25.古い人間
ここで場面は武蔵野亭の昼過ぎに遡る。
暴風雨による破損の修繕は、その頃にはあらかた完了した。高幡はカウンターの奥のテーブルで、遥がいれたコーヒーを飲んでいる。
「すみません、こんなにお手伝いいただいて。おかげで思っていたよりずっと早く終わりました」
「いえいえ、お世話になっているんですからこれくらい。幸い今日も用事はありませんでしたし。午後も何かお手伝いすることありますか?」
「もう大丈夫です。窓ガラスの修理は業者に頼みましたから。業者が来るのは明日なので今日は私ももうすることはありません」
分かりました、と頷いて席を立つ。
「久しぶりに晴れたので外出してきます」
「やっぱり、予定があったんじゃ……」
「そうじゃないですよ、ここにいられるのも残り少なくなってきたので、観光に行きたいと思っただけです。じゃあ支度してきますね。コーヒーご馳走さまでした」
申し訳なさそうな表情の遥を気遣うように言って、高幡は一度自室に戻る。10分ほどで降りて来た時、肩からリュックを背負っていた。
「どのあたりに行くんですか?」
「まあ今日は近場で。深大寺に行ってみます。近いのにまだ一回しか行ったことないんです。有名な深大寺のお蕎麦も食べたいので」
武蔵野亭から徒歩で十分くらいのところにある深大寺は関東でも有数の古刹で、平日でも参拝客や観光客で賑わっている。高幡が言うように深大寺そばも有名で、深大寺門前の参道には十軒以上もの蕎麦屋が並ぶ。
高幡は深大寺を参拝したのち、あたりの散策を楽しみ、直感で選んだ蕎麦屋に入る。野草の天ぷらと蕎麦を堪能したのち、深大寺近くの天然温泉に入る。
(「古刹と湯けむりを楽しむ休日か」)
よく言えば古風、悪く言えば年寄りくさいだろうか。
温泉は想像以上に良かった。庶民的な町場の銭湯といった外観だったが、内観は綺麗で広々としており、旅館のようである。施設も、室内風呂、露天風呂、サウナと充実している。
身体を洗い、まず露天風呂へと足を運ぶ。外気が実に心地よく、心身のコリがお湯と一緒に流されていくようだ。
やがてポツと頬に水滴があたる。湯が跳ねたのかと思ったが、どうやら雨が降って来たようだ。少々の雨なら「これも風情だな」と思えるのだが、結構な本降りになってきた。それでもなお湯船深くに身を沈めて粘っていたが、雷がピカッと光るとさすがに室内の湯船に移動した。
室内の檜造りの浴槽は、これはこれでくつろぐ。十分に堪能してさてそろそろあがろうかという頃、雨が小降りになり、客の中にはまた露天に行く者もいた。今度いつ来られるか分からない。せっかくだからもう一回露天風呂を堪能しようと外に出る。
霧雨でひんやりとする外気と暖かい湯船のコントラストがたまらない。露天風呂の醍醐味だ。夢見心地でうっとりしていると、隣の湯治客に声をかけられた。
「霧雨の中の露天風呂、贅沢ですよね」
「まったくですね」
「ご自宅に戻られても同じ東京なのですから、また頻繁にきてください」
自分のことを知っているような話し方をされて、ぼんやりとしていた意識が明瞭になる。話しかけてきた相手は千歳であった。
「人が寛いている最中に趣味の悪いことしないでもらいたいね。雑木林の方からこっそり入ってくるなんて」
「失礼な。ちゃんと受付でお金を払って客として入ってますよ」
「じゃあ本当に偶然居合わせただけなのかな?」
「いえ、それはあなたが来ていることを知っていたからです」
なんだやっぱりそうか。どうせカラスたちにでも聞いたのだろう。
「さっきまで聖くんに会っていたんですよ」
「どんな用件で? 世間話をしたかったわけじゃないんだろ?」
千歳は聖たちとの一幕を要約して伝える。
「柴崎聖という少年を天狗一族に迎え入れるのはもう無理です。家族との関係が良好ではない、自分の意志が弱い、その上武術の素質がある、という難しい条件をクリアしているという情報でしたが、少なくとも意思が弱いというのは違っていました」
「僕はもともと天狗に子供を渡すことには納得していないよ」
もし先の千歳と聖の話し合いの場にいたら、高幡は躊躇うことなく聖を千歳から引き離しただろう。
「でももう僕の出る幕はなさそうだ。もともとこの地域の人間ではないので協力できることは限られているし、週末にはここを発つ。あまり力になれなくて申し訳ないが」
「いえ、なんの糸口もないところからいくつかの可能性に辿り着くことができました。武蔵野亭と接点が持てたおかげです。高幡さんと東京不思議新聞のおかげです」
千歳の投稿があったとき、高幡は折よく仕事の都合で武蔵野亭に滞在しており、現地で起こっていることを肌で感じることができた。まさか滞在先自体が事件に絡んでくるとは思いもしなかったが。
「じゃあなおさらあそこの人たちを不幸にはしないでもらいたいね。普通に聖くんたちと協力して事件を解決してほしい」
「私はそのつもりです。ただ、頭領たちはそんなに気を長く待ってはくれないでしょう」
千歳には千歳の事情がある。
