模倣人生

柊 ポチ

手紙の表




―――誰の人生だ?





茫然自失に立ち尽くす、という言葉は、今の僕に使われる為に生まれたに違いない。そう思えるほどに当てはめられた情景だ。



『私は私の為に生きる。』

「僕は君の人生を模倣する。」



そろそろ毒が回りそうだ。思考の毒だ。


君に敢えて言わなかったけど、人生で呼吸の数が大方決まっているように、思考を巡らす回数だって決まっているはずなんだよ。


考えすぎは毒?―――違うね。きっと違う。断言なんて出来ないけれど、焦点を置くべきはそこじゃない。


思考を巡らすことによってもたらされる毒。血の巡りに近いと考えている僕は、ふと手のひらを見た。限りなく血が巡っている色合いだ。



『重力に逆らえはしないんだ。考えを止めることだってきっと無理なんだよ。どうしてもね。』

「思考の毒は寿命を縮める。供給された思考に、精神の需要が追いつかないんだ。」



端に追いやられた川の水を見ながら、僕たちはそれを話題の一つに上げる。


水が動きを止めたその瞬間から腐り始め、凍りつく様を見て、ああはなりたくないね、と笑っていた。僕はなにも言えなかった。本当にそうか?と自問自答する。


川のせせらぎを聞きながら、夏草の上に腰を下ろす。幾分か冷えた空気に夏の終わりを感じた。

少し考えが纏まった僕は言った。


「この川の水が留まらず進み続けて着く先は、果たして望む場所なのかな。進むに連れて少しずつ川で無くなっていく事実に耐えられるものかな。」


頭の回転の早い君だ。次の言葉をすぐにでも吐き出すに違いない。そう信じて重い沈黙を受け入れる。


…が、一向に口を開く様子もない。顔を覗けば困ったように笑いながら小石を川へと投げ入れる。


「川を人の心や人生に例えるならさ。」


次はもう少しマシな石を、と、平べったい石を模索し始める。僕の手元にあった石を渡せば満足そうに両手でつつみこんだ。


「こうやって関係ない所から石を投げられたり、汚いものを流されたり、ゴミと一緒に進み続けたりってして。時に雨も降ったりして水量が増えて。」


増えたことによって川は進みを早くして海に向かう。

海に向かえば川にいた時よりもずっと楽しいかも、なんて希望は抱けるよね。


目を輝かせてそう言う。まるで言い聞かせるみたいにして言い切った。大人になる為の不安を少しでも消そうと。



『若いうちは苦労を買ってでもしろなんて、そんなの生き急ぎなさいって言っているようなものだって最近気づいたんだ。』

「海は希望じゃない。終着点だって気づいてしまったんだね。僕には…ある種の希望なのだけど―――君には絶望だったんだね。」



蝉の声がどこか遠くからする。不確かだけど、この世界で確かに存在する音。


夏草から生えたように立つ小さな小屋。もともと農家がこの辺で畑をしていたと聞いたことがある。きっと、その名残なのだろう。

僕の目線に気付いた君が立ち上がって僕の手を引く。


「ねえ行ってみようよ。」

「あくまでも人の所有物だよ。勝手なことをしたら…」

「堅いこと言うねぇ。どう見たってずっと放置されているじゃない。見てみるくらい大丈夫よ。」


短い髪がゆらゆらと揺れる。まるで好奇心を表すかのように。

面倒だな、と思いつつ腰を上げる。そうは言っても気になってはいたから。


ニコリと笑っている君と目線が近くなる。肩に触れる位の髪は少し落ち着いていた。


「随分ボロいね。遠くで見るよりずっと。」

「んー…。主に農機具を仕舞う為だけの造りだからね。宝物でも見つかりそうだと思った?」


首を縦に振る。その反動とも言える手つきで戸を開く。制止は間に合わなかったし、僕の視線は好奇心に負けて小屋を見つめた。


閑散とした小屋の中に埃が舞う。僕たちが扉を開けたせいで、止まっていた空間に時間が流れ込んだ。


「何も無いね。」

「あっても困るだろう。」


―――そっか。篭った声が響く。僕の白いシャツが少し汚れた気がした。



『思考や知識は誰にも奪われないなんて言うけど、そうとも限らないよね。私の思考は幾度となく否定されて、その度訂正と更新を繰り返した。それってもう私の思考回路じゃなくて、その他誰かの思考を組み合わせて出来た私じゃない何かだよね。』

