40.たいしたことない
レオのカポエイラの蹴りをカウンター気味にくらった飛田は、反動で後ろに吹っ飛び壁に激突した。崩れ落ちて動かなかったので、彼を敵と認識していた渚も心配になった。それだけレオの一撃は強烈だった。幸い指先が動いているのが確認できた。ただ目の焦点が定まっていないようだ。
「大丈夫だよ、一応当てる時に手加減はしたんで」
春先の神社の時と同じく救世主となったレオは、ヒーローに似つかわしくない沈んだ声で飛田に話しかける。そういえばレオは飛田にずいぶん目をかけてもらったと聞いていた。サッカー部をやめた後、地域文化研究部に勧誘したのも飛田だった。その先生を蹴り飛ばしてしまったのだ。
飛田が意識があるのを認め、レオは優しく話しかける。
「しばらく動かないで安静にしてください。まだ衝撃が体に残っているはずなので。ゆっくり呼吸してください」
純粋に先生を気遣う生徒の声だ。淡々としているけれどもレオは優しい。たぶんこの中で一番。
「命に別状はなさそうですし、たいしたことないのでは? これだけの問題を起こしておきながらあの一発で済むなんて、むしろ運が良いと思いますね」
レオとは反対にドライを絵に描いたような千歳が床に落ちた団扇を拾い上げた。団扇にはカラスの絵が描いてあった。
「飛田先生は悪い夢に取り憑かれてしまいましたね。もう妖怪につけいれられることがないよう私が払っておきましょう。その前にちょっとお伺いしたいのですが」
千歳は憔悴した飛田の目を見て問う。
「あなた漱石に白いカラスを食べさせましたね」
飛田は力なく頷く。
「どうりで急激に変化したわけです」
「白いカラスって何ですか?」
楓が尋ねると、聖があっと声をあげた。
「もしかして俺が、河原で拾って飼育スペースで保護してた……」
「そうです、あれは天狗の落とし物だったのですよ。特別に妖力の高いカラスの雛で、妖怪にとってはごちそうです」
そういえば武蔵野亭の自分の部屋にあのカラスを置いていた頃、漱石が不自然なくらいに反応していた。
「飛田先生、あなたあの落雷の日の前から白いカラスを持ち出していましたね」
飛田はまたも力なく頷く。
「さすがですね、あれを使って妖怪を飼い慣らすとは。人間というのは恐ろしい」
恐れ入ったという顔で、団扇を飛田に向けて仰ぎ始めた。日本家屋の居間だった空間が、どこにでもありそうなマンションの一室に代わっていく。飛田は気を失ったようだ。
「あとはこれで漱石の妖術を解いて……」
千歳が漱石の方を向いた時である。漱石が聖の後方に跳躍した。渚は何が起きたのか瞬時には理解できなかった。が、すぐに漱石が四本の四肢でリュウを組み伏せているのが目に入った。リュウは青ざめた顔している。制服のシャツが肩から腹部にかけて裂けて、血がドクドクと流れていた。漱石はグルルルと唸り、リュウはギュッと目を閉じた。
「漱石、やめろー!」
聖が漱石の身体にしがみつく。漱石はうるさそうに振り払おうとする。
「千歳さん早く!」
漱石が自由な方の前足で、リュウの顔に腕を振り下ろすまさにその瞬間に、千歳が祈りを込めて団扇を漱石に向けて扇ぐ。漱石の動きが止まる。千歳がさらに何回か扇ぐと、虎のような漱石は武蔵野亭で飼われていた頃の子猫に戻り、聖の足元に顔を擦り寄せる。
***
千歳が持っていた塗り薬で、リュウの出血は止まった。次第に顔色も良くなってきた。意識もある。
「リュウ、平気か?」
「ああ、何ともない」
強がりだと分かっていても誰も何も言わない。いや、言えない。
「楓が救急車呼んでくれたらから、もうすぐ来るよ」
「いいのに、これくらい」
動こうとして痛みに顔を歪めた。痩せ我慢もここまでくれば立派だ。
「だいたいこの怪我、病院でどうやって説明するんだよ」
たしかにそれは考えていなかったけれども……。
「まあなにか適当に理由を考えましょう」
千歳は飄々としている。その発言が適当だ。
それから救急車を待つ時間はとても長く感じられた。やがてリュウが口を開く。
「救急車呼んでくれたんだったらもう大丈夫なんで、みんなは行ってくれ」
「でも……」
「ホント大丈夫だから、これくらいたいしたことないから」
だいしたことないから。そう何度も口にしながらリュウは涙を流していた。
***
救急車に乗ったリュウを見送ってから、渚が千歳に尋ねた。
「それでどうやって漱石を彼の世界に返せばいいのでしょうか?」
千歳が答える前に、
「あの」
声を発したのは聖だった。
「やっぱりすぐに返さないとダメですか?」
聖は足元の漱石を優しく撫でている。
「何言ってるの? たったいま桜ヶ丘くんがあんな目にあったのに!」
「それは、桜ヶ丘先輩には申し訳ないけれど、理由があったからでしょ?」
渚は言葉に詰まる。そうではあるけれど……。漱石は居心地よさそうに、聖の足元で丸まっている。
「俺、ちゃんと漱石とお別れしてないからさ。ずっととは言わない。もう少しだけ武蔵野亭で一緒に暮らしたいって考えちゃいけないのかな?」
渚はまた何も言えなかった。
「俺、間違ってますか?」
「間違ってはないと思うよ」
聖のまっすぐな問いかけに答えたのはレオだった。
「でも、みんながみんな聖くんみたいな人じゃないみたいだ。国領みたいな考えの人が間違っているわけでもない」
レオは身近な人でも考え方が違って当然、という意識が自然と身についている。自分ができなかったことをレオはできていたんだな、と今更のように渚は思う。
「漱石は自分の世界に帰りたいのかな」
「どうでしょうね。すっかり聖くんになついてしまったようだし」
千歳が漱石の方をみる。
「でもだからこそ、はやく帰してあげないとこちらの世界に馴染み過ぎて、元の世界に帰らなくなる可能性がある。それは危険だ。妖怪である以上、今回のようなことがまたいつ起きるか分からない。やっぱり普通の猫とは違うんですよ、怪猫は」
「分かりました。すみませんでした。漱石はなるべく早く返してあげましょう」
意を決した表情が凛々しい。
「
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