「だからみんなが幸せになれるように、何か少しでも解決のヒントになるような情報をお持ちではないかと思いまして。人間ってリラックスしている時に、ふとアイディアが閃くこともあるようなので」
温泉で身も心もさらけ出してコミュニケーションを図ろうとは、随分と人間じみたアプローチをするやつだ。
「直接役に立つかは分からないけれど、1つ気になっていることがある」
千歳は「話してください」と目で促す。
「武蔵野亭でアルバイトをしている地域文化研究部員の顧問である飛田という先生なんだが、その人から私宛に先週連絡が来て……」
「ほう、その教諭の方は高幡さんのお知り合いだったのですか?」
「直接の知り合いじゃない。ただ、もうやめているが、東京不思議新聞の創設者のうちの一人だ。まだ連絡をとっている人が不思議新聞内にいるので、そこから私の連絡先を聞いたらしい」
「なるほど。それでその教諭のご用件はなんだったのでしょうか?」
「表向きは武蔵野亭でアルバイトをしている生徒たちの様子を知るのが主旨だった。まあ顧問としては当然だな。ただ本当に知りたいのは、『ついで』のように聞いてきた他のことだったと思う」
「他に何について聞いてきたのですが?」
「1つは漱石。いつ頃から飼っているのかとか、どういう風に飼っているのかとか、誰が面倒をみているのかとか、誰にでも懐くのか、とかそういったことだったな。ずいぶんと事細かに探ってきたので、何か目的があるんじゃないかと感じた」
「確かに。他には?」
「僕についてだよ。調布に逗留している、ということはここらへんで何か怪異のネタでもあるのと聞かれた。何か探りを入れられている感じがしたよ。勘だけどね」
千歳は「ふーむ」と考え込む仕草をする。
「千歳さん、妖怪ってやっぱり漱石だと思うか?」
「はい、もう十中八九そうですね」
「じゃあ私が提供した情報も結局あまり役に立たないかも知れないな。その教諭の目的がなんであれ、千歳さんたちがやることは漱石を見つける、ということだけなんだから」
「そうかも知れないですね。でも不要な情報ではない気もする。それこそ私の勘ですけれど」
カラス天狗の勘か。
「せっかくだからサウナ入りませんか? 湯も良いですけれど、私あれが好きなんですよ。思いっきり身体を温めてから、そこの水風呂で冷やすと張り詰めていた神経がほぐれますよ」
この季節にしては随分冷たい夜風も火照った身体には気持ちがいい。下宿への帰り道、この怪猫事件(今、高幡がそう名付けた)についてこれ以上首を突っ込むべきかを思案する。ここを去る身としては余計なことをするべきではないと思う一方で、不思議新聞ゆかりの人が絡んできたならば、できる協力はしたいという気持ちもある。お世話になった遥や、聖や渚に対して、少しでも有意義な情報は提供するべきではないか。週末には引き払うので行動を起こすなら早くするべきだ。
武蔵野亭に戻り、お茶をいれるためにお湯を沸かす。遥はすでに帰宅しており、聖はもう二階の自室に引き上げたようで、一階には誰もいなかった。お湯が沸くのを待つ間に、不思議新聞の中でも気心が知れた仲間に「飛田宏とはどんな人物か」、なるべく急ぎで調べて欲しい旨をメールした。
沸いたお湯を急須に注いでいるとお店のドアが開く音がした。遥が忘れ物でもしたのだろうか。カウンターから出ると国領渚ともう一人見たことのある女子生徒がいた。たしか地域文化研究部員の1人だ。
「渚さん、こんばんは。こんな遅くにどうしたの?」
「あ、スナ……高幡さん。聖くんが話があるって言われて。例の妖怪の件です」
影で妙な呼び方をされているのが気になったが、そこは大人としてスルーして、隣の女子に視線を移す。
「あ、楓にはもう話しています」
そうだ、楓という名前だった。改めてみると、小顔にぱっちりとした目が印象的な子だ。すっかり芸能界に疎くなってしまった高幡は、「アイドルを連れてきた」と言われても信じてしまうだろう。
先ほど千歳に話した飛田に関する事柄をこのメンバーに伝えるべきか悩む。
「こんばんはー」
と、今度は階段上から若い男性の声がした。聖ではない。仙川礼央が姿をあらわす。
「あれ、高井戸もいたんだ」
どうやら何か打ち合わせをするらしい。察するに怪猫事件(この名称はまだ浸透していない)のことか。
「役に立つか分からないけど……よろしくね。でもこうなると地域文化研究部で知らないのはリュウだけになっちゃうから、彼にも話した方がいいのかな?」
気遣いを見せた楓に、
「リュウは知っているよ。それにもう来ている。二階で聖くんと一緒だから今呼んでくる」
聖と、それからリュウという少年も降りてくる。黒髪で真面目そうなレオ、長めの茶髪のリュウ。系統は違えどこの2人の青年も芸能界で通用しそうなルックスである。どうやら地域文化研究部は、美男美女で構成されているようだ。マニアックな文化部は外見に自信がない人が多い、という先入観を持っていた自分は、もう古い人間だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます