離れどき

佐々井 サイジ

第1話

 ニュース番組のエンディングが流れ始めたとき、ドンドンと階段を上る音が聞こえた。イラつきを抑え、冷めた料理をレンジに入れたとき、爪が伸びてネイルが浮き上がるようになっていた。そろそろ新しいのに変えたいけど、いちいち八千円もかけるのはもったいなく思えてきた。


 ガチャリとドアが開く。猫背で俯き気味の凌太に「おかえり」と声をかける。か細い声で「ただいま」が返ってきた。


「どうしたの?」


 望み通りの言葉だったのか、凌太は「あのさ」と鼻息を荒くして話し始める。


「俺さ、個別指導塾の教室長だよね。なのに営業やらされるの、違うと思うんだよね」


 また始まった――


 どうせ担当教室の生徒数が減ったから入塾相談会や懇談のロープレのときに厳しく指導されて拗ねているんだろうな。今日はそれでブロック長から指導を受けて帰りが遅くなったのだろう。凌太より遠方の教室を担当している私の方が早く帰宅するとき、だいたい同じ理由だった。


「俺は一人ひとりの生徒の成績を上げたくて教師から塾に転職したのに、新規生入会みたいな営業ばっかなのおかしくない?」


 口を開けば自ら仕事ができませんと主張するような愚痴、愚痴、愚痴。


「俺、転職活動するから。応援してくれる?」


 三十歳で特に業績を上げたことが無い男がまともな企業に転職できるわけがない。凌太は鞄から会社用のパソコンを取り出してテーブルに置いた。お茶を入れたコップが一瞬浮くほどの音が立った。転職サイトのタブが十個前後開いている。そもそも会社用パソコンで転職活動するような男を欲しがる会社など存在するのだろうか。そして私はなぜこんな男と同棲しているのだろうか。


 凌太とは中途入社で同い年だったこともあり社内で話す機会が多かった。休日に二人で飲んでゲームするようになると凌太の口数が減っていった。そうなるだろうと思った通り、セックスした。格別良い男というわけではないけど、気が合うし体の相性も良かったし、害がなさそうだったのでまあ良いかという感じで付き合いだした。


 近頃、凌太はプロポーズしたい空気を纏い始めた。同棲して一年が経ったことが大きいんだろう。外食に誘われるたびに私は友人と予定をつくり逃げ回っている。部屋でプロポーズされるような空気になったこともあるが、寝たふりをして凌いでいる。

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