「…それに気づかず一生を過ごすこともできたのにしなかったのは、君らしさを感じるよ。こうとも考えられるんだ。入った否定を受け入れられるのだって君だから、って。そして君なりの答えを見つけた。」



小屋をくるりと見渡すと飽きたのだろう、喉が乾いたと言い出した。この通り自然に囲まれた場所だ。自販機すらまともにないのに、この人はどこまでも自由だな。


少し離れたところで草が揺れる。ここら辺は野生動物も多く出るし、多分その類のものだと思う。


彼女は目もくれずに当たりを散策し始める。いつも思うが、彼女はいつも何か急いでいる。とにかく早歩きで、とにかく判断を早くすることに努めているように見える。


「…時々嫌になるの。」


小屋の裏に回って少し影が出来たところから彼女が呟く。


問いかけの言葉を出せば、視線を合わせることなく彼女が予め組み立てたであろう言葉が飛び交う。


「何かに焦っている。それは大体なにか分かっているんだけど…、なんて言うのかな、概ね平等に与えられた時間に焦っているのかな。」

「与えられた時間が足りない?」

「んー、少し違うかな。」


彼女が急ぎ足で人生を歩む理由。彼女自身すらあまり分かっていないソレは、僕の人生で説明するには少し驕っている気がする。だから敢えて口を噤んだ。


木漏れ日が彼女に差し込む。彼女の影はどこかに隠されてしまったみたいだ。


「例えばの話よ?今日はどことなく気分が乗らない、体調が悪い、なんて、まあ理由は色々あれど一日を無駄にしたとする。」

「うん。」

「どこかでは、その日を境にこの世界の情報が更新されなくなる人がいたり、はたまた何かを得たりする人もいる。」


程よい小枝を掴んで僕に近付く。彼女の白い肌が太陽に透けて少し眩しい。その白い肌は空へと差し出され、その先の小枝は右往左往する。


雲は君が作ったのか?と馬鹿げた言葉が出そうになったが、彼女がまだ話途中だ。


「で、流れる時間は一緒。一秒は一秒として存在し続けるわけでさ。」


―――それって果たして平等?―――


時々分からないんだ。君の言っていることは特に難しい事を言っているわけではないと分かっているけれど、それ故に難しくて分からない。抽象的に言うなら、どこか責められている気もする。


「私ね、せっかちだから。」

「知っているよ。君は歩くの速いからね。」

「そうだね。だからね、静かに穏やかに待つって多分できないんだよね。」

「何を?」

「何でもよ。」


小枝から素早い音がする。静かに足元に落とされて、それを彼女は踏んだ。パキ、と小気味よい音がして存在があやふやになった。


雲がさっきよりも早く流れる。午後の時間がそっと訪れたのが分かった。



『空を眺めているとね、ああ、なんて窮屈なんだって思うんだ。とても贅沢な話だよね。分かっているんだ。空を見て、なんて広いんだ希望だ、って感じる心の豊かな人を差し置いてこんなことを思うのは罰当たりだと思う。』

