【032】 惨劇の真実

 雲ひとつない夜空の先に、ほのかに青みがかった白い満月が浮かびあがる。


 その月を覆うように広がる青い光のオーロラは、大気中に漂う魔素の影響で光が屈折し、風でなびくカーテンのように見えるのだと言う。


 そのことをナナリーゼから教わったのは今から何日前のことだったか。病室から夜空を見上げるイオリには、それを思い出す余力すら残っていなかった。


 椅子に腰掛けたまま、イオリはただ項垂うなだれる。病室のベッドで眠り続けているのはゼラフィーナだった。


「ゼラ……」


 彼女の名を呼びかけ、返事のない沈黙に耐えきれず視線を落とす。もう何度目かもわからないこの行為を、イオリは彼女の隣に座ってからずっと繰り返していた。


 無限に続く沈黙は、イオリにこれまで起きたことを思い返させる。


 未だ静かに眠り続ける彼女の首筋に残る、火傷のような手形のアザ。美しい首筋を何者かによって締め上げられたのだろうその痕が目に入るたび、イオリの中には酷い自己嫌悪の波が押し寄せた。


 わかっていた。そして覚えていた。他でもないイオリ自身が、ゼラフィーナの首筋を掴み、締め上げたと言うことを。


 あの日。イオリが二度目の暴走を起こし、化け物たちを蹂躙し、トルナスを再起不能になるまで追い詰めたあの後。


 そして衝動のままにナナリーゼに襲い掛かろうと、その歯牙を自身の妹へ向けたイオリを止めたのは、他でもないゼラフィーナだったのだ。


『イオリ様……! あなたは、私が止めます……!』


 ナナリーゼとイオリの間に立ち塞がり、息も絶え絶えに両手を広げた彼女の姿が瞼の裏に蘇る。


 大量の血を流し、起き上がる力も残っていなかっただろうに、彼女はそれでも立ち塞がった。全てはイオリを止める、そのために。


『邪魔だどきやがれエ!! 死にてえのかア!!』


 理性が消え失せ、衝動に支配されたイオリの前に立ち塞がったゼラフィーナは、咆哮するイオリに恐れることなく確かにこう言った。


『あなたは私はお守りします、イオリ様』


 と。


 そして彼女は、自身の右腕に嵌められた銀の腕輪――恐らくは魔力抵抗――を外し、イオリと真正面から戦った。


 彼女が使ったのは、冷たい闇の中から無数の黒い腕が這い出てきた不気味な魔法だった。


 イオリたちを襲ったあの化け物たちの腕だけが具現化されたような、不気味で恐ろしい魔法だった。


 真っ黒な腕を操るゼラフィーナと真っ赤な炎を操るイオリは、互いの全力をぶつけ合い、そして今に至った。


 彼女の使った魔法がこの世界では禁忌とされている黒色コルザの魔法だと知ったのは、全てが終わって再びナナリーゼと言葉を交わした際のことだった。


 今ならわかる。ゼラフィーナは守ってくれたのだ。使うだけで死罪になりかねない力まで使って、他でもないイオリのことを。


 今イオリの左腕に嵌められているのほ、元々はゼラフィーナが使っていた銀の魔力抵抗だ。


 もしあの時、ゼラフィーナが立ち塞がり、そしてイオリとの戦いの中で彼女の魔力抵抗をイオリに嵌めてくれなかったなら、イオリはきっとナナリーゼのことを深く傷つけていただろう。


 或いはその命を奪うことにさえなっていたかもしれない。


 そしてその時、イオリの心はもう二度と立ち上がれなくなっていたはずだった。


 ゼラフィーナはそれがわかっていたからこそ、重症の体を無理矢理起こして、暴走したイオリに対抗するため禁忌の力まで解き放って、自身の命を危険に晒してまでイオリの心を守ってくれたのだ。


