書き出し祭り

16-1-06 淡い輪郭

【あらすじ】

  ダンサー志望のクロエは、アルバイトでヌードデッサンのモデルをしている。ある日、仕事を終えた彼女は謎めいた女性に声をかけられる。女性の息子は彫刻家で、モデルを探しているのだという。

 女性の持つ不思議な雰囲気に誘われ、連れて来られた屋敷にはたくさんの彫刻が飾られていた──眠る猫、女性の手、目を閉じた少年の顔。どれも美しいが、クロエはどこか違和感を覚えた。

 彫刻家の青年に会い、彼女は違和感の正体を知る……。






【本編】



「美とは刹那であって、永遠ではない」


 動きとは瞬間の連続だ、ダンサーはどの瞬間を切り取っても美しくなければならない。前にバチスト──私のダンスの先生がそう言っていた。

 私は教室の真ん中に置かれた台の上にいる。ポーズは第二アラベスク──睡蓮の上の蜻蛉のようにバランスをとる。十五分ごとにポーズを変えて、静止。

 私を隠すものは何もない。隙間風と視線が私の肌を撫でる。

 私の周りにはイーゼルと美大生たち。彼らは私の輪郭と濃淡を紙の上に写し取っていく。女より男の方が多い。彼らのほとんどは礼儀正しい……仲間と目配せをしてにやけているやつもいるが、彼らはすぐに私が女という肉体であることを忘れる。描いている間、私は光を反射し影を作る物体でしかない。彼らは私の肌の中の骨格をとらえ、止まっていても動き続ける筋肉や静脈を凝視する。

 教室はとても静かだ。紙の上で鉛筆や木炭が削れる音。微かなうめき声、ため息。窓から入ってくる街の喧騒。教会の鐘。私の呼吸の音。

 私は自分が石膏像になった夢想をする。腕の産毛の一本も、つま先の血管も、指先の神経さえも静止する。私はただ、白い壁に浮かぶひび割れを見つめている。ひび割れから滲んだ水分が壁に模様を描いている。止まった私の周りで時が流れ、やがて私の身体もひび割れていく……。

 一匹の蝿が、私の近くに飛んできた。私はそれが脇腹のあたりにとまるのを感じた。でも私は石膏像だ。石膏像は虫なんて気にしない。蝿は数センチほど私の身体を進んだ後、飛び去った。


 仕事が終わると、私はすぐに教室の隅に置かれたついたて・・・・の陰で着替え、バイト代を受け取って教室から出ていく。

 たまに学生からカフェやバーに誘われることもあるが、私は断る。彼らは私のことを石膏像だと思っていればいい。知り合いより、見知らぬ人の前で裸になる方が気が楽だ。

 ヌードデッサンのモデルの仕事を紹介された時── もちろん、ダンサーの仕事だけでは心許なかったというのもあったけれど──良い訓練になると思った。踊りを際立たせるのは完璧な静止だ。動くより止まる方が難しい。最も美しいポジションで止まることができれば、私の踊りはもっと素晴らしくなる。



 教室の外に出ると、扉のところで誰かが待ち受けていた。

「ちょっといいかしら」

 低く、艶のある女性の声だった。私は振り返ってそちらを見た。

 彼女が私より歳上なのは確かだった。もしかしたら私の母親くらいの歳かもしれない。背は高く、品のある顔立ちをしている。髪はきちんとセットされているし、身につけている時計や靴も、質の良いものに見えた……ここでは少し場違いに思われるほどに。

 だが、私が心を奪われたのは彼女の目だった。窓から差しこむ光で、磨かれた琥珀のように輝いている。

 まじまじと見返していると、彼女はもう一度言った。

「お嬢さん、いいかしら」

 私は慌てて答えた。

「何でしょうか」

 こんな人がどうして私に話しかけるのだろう。

「あなたがとても美しかったものだから……ずっと見ていたの。こちらの学生さん?」

 見た目通り、彼女の話し方はエレガントだった。私はできるだけ丁寧に言葉を返す。

「いいえ、ただモデルをしに来ているだけです」

「そう……」彼女は私に一歩近づいた──ひそやかなジャスミンの香りが漂う。「肌が綺麗だわ。大理石のよう」

 私はどう答えればいいか分からず、黙って彼女を見返した。近くで見ると、彼女の瞳は複雑に色が混ざっていた。赤茶色、金、緑……まるで宝石のファイアのようだ。

 彼女は言った。

「あなたにお願いがあるの。いいかしら」

 私は首をかしげた。

「ええ」

「私の息子は彫刻家なの。いまモデルを探していて── あなたを見てすぐにぴん・・と来たわ」

「すみません……私、本当はダンサーなんです」

 彼女は微笑んだ。弧を描く唇には落ち着いた色の口紅。

「素敵……だからラインが美しいのね。なおのことあなたにモデルをしていただきたくなったわ。きちんと謝礼はお支払いするし──ねえ、この後の予定は?」

「ありませんけど……」

「では、お茶でもいかが?それとも──私たち、家をアトリエにしているの。ここからタクシーで二十分くらいかしら。今からいらっしゃらない?少し覗くだけでいいわ。それで興味を持ってもらえたら──それから決めてくれてもいいわ」

