2-1 飄々 A

「凄えなヘルク! 今日は大手柄じゃねえか」

 ライラックが僕の頭をわしわしと撫でた。ちょっと痛い。それに離れた所から色んな人が見ていて、気恥ずかしい。悪い人を止めるのは当然のことなのに。

 でも……そうだ、みんなが揃って僕を見ていた――複雑な表情で。その中にいる、僕の考えを無言で否定した一人が恥じらう僕の顔をいっそう複雑そうに眺めていた。

「行こうぜ」という声が遠くから聞こえると、それを合図に人々は離れた。彼の白けた顔で、野次馬たちが次々と帰っていった。

「間もなく門限です。出入の者はお早めにー」

 門番の知らせが、止まっていた僕らの足を再び動かす。急いで大きな城門を抜けると、夜風と麦穂の風が混じった匂いが横から鼻に抜けていく。夜に混じる緑の荒野に混じって、時折キラキラと光るホタルを見つけた。揺らめく光の主は短い命をしているが、何のために光っているのかはマギに教えてもらえなかった。

 長いこと夜道を歩いた後、道外れにある岩場の裏に屋根のある場所を見つけ、そこが動物たちの寝ぐらでないことを確認して野宿を始めた。遅めの夕食を取った後、順番に身体を洗う。

 ここエルナ地域は、数年前の戦争が理由で川が汚れている。濾過設備のある少し高級な浴場に入って身支度をしっかり整えることもできたけれど、ライラックが言うには、少し汚れたくらいで体は消耗しないのだから、すぐに無くなる大事な食べ物をなるべく買った方が良いとのことだった。そう言いつつ行動が矛盾していたけど。ライラックの言い分に対してマギは、体を綺麗にしないとすぐに病気になると反論した。

 僕の意見? ご飯を食べない方が体を壊すんじゃないかな。でも身体を洗わないと気持ち悪いし、虫もたかる。どちらか一方を取るなんて考えは、少なくとも生活においては極力必要ないだろう。でも、浴場以外の方法はある。

 身体を洗う人の周囲で他の二人が見張りをした。山賊や獣と戦うこともあり、三人とも戦いには慣れてるけど、裸ではさすがに危ない。決まって最初にマギが体を洗うことになるが、彼女の時間は妙に長い。今回は洞穴だから見張りとは距離を置いているが、開けた場所、例えば向こう岸に行けないような川では二人が並んで見張ることになるから、僕とライラックの間に少し気まずい空気が流れる。しかし、ライラックはそんな状況でも顔色一つ変えないし、何も余計なことは言わないので、その点は安心できる。

 マギが洗い終わると、次は僕、最後にライラックが体を流す。寝床に戻ると、藁の布団でマギはすぐに眠った。身体を洗うのも眠りにつくのも、いつだってマギが最初。

 そして、マギが眠った後のライラックとの話し合いが、最近の僕の密かな楽しみだった。マギのおせっかいでもやもやした僕の思いを、ライラックに吐き出すのだ。

「どうした? 既に何か言いたげだな」

 僕の心持ちを察したライラックが頬杖をつきながら、月の光に映える優しげな笑顔で応える。髪色と同じ瞳が、夜の色に溶け込んでいた。

「……今日の劇のことなんだけど」

「ああ、マギが何か言ってたな。その時のお前キョロキョロしてたから、今夜またぞろ愚痴るんじゃないかと思ってたよ」

同じ『男』だからだろうか。きっとそうじゃないだろうが、僕の考えはライラックにお見通しだ。

「マギは、僕の考えをちっとも分かってくれなかったよ」

「へえ、そいつは悲しいなァ。悲しすぎて粥が三杯食えちまうよ」

 ……? ライラックは時々、妙な言い回しをする。少なくない数の劇を観てきた僕からすれば、それは言葉遊びには程遠過ぎた。

「それ、面白いと思ってる?」

「別にそこには興味ねえ。反応を欲してるだけさ――で、どんな話だったんだ? 異界の話? 空の向こうにある世界のことか?」

「うん。その世界のお話で、主役の騎士が異国の将軍に正義を語って仲間にする物語なんだ」

「へえ。そりゃあ何も間違ってねえな。でも変だな、マギは異界の話が好きだったはずだ」

「でも、マギは僕に見せたくないって。言葉で人を支配する劇は見せたくないって言ってたんだ」

「そんなんじゃどんな物も見せられやしねえよ。言葉を使うってのはそういうことだろ」

 そう言うと彼の微笑みは少し納得いかなそうな顔つきに変わった。ライラックは曲げた両膝を右腕で覆い、少し前のめりになる。このほんのわずかな静けさの中で、僕の心にふと疑問が生まれた。

……劇って、言葉で人を支配するものなのだろうか?

「あー……」

 途端に、ライラックが気まずそうな顔で黙り、姿勢を崩した。必死に次の言葉を探そうとしている彼の姿は、彼らしくない様子に見えた。

「マギはまあ、ヘルクの親代わりみたいなもんだからなあ……」

「親? 僕にはもう親はいないよ」

「お前がそう思っていても、マギはそうは思わんだろうさ」

 少し気怠げなな声色で答えたライラックは、マギの顔を少しだけうかがった。そして、軽く溜め息をつき、こう付け加えた。

「そこがマギの良い所であり……少しだけ、嫌な所でもある。あいつは、『母性』で全てを包み込めると思っている」

『母性』? それはどういう意味だ?

 戸惑う僕の顔を、ライラックはじっと見つめている。まるで、僕に知らない言葉を頭の中に植えつけて、その反応を調べているみたいに。

「それって……どういうモノなの?」

「母の性と書いて母性。『さが』は生まれつきの……特徴、みたいなもんかな」

「ライラック、母性が生まれつきの特徴だなんておかしいよ。僕が言うのは変だけど、女の人だって生まれた時からお母さんじゃないと思う」

「俺にも分からん。だから不思議で……少し、不愉快なんだ。……あんまり声が大きいとマギが起きるぞ」

 ライラックが人差し指を口元に立てた。少しやかましかっただろうか。

 不思議で、少し不快。僕と大体同意見だった。けれど、それは僕らの場合もそうじゃないかという疑問も湧いた。湧いてしまった。

 毛布に包まったマギがもぞもぞと動いている。そろそろ僕も寝た方がいいだろう。マギの隣に腰を下ろし、毛布を体に掛けて横になった。マギの寝顔が視界に入る。今日のことは全部忘れているみたいな顔だなと思い、それから背中を向けて目を閉じた。

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