善'と大陽

山本貫太

一、善'と大陽

先輩、と呼べるのは大陽だけだった。本当は野村太陽で「'」のつく太い方の太陽だけど「俺は太い男じゃなくて大きい男になりたいんだよ」と言っていたし、いつも名前を書くときは「大陽」だったから、おれにとっても大陽は大陽だ。


「じゃあ、太陽先輩の『'』、おれにくださいよ」


大陽先輩はへらっと笑ってから、少しだけ間をあけて「いいよ」と言ってくれた。だからおれはその日から河田善じゃなくて、河田善'になった。答案用紙に善'と書いても特に何も先生は言わないし気づかないけれど、大陽先輩に見せると「本当にもらわれちまったんだなあ」と笑ってくれる。その後、毎回ひどい点数も笑われるけれど、そこも含めておれはうれしい。


大陽先輩は本当は先輩じゃない。確かに年齢はおれより一つ上だし、かつては本当に先輩だった。けれども、大陽先輩は留年した。高校を留年。進学校のウチでは前代未聞でちょっとした騒ぎになった。おれも、一体どんな不良男、非行男か気になって、新学期早々、真っ先にソイツのいる教室を目指した。


一発で留年男だとわかった。ソイツは教室の、輪の中心にいた。髪の毛はロングというより切るタイミングを逃し続けたような、けれど、不思議と清潔感のある長髪だった。後ろで一つに束ねられているからかもしれないし、どこか寂しそうな整った顔顔立ちをしていたからかもしれない。もしくは、今、先輩のことをよく知ったから、人と話しただけで逐一手を洗いに行くような潔癖さを知ったからかもしれない。明らかな校則違反だけど、おれも茶色に染めているから人のことは言えないな、と思う。


「おや、俺に……、タイヨウに何か用かな?」


囲んでいた輪がしんと静まり、一斉におれと目があった。おれは何も言えず、その場を離れた。今思うとなんであのとき話しかけなかったのか、よくわからない。


廊下を歩いていると惨めな気持ちになって、歩きながら指の関節を何箇所も鳴らした。焚き火が爆ぜるような、割り箸を折るような音が響く。


「だめ。関節を鳴らすと指、太くなるよ」


おれよりも一回り大きな手に掴まれた。決して力強くはないけれど、それでも確かにふりほどけない強さで。


「俺に用だったんだろ? 悪いね、抜け出すのに手間取って」


少しだけ、おれよりも高い位置から。けれど、真っすぐに大陽先輩はおれの目を見つめた。

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