「どう感じるかは君が決めていい事だと思う。僕は君がそう考えている思考そのものが好きだから。」

『私って恵まれているんだろうな。空が窮屈で、雲が自由に見えている。星を眺めていると綺麗だって感じる。呑気にもそんなことを考えられる。それなのに…』

「続きを話してよ。」



僕らは下流に向かって歩き出す。午後の風が川に沿って吹き抜いて、歩くことを催促しているようだった。


もちろんそんな簡単にめぼしいものなどないが、それでも彼女と過ごすこの時間がとても心地よい。


彼女は話す。きっと、日常で蓄積された彼女なりの疑問と答え。止まることなく流れ続ける。僕は彼女のそんな話が好きだ。


「ねえ不思議に思わない?」

「なにが?」

「この世に生成されて排出されているもののどれもが粒子であること。所詮粒子の集合体でしかないって事実。」

「…考えたこと、なかったな。でもそうだね。そう考えると、今僕たちが歩いたり話したりなんてのも不思議に感じるね。」


全くよ。と言い切ると、川へ向かって一直線に歩き出した。靴をおもむろに脱ぎ、その素足を川へとつけた。


「夏でも冷たいのね。」

「そういうものだよ。」


僕もなんとなく靴を脱いで、川へ入った。踝に冷たい水が当たる。というか浸かっているのか。一瞬で駆け巡る冷たさに思考力が瞬間的に落ちた。


そう言えば喉が乾いたと言っていたが、いいのだろうか。


そう思って彼女を見たが、別に喉の乾きなど気にしていないみたいだ。だが尋ねてみることにした。


「喉、乾いてる?」

「……うん。でもいいの、ダイエットしてるし。」


君は充分過ぎるくらいに細い。どころか少し顔色が悪いようにも思える。何日前にご飯を食べたんだ?と聞きたくなるほどに薄いお腹と、骨ばった手。それに頬が痩けているように見える。


「喉の乾きとダイエットってあまり関係ないように思えるけど、違うの?」

「そうとも捉えられるね。でもいいの。できるだけ体を空っぽにしたいのよ。」

「…ダイエットなんてしたら判断力も落ちるし、体にもあまり良くないと思う。君の体型なら尚更。」


それでもいいのよ。目の奥が笑えないまま口元だけ弧を描いた。それはそれは儚げで、精霊に見えた。


「そんなことよりね、今日、ここから花火が見えるの。どう?見てから帰らない?」

「そうだね。ここなら人も来なさそうだし、ゆっくり見れそうだ。」

「そうと決まれば、観覧席を見つけよう。」


彼女は東を指さした。どうやら花火があがるのは東側かららしい。ならば観覧席は、と、見渡すが何度も言うが何もありはしない。

あの辺の石なんかはよさそうだ、と彼女に提案するととても喜んだ。―――ああ、幸せな時間だなぁ。



『ねえ。』

「ねえ、知ってる?僕の価値観も思い出も人生の全てですらあの夏に収束するって。」


『消えてしまった花火を覚えていれば、見えなくなってもそこにあり続けるよね。』

「僕が覚えているから。あの夏も、花火も。だから君は…君が望んでいないかもしれないけれど、だけど僕が生きている限り消えない。」



そういうものだ、と、教えてくれたのは紛いもなく君だ。


「綺麗だったね。」

「そうだね。僕、花火をちゃんと見たのって生まれて初めてかもしれない。」

「そっか。じゃあ、よかった。」


夏がもうじき終わる。鈴虫がどこからか鳴っている。


「さて、そろそろ帰ろうか。」


君から帰りを提案するのは、この夏に出会ってから初めての出来事だった。また明日会うのだ。そんなにかしこまる必要もないだろう、と彼女の身支度を見て思った。


淡いブルーのワンピースについた草を丁寧に払って、風で乱れた髪を整える。いつもの彼女なら、そんなふうに気にしたりしないが…いつも着ないワンピースを身に纏っているから、丁寧に扱いたいのだろう。


「今日は八月三十一日ね。」

「…夏が終わるんだね。」


そう、もう夏が終わる。青々とした九夏がどこかへ仕舞われていく。今日の夕暮れで、夏仕舞い。


暗い空間で彼女の顔が上手く認識できないが、俯いている気がする。僕はそっと手を伸ばした。共に川を出ようと思っていたから。


「どうしたの?」

「…ううん。行こっか。」


―――なんだったのか?


