第一章 二十二話 紅白戦⑧―一回裏―

「OK!!夏波、ナイスピッチ!!」


 待望の2つ目のアウトが取れたことで守備陣の気持ちが少し上向いた。


「……それにしてもあのコースでスイングさせるって、どれだけ手元で伸びてるんだ。」


 思わずそんな言葉が零れ落ちた。


 今座っている三塁側ベンチからの角度からでも、コースのおおよその高低くらいは分かる。そして今の一球はそんな角度からでもはっきり分かるくらい高めに浮いたボール球。


 競っている試合展開や自分が追い込まれているような状況での打席で打ち気が逸って思わず、といった場面は往々にしてあるけれど、今はそんな試合展開ではないし、ましてやマウンドに立つのは打ち込まれて崩れかけた年下の未熟な投手。それなのにも関わらず、打者トッキ―は振ってしまった。


 多くの打者はボールの軌道を投手から約1、2mほどで判断すると言われている。マウンドから打者の手元までの到達時間はプロ野球のトップオブトップの投手が投げる160km/hで約0.4秒。高校野球レベルの130km/hで約0.5秒ほどだ。コンマ数秒の中で投手の投げる球に対応しなければならない。故に打者は投手の指からボールが放たれた直後の2m~5m程で球種やコースを予測し、スイングや見送りを判断する。


 打ち取られた時のトッキ―の表情を察するにボール球を振ってしまって悔しがるというよりはことに対する驚いたような顔だったように思う。


 恐らくトッキ―はストライクだと判断して振った。けれど結果的にゾーンを大きく外れるくそボールを振らされていた、ということなのだろう。


 一塁側ベンチに視線を移すと何やらトッキ―と沢井さんがわーわー騒いでいる。

 大方、今の一球に手を出したことに対して沢井さんの雷が落ちた、そんな感じだろう。……まぁこればかりは実際に打席に立ってみないと分からない。


「でもこれで2アウト。終わりがやっと見えてきたかな………………ん?」


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


 ……中指の先がジンジンと熱を持っている。痛みは感じるほどでは無いけど少し違和感がある。そんな感じ。


「……あ、マメ剥けた…………。」


 指先を見てみると薄皮が捲れた感じになっている。


 今投じた一球で剥けた様だった。


「……高さは全然ダメ……。でも良い感じに指に掛かったな……。」


 まだ一回の裏なのに投動作によって掘れてしまったマウンド上の土をスパイクで器用に均しながらぼそぼそとそんな呟きが漏れる。


「タ、タイム!!」


 無心でマウンドを均しているところに不意に本塁ホーム方向から焦った様な声が飛ぶ。


「……どうしたの?上原君。」


 相手打者に向かってタイムを掛け、上原君が本塁ホームから駆け寄ってくる。


「っ…………ちょっと突き指したみたいだ。」


 左手に装着しているグラブを外すと親指の付け根が薄っすらと赤みを帯び、痛みで少し指先が震えている。


「……大丈夫?もしかしてさっきのファールチップ?」


「た、多分……。」


「一旦扇さんにコールドスプレー借りてこようか。」


「……どうした?怪我?」


 そう思った矢先、三塁ベンチから扇さんが小走りで駆け寄り、そう問いかけた。


「さっきのファールチップで親指痛めちゃったみたいで……。」


「ちょっと見せてくれる?……あーもう軽く腫れているね……。ゆっくり曲げ伸ばし出来る?ゆっくりで良いからね。」


 上原君の親指に軽く触れながらそんな会話をしている。捕手キャッチャーは他の守備位置ポジションより突き指の怪我が多いと思う。ミットの形状、速い球へ対応する役割的にそうなってしまうのだろう。特に私とバッテリーを組む捕手キャッチャーは何故か昔から突き指することが多い。


「……曲げた時に張る感じするでしょ?」


「……はい……。」


「まぁ自力で曲げられているのと腫れも少し張る感じなら軽度の突き指かな。」


「沢井さん、ちょっと良い?」


 扇さんはそう一塁側ベンチへ声を掛ける。


「はいはい~、怪我ですか?」


「そう。親指の突き指、多分軽度だと思うんだけど、ちょっと手当してあげて。」


 扇さんが沢井さんに声を掛けると前もって準備していたと思われる救急箱を持ってマウンドまで歩み寄る。


「了解です。……懐かしいですね。昔は良く先輩にも手当してましたもんね。」


「あはは……その節はお世話になりました。……まぁ捕手キャッチャーに突き指は付き物だから……。」


 沢井さんは冗談めかしながらも「じゃあ、君。親指見せてね~。」とテキパキと上原君の応急手当てを始めた。


「……さて、上原君の手当は沢井さんに任せるとして、肩冷えるといけないから軽く投げとこうか。」


「……はい。」


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ……タンッ、タンッ。


 小気味よい乾いた音がグラウンドに響く。


 あくまで肩を冷やさない為のキャッチボール。だから力加減は1~2割。ボールの軌道は少し山なり。それでもキャッチャーミットの芯で捉えているからか見た目以上に大きな捕球音、勢いのあるボールを放っているように錯覚する。


(凄い……。これはきっと扇さんの技術だ。)


