第5話 香水(三つ目の扉)

 景色が白く染まる。


 今度は慌てず、のんびりと目を閉じて、開けた。


 あのアパートにいた彼女とはまた違った感情の色をした目が、じっとこちらを見ていた。


「ただいま」

 おかえり、と手を添える彼女に、顔を伏せる。勇気を振り絞るように握られた拳に力を込め、聞いた。

「母は君に優しかった?」


 ゆっくり考えた後に、いつも通り首を傾げた彼女を見て、彼は力を抜いた。


「おかえりなさいませ」

 青年の声で安心するようになっていた彼は、黙って首を上下に振る。

 頭を下げるといってもいいほど深いそれに、青年は少しだけ、口角を上げたように見えた。


「それでは、次に参りましょうか」

 改めてじっくり見つめた青年は、初めの冷たい印象とは大分変わり、下がった目尻と眉に優しさが見えた。

 だが唯一、瞳だけは深い海のように静かで、青く濁っていた。

 それですらも、今の男にとっては好ましいものだった。


 また差し出された手を取り、暗い廊下らしいところを歩いていく。

 トントン、とお互いの足音だけが暗闇に響き、吸い込まれていくが、全く恐怖はない。


 ぱっと明るくなった廊下に、目が慣れるまで閉じておく。

 ゆっくりと開けると、電子機器が入っていると思われる、これまでとはまた違った重苦しさのある扉があった。


「ここで、最後となります」

 振り返った青年は、男の心を見通そうとするかのように、じっくりと二人を見つめる。

 やっぱり綺麗な瞳だなと思っていると一瞬、目尻が歪み、少しだけ驚かされた。


 失礼、と青年は顔を覆う。手を退けた時、先程よぎった影はどこかへ消えていた。


「そのままでも大丈夫なのに」

 思わず口から出た言葉に、男自身が驚き口を塞ぐ。青年の方を見ると、面白そうに笑みを浮かべていた。


「ありがとうございます」

 じんわりと顔を歪めて、愉悦を覗かせる。


「本当に、面白いな」


 温度が下がった廊下、チカチカと光が点滅する。

 綺麗な洋館の中では明らかな異変にも関わらず、目を向ける者はいない。


 パッと再度点いた光の中で、青年は正しく笑顔になっていた。


「行ってらっしゃいませ」

 一歩下がり、道を譲る青年に、改めて深々と頭を下げる。

 もう会えないだろうということに後ろ髪引かれる思いのまま、それでも男は、扉を開け放った。




 ぽつんと部屋の中に何かがいる。

 目を凝らすでもなく、正体が分かった。


「ルナ」

 にゃあ、と愛らしく甲高い声を上げ、彼女が寄ってくる。長い尻尾を擦り寄せ、頬を足に擦り付ける。

 腰を下げて彼女を抱き上げると、灰色の毛並みが顔に当たって幸せな気持ちになった。


 ヴヴ、と低い唸り声を上げる彼女に、びくりと身を震わせる。彼女の視線の先を見ると、すぐに原因が分かった。それは、あの目だった。


「父さん」


 怒りに彩られた声で、男が呟く。それは彼女にも伝わり、一層鋭い唸り声を出した。

 真っ白で穏やかな二人の城に、異質なものが立っている。それは大股で部屋に入っていき、住人である猫に目もくれず、箪笥たんすに駆け寄った。


「ふぎゃー!!」

 そいつに向かって行く小さな姿は、今まで男の隣にいた彼女だったのか、

それとも幼少期の、親というものが万能ではないことを知らなかった男のそばにいた彼女か。


「いいから! るな!」

 悲鳴を上げて駆け出す男の手は、彼女に届くことなく、空を切った。

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