違和感が胸を支配する。小さな拒絶と、ほんの少しの間。まるで帰る気なんてない、と無言の主張をするみたいにして時間が数秒流れた。だが、彼女の声色は努めて明るく装われた。


「明日もここにくるよね?」


僕はできるだけ平然と聞くことにした。確かめたかったのだ。君が明日もここにきてくれることを。


夜風が僕たちの間を吹き抜く。まるで分断するみたいに。


「……くるよ。勿論ね。」

「そっか。じゃあ明日は飲み物とお弁当を持ってくるよ。あとは、そうだな…」


そう、あとは君に花束をプレゼントしたいんだ。君に合う花を見つけた。君の誕生日も知らないけれど、僕が贈りたいから贈ることにしたんだ。明日のサプライズの為に途中まで言ってやめた。


僕たちは橋の上にやってきて、そしてそこで別れる。僕は橋を渡った先に住処があるから、名残惜しいけれどここで手を振る。


「また明日ね。」


僕は言う。何度でも、確かめるために。


「うん。またね。」


彼女は微笑んだ。ゆらゆらと髪が揺れる。

振り返らずに歩く。夜の空に咲いた花を思い浮かべながら。


「………。」

「なんでなにも言ってくれなかったんだ…」


次の日いつも通りの時間に着いた。だが、待てど暮らせど彼女はこなくて。痺れを切らした僕は、少し歩くことにした。昨日彼女と一緒に見つけた小屋へ向かって。


なんとなく昨日は罪悪感に駆られて開けられたなかった戸を開いた。



―――そこに彼女はいた。



彼女は無言だった。無言のまま昨日と同じ格好で、姿だけ変わり果てていた。僕はその光景にただ立ち尽くすしかなかった。茫然自失に立ち尽くすとはまさにこのことだろう。


手が震えて、持っていた花束を落とした。君に渡そうと思っていた花束だ。しばらくこうしていたと思う。時にしてきっと一分ほどだと思うが、それでも無限の時間が流れたように思えた。


彼女に近づこうと歩くと、足になにか当たった。僕が持ってきた花束と…、その下には封筒が落ちていた。僕はラブレターを書くたちじゃない。多分、彼女からだ。


目に熱が籠る。前が霞んで見えずらかったが、なんとか拾って、そして彼女に触れた。


「…そっ、か…。」


川の水のような冷たさを纏った彼女の頬を撫でた。


「ねえ、なにか話してよ。いつもみたいに。」

「………。」

「この世界に影を落とすことをやめたんだね。」


君がね、君がここにいたから。僕は今日も生きているんだ。なのに、僕は…。


体が静かに震える。涙が零れて止まらなかった。彼女の叫びを聞き取れなかったんだ、と。


そして手の中にある封筒の存在を思い出した。彼女から初めて貰う、最期の手紙。


読まなきゃ、と、丁寧に封を切る。

彼女の性格がよく滲み出た綺麗な字が、そこには並んでいた。僕は一つ一つ丁寧に読む。


そして、もう彼女には届かない返事を声に出してみる。

彼女からの手紙の続きはもうなかったが、僕が君に言いたいことを言葉に出す。


「君にいつか話したと思う。思考の回数についてだ。」


木霊するなかで、独り言のように語りかける。


「君は誰よりも優しくて、そして思慮深い人だった。だからね、きっと…」


言葉が詰まって上手く言えない。受け止められない現実と、言葉に出したら受け止めなければいけない事実。

喉が強く痛んだが、彼女の手を握って口に出す。


「思考の毒が回りきった君は、寿命を迎えた。それだけだよ。だから、どうか、自分を責めるような言葉をもう使わないでくれと願っている。」


君に渡そうと思っていた花束は、餞になってしまった。

君が望んでいたなら、別にそれでもいいと思うけど…でも、どうしても伝えたいことがあったんだ。


「…―――――。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る