第3話 香水(一つ目の扉)

 男の意思とは関係なく、目に見える景色が変わる。

 眩しさで目が眩んだのかと思ったが、どうやら違うようだ。


 そこは、一面銀世界。


 急に変わった世界に、瞠目どうもくする。だが、その目すら自分のものであるという実感がなかった。

 体がなにか他のものになってしまったような、どこかから自分に指令を与えているような、そんな感覚。

 なのに、不思議と不安や不快感はない。

 男は、なにかを思い出したようにふと、散歩に行くような気軽さで、歩き出す。

 銀世界の遥か先で、彼女の声が聞こえた気がしたのだ。


「るな」


 名を呼んで、手を差し出すと、出会った当時の彼女が、冷たそうな雪の上にぽつりと立っていた。

 叫び、近づこうとする男に、彼女は声を出して立ち止まらせる。

 その声は切実に雪の中を滑り、彼の元へと届いた。近づくことが出来なくなった彼の顔が、どうしようもなく歪む。


「守ってやれなくて、ごめんな」

 子供のように泣きながら言う彼に、彼女はひょいと視線を動かした。


「うわっ!?」

 唐突に視界へ飛び込んできた青年に驚いて、尻餅をついてしまう。

 心配そうに見つめてくれている彼女に大丈夫だと目で伝えて、彼を見つめる目のまま微動だにしない青年に向き直る。


「僕の代わりに、彼女を現世に戻してください」

 ドロリとしたまっすぐな目をした彼に、興味のなさそうな目が向けられる。

 あまりに空っぽで、普段の彼ならば間違いなく、関わらないようにするたぐいの人の目だった。


「そんなこと、できるわけないじゃないですか」

 細く白い首を傾げ、当たり前のように言う。


「まあ、それはともかく。行きましょうか、お二人とも」

 返事を待つことなくどこかへ迷いなく歩き出す青年に、二人は先程の願いを繰り返すでもなく、当然のようについていった。


 暗闇に、ポツリポツリと見覚えのあるものが浮かび上がっていく。


 一人で母親を待っている時によく食べたカップラーメン。


 いじめっ子に破かれた教科書。


 母親にこびりついていた香水を辿って手に入れた、シンプルな瓶。


 玄関から出るとき身に付けていたスーツに、たまに大きいボストンバックから覗いていた、上品で華やかなドレス。


 足を止めてしまった彼に、青年も立ち止まる。


 くるりと半分彼の方を向いて、感情を浮かべぬまま、薄い唇を開く。


「どうぞ。あなたなら触れても問題ないはずです」

 はっきりとは分からなかったが、納得できた彼は、それらに手を伸ばす。

 触れた瞬間、とんでもない違和感を味わった。

 これは、自分の手ではない。

 こんな、ささくれ、大きく、大人のような手は。


 ハッと横を向くと、彼女が彼の腕を掴んでいた。

 爪が食い込むほど握られた腕の鋭い痛みと、彼女の心配気な表情に、正気を取り戻す。

 針ネズミのような視線で青年を睨み付ける彼女に、頬を緩ませた。


「大丈夫だよ。ありがとう」

 宝石のような瞳で彼の顔を覗き込み、本当に大丈夫かと確認する彼女の頭を撫でる。しっかりと手入れされているそれは、安心する柔らかさだった。

 和らいだ彼女の視線に後押しされ、彼は再度手を伸ばす。

 カップ麺に手を触れると、懐かしい匂いがした。


 とあるアパートの一室、そこでは少年が一人、ランドセルを机代わりにしてガリガリと何かを書いていた。

 よし、と呟いた声は空虚に消えるが、気にするそぶりはない。ランドセルのなかに小学生らしい乱暴さでノートを突っ込み、外から聞こえてくる夕方の音楽に顔をしかめる。

 よし、と呟く声に今度は諦めが滲み、小学生らしからぬ疲れの色があった。

 立ち上がり、昔ながらのジャラジャラとしたビーズを潜った先にあるキッチンへと入っていく。フライパンとまな板を手にとり数歩進んで、あ、と悲嘆を漏らし立ち止まった。

 少年がチラリと後ろを向くと、ガスの横に大きく×がついたホワイトボードがかかっていた。ため息をつき、少年でも一番上まで手が届くほど小さな冷蔵庫を開けて、物色する。

 卵を取りだし、ごはんをよそう。ホカホカと湯気を上げる様が、唯一の心の拠り所だった。

 いただきます、と手を合わせ、そこで景色が暗転した。

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