 彼女は笑みを深めた。その瞳の奥に謎を隠しているような、甘い罠のような表情。

「では……見るだけなら」

 彼女は歯を見せて笑った──まるで白薔薇の目覚めのように。それから私の腕をとった。

「決まりね」

 彼女はほっそりした手袋をはめていた。


 建物から出て校門に向かいながら、彼女は言った。

「あなた、名前は?」

「クロエです」

「私はジョカスタよ。きっと私たち、仲良くなれるわ」

 門の外は大通りなので、タクシーはすぐに捕まった。

 ジョカスタはドアを開けて私を促した。

「お先にどうぞ」

 落ち着かない気持ちになりながら、私はタクシーに乗りこんだ。

 ゆったりと座っているジョカスタとは逆に、私は少し居心地が悪かった……何か話した方がいいのだろうか。

「マダム──」

「どうぞジョーと呼んで。別に堅苦しくしなくていいのよ」

「……息子さんは美大生?」

「いいえ。ずっと独学よ」

「そう……」

 それ以上何も思いつかず、私はまた黙りこむ。ジョーもときおり私を見て微笑むだけで、何も話さなかった。

 郊外に進むにつれて、徐々に建物は低く、まばらになり、かわりに緑が増えていく。大きな街だと思っていたが、ただ私がちっぽけなだけかもしれない。


 二十分ほど経ってタクシーが停まった。

 たどり着いたのは石造りの屋敷だった。私は門をくぐって二、三歩で思わず足を止めた。

 庭はよく手入れされていた。きちんと剪定された生垣に囲まれて、遅咲きのライラックが柔らかな香りを放っており、赤いポピーが風に揺れ、リンゴの木は白い蕾を膨らませていた。飛ぶ蜜蜂さえ行儀よく見える。

 屋敷は印象派の絵のように美しかった。古びた白い壁に這う蔦も完璧な塩梅で屋敷を覆っている。さらには小さな温室まであった。中で育てられているのはバラだろうか。

 玄関扉まで歩いていたジョーが涼やかに笑った。

「温室が気になるの?あとで案内してあげるわ……まずは中にいらっしゃい」

 私はばかみたいに突っ立っていたのが少し恥ずかしくなった。

 屋敷の中は人気ひとけがなかった。玄関ホールの正面に螺旋階段と、左右に背の高い扉がある。

 ジョカスタは右手の扉を示した。

「そこが息子の工房なの。お茶を淹れてくるから、好きに見ていて」

 彼女は左手の扉の奥に消えた。


 その部屋はとても広そうだった。背の高い窓のカーテンは半開きで薄暗く、色々なもののシルエットは見えるがその正体は分からない。電気のスイッチを見つけられなかったので、私はそっとカーテンを開いた。

 部屋は白い……というより、色褪せたような印象を受けた。壁紙は貼られておらず漆喰が剥き出しで、天井に優雅な照明がぶら下がっていたが電球は入っていなかった。

 木製のテーブルや床の上に、作品がおおむね綺麗に並べられていた。彫刻たちは白い石でできていて、彩色は一切されていない。

 人の右手。おそらくは女性のもの。薬指には指輪の跡まである……指輪はない。

 丸くなって眠る猫。柔らかな毛皮の下の骨格まで感じられそうだ。思わず手を伸ばしたが、当然その毛皮は硬かった。

 木の枝……オリーブだろうか。風が吹けば揺れそうなほど繊細に作られている。葉脈の一本一本まで気が遠くなりそうな細かさだ。

 馬の足。縁が少しギザギザの蹄から三十センチほどしか作られていないのに、張り詰めた腱や筋肉から、その先にある重みを感じる。

 それらはとても美しかったが、私は何となく違和感を覚えた。作品を損うようなものではない……だが、どこか奇妙だった。

 私は奥に進み、別のカーテンを開いた。

 その一角には、人の身体の一部を模したものが雑多に置かれていた。たぶん男性の身体で、何かの習作なのか、繰り返し形作られている。よく見ると少しずつ大きさが異なっていた──左肩から左腕、右腕から胸部、右足から脛、左膝から腰、何かを握る手、指し示す指……。

 そして、顔。

 それらは壁際の机の上に並べられていた。まず目に入ったのは幼い少年の顔だった。仮面のように顔の部分だけ。綺麗な顔立ちだが、やや作りが荒いような気がする。隣にはもう少し成長した、おそらく同じ少年の顔……その隣にはさらに成長した少年の顔、というように続いていき、大人になるにつれて作りも繊細に、精巧になっていく。角張った輪郭と、痩せ気味な頬、歪みなく通った鼻筋、薄い唇、そして閉じられた瞼。

 まるで石膏で型を取ったデスマスクのよう……。


 机の端まできて、私はふと顔を上げた。

 そこには彫刻とそっくりの青年が立っていた。仮面たちとは違い、彼は目を開いていた。

 驚いた私は咄嗟に動くことができず、ただ彼を見返した。

 暗い色の髪には癖があり、あまり外に出ていなさそうな白い肌、背は低くないが痩せて鋭い印象がある。

 彼は母親と同じ琥珀色の目をしていた。真っ直ぐな眉毛の下の、長いまつ毛に縁どられた宝石。

 彼はどこか遠くを見つめながら言った。

「母が客を連れて来るなんて珍しい……」

 その目は私の姿を映していなかった。私はすぐに気がついた。

 彼は盲目だった。

 扉の方からジョーの声がした。

「彼が私のピュグマリオンよ」



※注

・ピュグマリオン:ギリシャ神話に登場するキプロスの王、彫刻家。




⚫︎結果

1位票:10

2位票:5

3 位票:6

合計:46pt


会場順位:同率5位/25

総合順位:同率19位/100

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