「……ッ」


 唇を噛み締め、両手に力を込める。力に溺れた己が何をしたのかを、改めて噛み締めるために。


 あの場にいた者たちは、ゼラフィーナ以外の全員が、負傷の程度こそあれ既に意識を取り戻した――生きている者に限れば。


 だからこそ、後はゼラフィーナだけなのだ。


 ベッドの上に横たわる彼女の体に取り付けられた、無数の装置や道具をみやる。


 それらに繋がれたまま静かに寝息を立てている光景は、かつての母の姿を彷彿とさせて、イオリの胸をより痛めた。


『お父さんが必ず迎えに来てくれるから』


 日々痩せ細っていく身体で、痛々しい笑みを浮かべながら、母はいつもそう言って笑っていた。そんな母に何もしてやれない、己の無力を何度呪ったかわからない。


 ゼラフィーナの今の姿はその時の母と重なり、己の無力さや弱さを痛感させられた。


 力さえあれば全てが守れる。全てを変えられる。そう勘違いしていたのだ。


 望んだはずの力は守るべきものを傷つけ、あろうことかゼラフィーナを生死の境へ追い詰めた。無力だった頃より、もっと酷い結末だ。


『お兄様が居なければ、私たちは恐らくここには居ません……だからご自分をあまり、責めないでください』


 ナナリーゼと言葉を交わした際、イオリを慰めるように彼女はそう言ったが、彼女の腕や足に巻かれた包帯がイオリの過ちの大きさを物語っていた。


 歯を食いしばり、拳を握り、何度も何度も自分を責める。それでも全く足りないほど、後悔の波は止まることを知らない。


 そして、そうやって自分のことを責めるたびにゼラフィーナのあの悲しそうな微笑みが脳裏をよぎるのだ。


 イオリにはわからなかった。なぜ彼女が、そこまで自分のために無茶をしてくれたのか。


 だからこそ聞きたかった。今もなお、月明かりに照らされて静かに眠り続ける彼女の真意を。


 そして謝りたかった。力を持つものの責任。それが何かを理解すらせず、ただ思うがままに振るった自分の愚かさを。


 心が震え、言葉が漏れる。


「母さん……俺、どうすりゃ良い? もう、帰りたい……会いたいよ……」


 ずっと押し殺していた感情が、それを口にした途端一気に溢れ出た。言葉にするともう止まらなかった。涙が、嗚咽が漏れ始める。


 向こうにいる間は義務も役目も責任も、そんなことを考える必要はなく、ただ日々を生きるだけで許されたのに。


 こちらの世界で力を得てしまったがばかりに、イオリはこんな目にばかりあっている。


 イオリが望んだ力は、こんな物のはずじゃなかった。力さえあれば、もう何も失わなくて良いはずだった。


 涙を嚙み殺すように、ゼラの青白い手をぎゅっと握り締める。どうか彼女が目を覚ましますようにと祈りながら。


 するとその時、そんな祈りが届いたのかは定かでないが、彼女の指が僅かに動いた気がした。


 気のせいかと思い彼女の顔に視線を向けると、ゆるゆると、長いまつ毛が持ち上がる。その向こうには、彼女の美しい瞳が覗いていた。


「……ゼラ?」


「――ぉリ、様……」


 震える唇でイオリの名前を呼ぶ彼女は、イオリが握る指先にきゅっと力を込めた。


「ゼラ……! よかった、大丈夫か? 今、医者を――」


 言いながら腰を浮かすイオリだったが、そこで言葉に詰まる。消え入るような声で「待って……」とゼラフィーナが呟いたからだ。


「行かないで……イオリ様……」


「けど……」


 もう一度、縋るように彼女はイオリの手を握る。まるでこの手を離さないでとでも言うように。


「……わかった。痛いところとか、気分が悪いとか、そう言うのはないか?」


 ゼラフィーナの訴えに負けて腰を下ろし、イオリはそう問いかける。すると彼女はふるふると、しっかり見ていなければ見落としていただろうほどに弱々しく、しかしそれでもイオリの問いに否定を返した。


 後ろ髪を引かれるような気持ちだったが、ここで彼女の手を振り払えばもっと後悔しそうな気がした。諦めて、握ったままの彼女の手を布団の上に持っていく。


 イオリの視線はその手に向けられたままだった。彼女の表情を伺う勇気が無かったから。


 最初の一言。言うべき一言のために、震える唇に力を込める。


「ゼラ…‥俺……」


 しかし、イオリの言葉は最後まで紡がれることはなかった。


「今夜は……月が、綺麗……ですね」


「……え?」


 あまりに場違いな言葉に、思わず言葉を失ってしまう。その拍子、あれほどまでに見るのが怖かったゼラフィーナの顔に視線が向いた。


 彼女は、相変わらず美しい造形の横顔で、月明かりに目を細めながら言葉を紡いでいた。


 繋がれたままのゼラフィーナの手のひらに、ゆっくり熱が戻っていく。相変わらず青白い肌をしている彼女の手のひらは、ほんのりと暖かい。


 何から謝れば良いのかわからないくらい、謝りたいことがたくさんあった。


 自分の浅慮で巻き込んでしまったこと。守ってやれなかったこと。イオリを庇って傷ついてしまったこと。それどころか、彼女を傷つけてしまったこと。


 けれどそれらを口にする前に。


「……あなたを、こちらに、呼び戻さなければ……こんな事には、ならなかったはずなのに……ごめんなさい、イオリ様……」


 震える声音で、絶え絶えの吐息を漏らしながら。それでもゼラフィーナは、確かにそう言った。

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