでこの結果なんで……。」
「……ふむ。久遠さん的にはどう?」
「はい……。調子自体は良い感じだと思います。ただ……。」
「……ただ?」
「良いコースに投げた球はカットで粘られて、もっと厳しいところ狙うと見逃されてカウント悪くなって、球数も多くなっちゃって、何というか……どんどん首が締まっていく感じで。……変化球でも使えたらまた違うんでしょうけど。」
きっと今、久遠さんは悔しい。それはこれだけ打たれたというのもそうだし、遥か格上と対峙したことで自分に足りないものを痛感している。何故自分は変化球が投げられないのか。投げる練習をもっとすれば良かった。悔やむことは悪いことじゃない。その悔しさが人を成長させる。ただ、後悔は先に立たず。いつだって後悔は終わった後に思うこと。
どうせ後悔をするのであれば今、自分が持つ
「――久遠さんの
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「
私は唐突に飛び出したその言葉を反芻する。
「――
「……ええと、110km/h前後の
「本当に?」
扇さんには私の持ち球のことについては試合前に伝えていたはず。私の今、切れるカードは
「……あとは私が自分で言うのもあれですけど、私の球質の伸びやかさみたいなもの……です。」
「他は?」
「……他は………。」
他の私の武器……。
「確かに久遠さんの
「……?……は、はい。」
例のごとく扇さんの言わんとしていることが飲み込めず、思考の海に飲まれていた私に扇さんは唐突に妙な提案を持ちかける。
「「…………………。」」
……あ、あれ?聞き間違いしたかな?確かに今、ジャンケンをしようっていったはず……。横を向くと思わずれなと目が合った。れなも頭の上に「?」浮かんでいる様子だ。何も言わず、少しも動かない扇さんに「あの……。」と声を掛けようとした瞬間。
「――最初はグー!!ジャンケン……ポン!!」
いきなりお決まりの掛け声と共に勢いよく手を差し出す扇さん。私は咄嗟のことでリズムが掴めず若干遅れ気味になりながらグーの手を繰り出した。
「――うん。僕の勝ちだね。」
結果は扇さんがパーを出していたので扇さんの勝ち。けど未だに扇さんの例えの意図が汲み取れない。
「じゃあもう一度。今度は普通のタイミングでやるから。……行くよ。――――ジャンケン……ポン!!」
確かにさっきとは異なり手を繰り出す前の変な間はなくなった。しかし、今回は掛け声がさっきと違っていたのでまたタイミングを逸して結果的にさっきと同じようなリズムで手を繰り出すことになってしまった。
「――さて、いきなりジャンケンをしてみたわけだけど、これと同じことをさっきの僕たちの攻撃の最中にやられた……そうだよね、新山さん、漆原さん。」
「…………タイミング、いや……テンポかな。」
「……。」
「「…………あっ!!」」
突然話を振られたれなは腕を組みながら天を仰ぎブツブツと何かを呟きながら、えりは顎に手を添え俯きながら黙って考える、そして二人とも少しの間を置いて同じタイミングで声を挙げた。
「あ、あたしの打席の時、投球の
「……私が塁に出た時の牽制のタイミング……。」
二人が声を被せながら思い当たったことを口にすると扇さんはゆっくりと首を縦に振った。
そう言われてから私も扇さんの言わんとしたことがやっと理解できた。れなが言った「投球の
「ほら、
扇さんはまるで悪戯が成功した子供みたいな表情であっけらかんとして言う。
「他にも
打撃の基本はバットの芯で球を捉えること。バットの芯は金属バットであれば、持ち手の反対の先端5cm~10cmを除いたところから球2個分程度の幅で存在する。そして打者のスイングは打者を軸として
……まぁ、プロレベルになれば投球コース問わず、インパクトのタイミングを揃える、なんて打撃の基本の真逆をやって
「
目から鱗、というわけではない。どれも野球の基本的な知識だったから。それでも実際に言われるまで気付かなかったのだから知らないも同じだ。きっとこういうところが
「じゃ、じゃあ、扇さん!!こういうのも使えますかね?――――――…………って
「うん。良いね。じゃあ上手いことそういう
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……はぁ……。」
マウンド上で一回大きく深呼吸。それから
(やっぱり、雰囲気がある。
セットポジションに入り打者に視線を移すと今にも射殺されそうな眼差しでこちらを睨んでいる。
(……でも不思議と怖くないな。)
そう思えるのは悠然とミットを構える扇さんが視界に入っているから、そんな気がする。
――覚悟は決まった。後は一歩踏み出すだけ。
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