第88話 気づいて――ほしいの?
「ねぇ、フィナン。驚かないのね」
ズキン――痛みは、果たして現実にあったものなのか。
不安を抑え込むべく胸の前でこぶしを握り、顔色をうかがうように問いかける。
きっと今のわたしはこのまま倒れてしまいそうなほどにひどい顔を色をしている。幸いなのは周囲が暗いことで、けれど、肩を貸して歩く中、フィナンの顔は近くにありすぎた。
ちらとわたしの方をうかがうその顔は、ほんの少し傾けば唇が頬に触れてしまいそうなほどに近い。瞳の中、自分の姿が映っている気がしてドキリとして、そのせいか、勢いよく顔を背けてしまった。
「……さっきもそんなことを私に聞いていましたよね?」
後頭部に投げかけるような問いに、一瞬息が詰まる。けれど、今更にもほどがあると、そう言い聞かせれば鼓動も、呼吸も落ち着いてくる。
先ほどの話の流れを必死に思い出しているらしいフィナンは、結局わからなかったようで首をひねる。
――これだけヒント、というか答えが目の前に置かれて、本当に気づいていないの?
そんなフィナンを前に、フィナンなら大丈夫だという気持ちと、フィナンに裏切られたらどうしようという不安がぶつかり合い、わたしの心は悲鳴を上げる。
気づいてほしい。気づかず、このままの関係を維持したい。
進歩と停滞。天秤の上にのった両者は絶妙なバランスを保つ。それでいて、天秤は両者の重さをはかりかねるように、右へ左へと傾いていた。
ゆらゆらと、視界が揺れていた気がした。あるいは揺れているのは、何やらうんうんと首を縦に振っているフィナンの頭部。
本当に、気づいていないの?
息が苦しくて、胸元の衣服を握りこむ。
大丈夫かと視線で尋ねてくるフィナンを手で制して、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
さっき、わたしは思ったはずだ。
フィナンになら、裏切られてもいいと。
ならば、ここで言及せずにいてどうするというのか。
「…………フィナンは、わたしのことを、どこまで知っているの?」
――曖昧な問いかけに逃げた。
どうとでも取れる意味。けれど、確かに聞きたいことにつながる質問。
どこまで知っているか、その既知の範囲にそれがもう含まれているのか、あるいは、まだ知らないふりを続けてくれているのか。
少しでもバランスを崩せば頭から真っ逆さまに落ちていきそうな、風が吹き荒ぶ渓谷にかかったつり橋の上を歩いているような気持だった。
「ええと……クローディア様はレティスティア男爵家の長女で、幼少期から山で狩りをするようなお転婆、フレッシュ・ボールをかじって生きてきた……」
ツッコミどころの多い言葉に、けれどぐっとこらえる。
わたしの主食が
「アヴァロン殿下の妻で、そのことを誇りに思うわけではなく、どちらかと言えば面倒だと思っていますよね。あとは、世界樹の紋章を右手の甲に持っていて、アマーリエ様という親友がいらっしゃって、ナイトライト侯爵令息様とも仲がいい……で、あってますよね?」
聞きたいことは、そこじゃない。まだ出ていない。
というか、本当に余計なことばかり口にしている。
じっと、言い逃れは許さないとばかりにまっすぐフィナンの目を覗き込む。
わたしよりも少し背の低い彼女は、逃げるように視線を伏せて、やや迷う様子を見せる。ただ、フィナンに肩を貸している都合上、わたしから逃げることは叶わなかった。
逃げるのは、わたしが許さなかった。
沈黙がわたしたちの間に広がる。触れ合う部分の熱が強まった気がしたのは、多分、吹き抜ける風の冷たさに体を寄せあったから。
「……いい、んですね」
それは、風にかき消されてしまうくらいに小さな問いかけだった。
うんとも、いいえとも、口にすることはできなかった。
言葉にしてしまえば変な遠慮が生まれてしまうという考えが一つ、そして、フィナン自ら踏み込んできてほしいという思いがあったから。
貝のように口を閉ざし、言葉を待つ。
静寂の中、カサカサと枯れ葉が石畳の上を転がっていく。
これを口にしてもいいのかと、不安げに、けれど今度は、はっきりとした決意をもってフィナンは口を開く。
それから――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます