【019】少しばかりの不安
「なーにが『魔法名はいちいち口に出さずとも良い』だよあの顔色最悪教師! 他の奴らだって声出してたじゃねえか! 貴族なら別に良いってか!?」
その日の夜。寮の自室でナナリーゼと食事を待つ間、イオリの不満は爆発していた。議題はもちろん、昼間に受けた魔法学の授業についてだ。
アスクタートの陰険で鼻にかかるようなねっとりとした声音を最大限モノマネして、イオリは昼間言われたことをそのまま口にする。
「『私は第二階梯魔法を放てと命じたのだ。その意にするところは必要最低限度の魔力で魔法を生成すること。お前の魔法は威力ばかりであまりに非効率、不格好だ』――じゃねえっつうの!」
先に運ばれてきていた水を一気飲みし、カップをテーブルに叩きつけるように置く。魔力抵抗をつけているとは言えイオリの人間離れした腕力でも壊れない辺り、相当な強度のカップらしい。
鼻息を荒くするイオリを見て、向かいに腰掛けるナナリーゼは相変わらず淡々と、但し多少の同情と共に困り顔を浮かべた。
「それは……災難でしたね。いえ、相手が悪かった、と言うべきでしょうか……言ってみれば、お兄様はアスクタート先生にとって政敵ですから」
政敵――つまり、政治上の敵。ナナリーゼが口にしたその単語の意味を図りかねて、イオリが「どういうことだ?」と首を捻るとナナリーゼは口を開いた。
「アスクタート先生は四大貴族の一家、アスクタート家のご出身です。そして、アスクタート家はペルケルズ公の派閥――排外派に属しています。そのペルケルズ公は今回の魔王候補選定戦に、同じ四大貴族であるディルヴィアン家の嫡子、トルナス・ディルヴィアンを推している……ここまで言えばわかりますか?」
つまり、あのネフラ・アスクタートと言う教師は、トルナス・ディルヴィアンを応援する味方と言うことらしい。最悪だと言う言葉以上に、今のイオリの感情を表現できる言葉は無いだろう。
「けど、教師だろ? そんな政治の話を学園にまで持ち込むなよ……」
「むしろ、教師だからこそです。この学園は表向きこそ平等公平を謳っていますが……その実態は、この世界にはびこるあらゆる政治や人種、国家間の問題の縮図です。教師はもちろん生徒に至るまで、その全てが各国の代表ですから、派閥争いに繋がるのも当然と言えます」
「何だそれ、ここでも政治かよ……学校は勉強のための場所だろ?」
「だからですよ。この学園を卒業した生徒たちは、やがて国に帰り技術や知識を活かすことになるでしょう。そうなればそこで物を言うのは力と人脈。だからこそ、この学園で力を学び、人脈を広げるのです」
「……本当、嫌になるぜ」
学校に通って勉強し、強くなって魔王に勝つ。単純な話だと思っていただけに、その裏に絡まるしがらみの数々を知り、思わず苦い表情になる。
しかしナナリーゼは意外にも「きっと向こうも焦っているのでしょう」と続けた。
「これまではトルナス・ディルヴィアンが魔王候補でほぼ決まりでしたが、お兄様の登場で旗色が変わりました。叔父様も内心、あまり心穏やかではないと思いますよ」
「ふうん……ん? 叔父様?」
その時、ナナリーゼが不意にした言葉にイオリは引っかかりを覚えた。
すると一瞬、あ、と言うような顔をしたナナリーゼは、すぐに表情を改めて涼し気に言う。
「……そういえば、言っていませんでしたか。アスクタート家は私の母の生家で、ネフラ・アスクタート先生は母の兄。つまり、私の叔父にあたる人です」
「叔父って……何だそりゃ、思い切り身内じゃねえか! じゃあお前、身内と政治で争ってんのか?」
思った以上に身内だったことに声を上げると、ナナリーゼは相変わらず涼しい顔で「珍しい話ではありませんよ。血の繋がりより立場や信念が物を言う世界です」と続けた。
「私はトルナスとの結婚なんて御免ですし、母やペルケルズ公のように権力の独占にも興味がありません。それは民のためにならないと考えていますから。ですからお兄様には、魔王になってもらわねば困るのです」
幼いながらもナナリーゼは色々と背負わされているらしい。思わず同情してしまう。だからいつも小難しい話ばかりして、友達がいなくなってしまったんだな、などと失礼な考えも過ぎりつつ。
「そういうわけで、この学園は既に政治の中心です。その上、貴族の魔人は殆どが排外派。気をつけてくださいね、お兄様。敵がどこから現れるかわかりませんよ」
「……敵、か」
神妙が面持ちでイオリが呟いた頃、マテューが料理皿を手にして部屋に現れた。
「三国交易の要と言うだけあって、市場で世界各地の食材が手に入るもので、つい買いすぎてしまいました。食べきれなければ明日の昼食に私が頂きますので、食べきれる分だけどうぞ」
