第86話 帰宅

 ――フィナンを捕まえていたのは、酔った男たちだった。


 運悪く奥まった酒場の方へと近づいてしまい、そこで赤ら顔の男たちに見つかり、手籠めにされそうになっていたという。大通りではそうした酔っ払いもあまり現れることは無いだろうけれど、夜になっても開いている店が少なくないこの辺りであればさもありなん。

 まあ、そんな場所に迷い込んだフィナンは、不幸という一言では表現しきれないほどに悪運に愛されているのだろう。


 不運とは言い切れないのは、私が間に合ったから。


 今更ながらに安堵が全身に広がり、その場に崩れ落ちてしまいそうになって、フィナンを支えにしてこらえる。

 突然体重をかけられたフィナンは目を白黒させ、必死にわたしを支えようと体に力を入れてプルプルと震えていた。


 男たちももうどこかへ行ってしまって、周囲にはただ静寂だけが広がっていた。

 少し前まで聞こえてきた、近くの酒場で盛り上がる声も今は届かない。


 それはまるで、極寒の季節の中、住処に引きこもって丸まって寒さを耐え忍ぶ、大自然の中の獣たちのよう。


 死を運ぶ気配を前に息をひそめた町の一角はあまりにも冷たく、あまりにも排他的だった。


 いつまでも、こんな場所に留まっているわけにはいかない。


 安全性もそうだし、何より、見回りの騎士に見つかって怪しまれるかもしれない。今更かもしれないけれど、わたしたちがここにいることがばれるとまずいし、騎士たちがわたしたちを――特にわたしを、一方的に見知っている可能性は決して低くないのだから。


 それに何よりも、寒い。


 冬も半ば。日中はまだ暖かい日もあるけれど、日が暮れるとめっきり冷え込む。

 走り回った汗がひき始めているからか、フィナンは恐怖とは別の意味でガタガタと震え始めていた。


「……あっ」


 まあ、膝が笑っているし、腰も抜けがちだから、まだ恐怖から回復しきっていないというのもあるとは思うけれど。


 支えにしていたフィナンが倒れこみ、当然、フィナンに体重を預けていたわたしもまた冷たい石畳の上に投げ出された。


 そういうわけで、わたしたちは互いに肩を貸して――腰を抜かしたフィナンに肩を貸して、王城へと帰還した。


 こっそりと城に戻る最中、幸いというべきか、誰にもバレることは無かった。


 王城内の見回りの騎士も、いつもより少なく、タイミングが乱れている。すっかり脱走に慣れてしまったから、そういうこともわかってしまう。


 それはたぶん、すでにアヴァロン王子殿下が襲撃に遭った一件が騎士たちの間で共有されているからだろう。

 おそらくは当番だった騎士も応援に駆り出され、状況調査などに追われているのだと思う。


 一国の未来の王候補が襲われたとあってはそのような大事になっても仕方がない。

 そして、大事になった以上、わたしたちは怪しまれないようにする必要がある。


 例えば、王城を抜け出していたことがばれないようにすること。

 抜け出したとばれようものなら、真っ先に疑われるに違いない。


 何しろわたしには、殿下を害するがあるのだから。


 ただ、隠れ潜んで部屋に戻っても、わたしたちが王城に留まっていたと証言してくれる確かな相手が居ないから、アリバイが無い。

 一応は部屋にこもっている扱いになっているけれど、何をしていたか不審がられては面倒で、そもそも使用人の証言なんて実際には何の当てもないもの。

 わたしは使用人の証言を丸め込めるような立場なのだから――見る目が無い人間からというか、事実だけを見れば、という限定であって実際にはわたしに彼女たちを完全に掌握することなんてできやしないのだけれど。


 つまりは、泣きはらしておかしな顔をしているなんて、そんな明らかに不審なことはあってはいけないのだ。


「帰りましょうか」

「はい! 帰りましょう!」


 帰る――あの場所はちゃんとわたしの「居場所」になっているのだと。

 考え、そして、肩を貸しているフィナンを思う。


 フィナンがいてくれるからこそ、きっとあそこは、わたしの居るべき、心を落ち着けられる場所になっているのだと。


 ありがとう、フィナン――言葉はやっぱり、恥ずかしくて口をついて出ることはなかった。

 さっきは、もっとずっと恥ずかしいことを言っていた気がするのに。

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