 速い、威力のある球で大きい音が出るのはある意味当たり前。捕球音は言ってしまえばミットとボールによる衝突音、より大きいエネルギーを持つ速い球ほど衝突の際の威力は大きくなる。けれどすべての捕球時に大きい音がなるかと言えばそうでもない。基本的にグローブは捕球時の衝撃から手を保護するためにあるわけで、グローブの中には綿やスポンジといったクッションが入っている。そのクッション部分に当たれば当然捕球音は小さくなる。だからこそ遅い、山なりのボールでこれだけの音を鳴らすには的確にミットの芯を捉える必要がある。


 捕球音が良いからといってボール球がストライクになることはない。その逆も然りで捕球音が野球のルール上、メリットになることは一つもない。精々「投手が気分良く投げられる」、「相手打者に調子が良さそうだと思わせる」そのくらいの意味しかない。


 ……けれどだからこそ扇さんは『鳴らして捕る』技術を磨いたのだろう。昨日扇さんは『――『勝たせる為に最善を尽くす』そう言った。その言葉は思い付きの励ましなんかではなく、扇さん自身がそうやって勝ってきた、その事実から出た言葉。甲子園に出る。全国の高校球児が夢に見るであろうその舞台に、時間も設備も人員もない都立高校が立つ為にそれこそ勝つ為に最善を尽くしてきたに違いない。


(ああ……そういえば、駐車場でキャッチボールした時も良い音鳴らしてたなぁ。)


「…………さん。……久……遠……さん。」


「…………え?」


「……大丈夫?ぼちぼち上原君の手当終わると思うからキャッチボール、終わりにしよう。」


 そんな風につい先日の出来事を思い起こす中、扇さんからそう声が掛かった。


「あ、はい。分かりました。」


「……で、どう?うちのチームは。」


「ここまでとは思いませんでした。完全に力不足です。」


「あはは……。まぁ一応3年生は抜けたけど曲がりなりにも今年甲子園行っているからね。」


「……打ち取れる感じが、たった3つのアウトすら取れるイメージが出来なくて……。」


「……うん。そうだね。………………じゃあ辞める?」


「えっ?」


「まぁぶっちゃけると結果だけ見れば予定調和だし、格上と戦うってことがどういうことか分かったでしょ?……僕としては確認したかったことは見れたし途中で辞めても良いと思ってる。」


 決して責めるような口調ではない。けれど真っすぐこちらを見据え、軽くも重くもない平坦な口調で何でもないことのように提案をする。


「わ、私は……。」


 私は今日何が出来たのだろうか。わざわざ扇さんの高校まで出向いて、成行きで準備が出来ていないとは言え、紅白戦をすることになった。今まで力量が同等の相手とは戦ったことが無い。少ない試合経験はすべて相手が上手うわてだった。その経験の中でも今日が一番の格上。


 私に自信があった唯一無二、そして最後の手札である直球ストレート死んだ。……いや、殺されたと言った方が良いかもしれない。相手が相手だから加減なんて出来っこない。全てが私の勝負球。そんな私を見透かしたように悉く際どいコースを見逃され、ファールカットにされ、初回なのに何球投じたかすら分からない。少し前から握力も弱くなってきているし、投球時に軸足となる右のふくらはぎは攣りそうになっている。


『ちゃんと見ているからね。』


 扇さんの言葉を思い起こす。時間にして言えば一時間に満たないくらい前の出来事なのに、昔言われたような感覚すらあるその言葉を。今考えると扇さんは試合前からこの状況になることを見越していたと思う。……れなやえりそしてチームの皆を巻き込んで部活を始めた。そして一回でも勝ちたいという私の我儘に皆を、扇さんを巻き込んでこの場所に立っている。これは私が始めた試合ゲームだ。


 私の立つこの小高い山の上マウンドには隠れる場所なんてない。……野球は投手が起点となり動き出すスポーツ。投手が動かなければ始まりもしないし、終わりもしない。扇さんはその終わり方を私に委ねた。降参リザインか継続か、逃げようのないこの場所マウンドで避けられない選択を迫る。


「…………わ、私は、…………最後まで投げます。投げたいです。」


「……何でそこまで投げたいのか聞いても良いかな?」


「……れなは小学生の頃からずっと私に付いて来てくれました。えりはバレーボールを辞めてうちの部活に入ってくれた。上原君は中学からずっとバッテリーを組んでくれた……。」


 思い起こすのは今のチームメイトとの思い出。楽しかったこと、苦しかったこと、悔しさと情けなさと色々な感情が入り混じる中言葉を紡いでいく。


「………………私が始めて皆付いて来てくれた。その私が私の勝手で途中で辞めるなんて出来ない!!」


 感情が溢れて目頭が熱くなって、鼻の奥がツンっとしている。その事実がさらに悔しくて、意地でも涙は零さないように袖で無理やり拭う。


「……よく言った。」


「え?」


 そして私の帽子のつばを押し下げ、泣き顔を隠すように、落ち着いているけど静かにそして力強い口調で扇さんはそう呟いた。


「それに久遠さんの球は死んでないよ。………それを証明してあげるよ。」

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