さらっと言いながら食卓に並ぶのは料理、料理、料理の数々。イオリの見たことある料理や向こうの料理に似ているものから、何が何やらよくわからない料理まで様々な品が溢れかえる。
「これ、全部マテューが作ったのか!?」
マテューの「腕によりをかけて作りました」と言う言葉を隣に、イオリの頭の中が一瞬で政治の話から食事への関心へと切り替わる。どれもが実に美味しそうな料理ばかりだ。
「こんなにあるならゼラも誘えば良かったな」
授業の終わりに軽く会話し、そして寮の前で別れた婚約者の姿を思い描く。彼女もこの場に居たならきっと喜んだに違いない。
しかしナナリーゼは、予想に反して「誘っても来ないと思いますよ」と冷たく告げた。
「あの人は他人の作った料理を口にしませんから。何せ、陛下の誘いすら断って自炊するほどですし。私はあの人が自分の手料理以外に何かを口にしているところを一度も見たことがありません」
「そうなのか? そりゃあまた……なんで?」
「さあ。昔、毒を盛られたとか聞いたことがありますが、実際のところはわかりません。あまりそう言う話をしないので」
「……毒」
思わず表情が歪む。考えもしなかったが、確かに毒を盛られるという可能性もある。ゼラフィーナに限らず、当然イオリも。
イオリの考えを読んだのかは定かでないが、ナナリーゼは「少なくともここなら大丈夫ですよ」と告げると、マテューの料理を口に運びながら続ける。
「そもそも、あの人は自分の事をあまり話したがりませんから。おかげで何を考えているか……」
言われてみれば、イオリもゼラフィーナのことをあまり知らないことに気付いた。好きな食べ物も、嫌いな食べ物も。
「お兄様もあまり、あの人に気を許さないようにしてください。あの人にはまだ、お兄様に見せていない一面がありますから。裏表が激しいんですよ」
「……」
イオリの知るゼラフィーナは、その涼やかな印象とは裏腹に表情がころころとよく変わる、親しみやすい女性だ。ナナリーゼが言ったそれが、本当にゼラフィーナのことを指しているのか信じきれない。
それに、政治、政治、政治と政治ばかりで、イオリの周りに居る人々は、本当にイオリのことを見ているのかも不安になった。彼らが見ているのは果たして本当に、イオリ自身なのだろうか。
この世界でいったい誰を信じれば良いのか、漠然とした不安が胸中に宿る。
しかしその不安とは裏腹に、アルドラークでの日々は多少の不穏さも残しつつ、不気味なほど穏やかに過ぎ去っていったのだった。
◆
「学園長、こちらです」
夜闇の中、ネフラ・アスクタートの低い声が学園地下の石室に響く。
彼に誘導されて「うむ」と頷いた学園長メルクラニ・ユスティカトルは、その惨状を目の当たりにして低く唸った。石室の中が手あたり次第に荒らされていたのである。
「警備の者は?」
メルクラニが問うと、アスクタートは「全員眠らされておりました。おそらくは、
「魔人か……」
メルクラニの呟きに、更にアスクタートは言葉を付け加える。
「それも相当の、です。この者たちは特に選りすぐった精鋭……第五階梯級程度であれば、ここまで鮮やかに制圧されますまい」
その意味するところをよく知るメルクラニは、どこを見ているのかよくわからない瞳をより一層細めて続けた。
「…‥敵は第六階梯級か。今、クーディレリカ内に該当者は何人いる?」
「公式では私を含めて三名。しかし、
「それは……ちと厄介じゃの。それで、賊の目的は? 何を盗られた?」
メルクラニの問いに、アスクタートは少しばかり逡巡し、そして答える。
「それが……何も取られておりません」
「何も? 何もされておらぬと?」
「はい。賊は学園の地下へ侵入したものの、何も取らずそのまま逃走したようです。目録と照らし合わせましたが、何一つとして被害はありません」
思いがけない回答に、メルクラニはううむ、と唸りを上げた。顎を撫で、「ますます厄介じゃの。目的がわからんとは」と辺りを見渡す。
これだけあらゆるところを引っ掻き回されているというのに、何一つ奪われていないのだという。それが事実なら、別の目的があるということだ。そしてそれは、アスクタートも同じ結論に至ったようだった。
「何かを探している、と言うことでしょうか」
「或いは、既にそれを見つけたか、じゃな。何らかの理由で持ち出せなかったともとれる」
「……如何いたしますか、学園長」
「この件、一旦ワシが預かる。くれぐれも口外せぬようにな。嫌な予感がする……まずはこちらで探ってみよう」
「承知致しました」
「杞憂で終われば良いのじゃが……わしの悪い予感は昔からよく当たるからの」
今夜の月には青い光のオーロラがかかっていた。まるでドレスをまとったような月夜は、今日も静かに更けていく。
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