第一章 二十一話 紅白戦⑦―一回裏―
さっきまで自分の背丈ほどしか伸びていなかった影がいつの間にか私の二倍ほどに伸長していた。そして辺りを照らす光は少し闇を孕み始めていた。
「……………………うわぁ…………。」
言葉が出ないとはまさにこのことか。マウンド上で佇む夏波ちゃんに視線を向ける。端正なその顔には汗が珠の様に浮かび、頬から顎を伝ってグラウンドの土を湿らせた。呼吸もいつからか肩を上下させるほどに荒くなっている。
視線を少し横にずらし、三塁側ベンチの方を見やると先輩は腕を組み、何かを我慢するようにじっとマウンドを見つめていた。
「……なぁ沢井。今、球数どれくらい?」
七番打者のトッキーこと
「……これで
「そっか。……あの子のことちゃんと見てやってな。」
「……うん…………。」
トッキ―は同じ投手だから今、彼女が置かれている状況が分かるのだと思う。だからと言って手を抜くわけにはいかない。それは彼女たちに対しての最大の侮辱になるから。そして勝者が敗者に何を言っても何の慰みにもならない。それを私たちは良く理解している。……彼女たちが欲しかったのは言葉ではなく、勝ち星
『勝ち星だった』そう表現したのは勝ち星がもう彼女たちの手から離れ、遠くへ行ってしまったからだ。
八対一。それが現時点での点差。
野球という競技は二桁の点数が入るようなケースが良くある。だからこんな点差も『まぁあるよね』くらいの頻度で見かける。しかも今日は変則的で、点取り合戦になり易い試合形式。だからこんな点差も十分に予想できた。
――でも……。
「……これ、止まりませんよ。先輩……。」
そう呟いた直後、多くの生徒が帰宅し、賑わいを無くした校内に破裂音が響いた。
夕暮れ特有の薄暗さで一瞬見失う。けれど視界の端に小さくなった白球を捉えることが出来た。打球は見る見るうちに右中間方向へ伸びて、白い点になった。
「……九点目、………………十点目、……………………十一点目。」
最終的に打球は低く、鋭く伸びて右中間に設置されている防球ネットまで伸びて行った。文字通り、走者一掃のタイムリー
一方、守備側選手たちの様子は下を向いていたり、一方で天を仰いでいたり、完全にお通夜状態になってしまっている。そんな選手たちの中心にいる夏波ちゃんは下唇を噛みしめ、帽子を取って汗をユニフォームの肩口で拭っていた。
ここまでヒット六本、本塁打一本、
実力差を鑑みれば予定調和の結果と言えばそうなのだけれど、……あえて、あえて敗因を挙げるならば、夏波ちゃんの引き出しの少なさが上がるだろうか。
……致命的だったのは夏波ちゃんが武器を失ったこと。
夏波ちゃんの持ち球が
野球は三割の確率で打つ事が出来れば良い打者と言われる競技だ。例え球種が割れていても、
――だから私は万全を喫することにした。
球種が割れた段階で基本待球の指示を出すことにした。
四隅に決まる際どい球は見逃し、甘いコースのみ仕留める。
けれど夏波ちゃんの場合、武器は質の良い
うちのチームも余裕があるわけではない。夏の大会明け、絶対的な
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
熱い。……本当に熱い。
陽はもうだいぶ落ちているし、夏の終わり、夕方特有の涼風が防球ネットを揺らしている。それなのにマラソン直後に感じるような、肌に纏わりつく熱が一向に引かない。頬に張り付く汗で濡れた前髪が鬱陶しい。いっそのこと切ってしまいたいくらいだ。
……調子は悪くない。そんな手応えが私にはあった。
コントロールは安定しているし、
……にもかかわらず、まったく抑えられない。
うちのチームと試合をしてくれる
けれど目の前にいる人たちは文字通り格が違う。今、私がやっているのは試合なのか。都立板東高校野球部の打撃練習に付き合っているだけなのではないか。そう疑ってしまうくらい。試合が成立していない。
どんなに良いコース、良い球威の球を投げたところで打たれる。そんなイメージしか出来ない……。全身が重く、私の周りだけ重力が違っているような感覚。球数は20球を超えたくらいから数えるのを止めた。
そんな余計なことを考えれば当然集中できない。一度マウンドを外し、
劣勢な時はいつもれなが外野から声を張って励ましてくれるけど、その声も何時からか聞こえなくなった気がする。内野にいるえりもタイミングを見計らい、マウンドまで来てくれる。けれど、この試合に限っては七点目を取られた段階でもう三回も
(皆完全に戦意を無くしちゃってる……。)
付けすぎた
「……
そんなことを呟きながら再びマウンド上で打者に正対する。
「………………?……。」
おかしい。……
「……ふぅ……………。………っく!!」
一呼吸を置いて投じた一球は
ダメだ。……もっと集中しなきゃ。もっと強い
「……もっと強く。……もっと速く!!」
「……っ!?」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……明らかにギアが入った。三塁ベンチから観ても分かるほどに今の一球は力、勢いが乗っていた。投球コースも高さも甘々だったけれど、打席に立つトッキ―が完全に振り遅れていた。本人も空振りした後に思わず
余裕はない。それは今の
「……さて、この勢いのままどこまで行けるか……。」
今の一球が続けられれば、遠からず残りの二人は打ち取れるだろう。
問題は彼女のスタミナだ。
「一回だけど……ここまで六十七球。久遠さんにとってのラストスパート。」
つい口から零れ落ちるのはそんな言葉。
現代野球は投手の健康を守るために球数制限を敷いている。それによって先発、中継ぎ、抑えといった投手の分業制が確立されることになった。そして分業制になったことで現代野球は一段階、上の階位へ進むことになる。
各役割の投手が自分の任された
六十八球目――。
投じられたと同時に擦ったような鈍い音が木霊する。投じられた白い直線が打者の手元で鋭く、小さく方向を変え、捕手のミットを弾いた。――所謂ファールチップ。
これで
久遠さんは捕手からの返球を受け、付けていた
そんな彼女に既視感を覚えた。間違いなくそんなことはないのに、今の彼女から微かに『今年の夏』の気配を確かに感じた。
「……違う。あんなもんじゃなかった。あれはもっと異色の埒外の怪物。」
でもマウンド上の彼女の一連の所作はまさにエースの風格。どんな相手でも力でねじ伏せる。そういった意思がその佇まいから漂って来る。
あの出会った日と同じように流麗かつ鋭いフォームから繰り出される
「……高いっ!」
思わず、そう言ってしまうくらい三塁ベンチで横から見て、明らかにくそボールと分かるくらい浮いたコースだった。
前の打席では確実に見極められていたコース。
「……えっ?」
思わずといった表情を浮かべたトッキ―は、完全に振り遅れ、体制を崩しながらスイングを掛けに行った。バットはボールの下面を擦り、弱弱しい小フライとなり、マウンドで仁王立ちする久遠さんのグラブにノーバウンドで収まった。
――
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