朧頭骨

御餅田あんこ

朧頭骨

「月沢の神社に泥棒が入ったらしい」

 話に出た月沢という山村から三〇キロほど離れた、寂れた街の飲み屋で、井滝幹也はそんな話を聞いた。古民家風居酒屋の座敷席に通され、常連らしい中年男と相席になり、よく冷えた酒を片手に世間話をしていた。井滝は、旅をしながら怪談を収集するのを生業としている。「このあたりで有名な怪談話はないか」と尋ねて、返ってきたのがその答えだ。それのどこが面白いのだと井滝は思ったが、言葉にはしなかった。ただ表情に出ていたのだろう。男は「面白いのはここからだぞ」と神妙な顔つきで続けた。

「この地方には鬼の伝説があって、それが大昔、月沢峠にいたっていうんで、月沢神社の宝物殿には曰くつきの品がいろいろ納められてたらしいんだが、どうやら盗まれたのがそれらしいんだな。泥棒が入ったって聞いたすぐ だったか、峠じゃ事故が多発してな。鬼の祟りだなんて言われている」

 言い終わるやいなや、男はにかっと笑って、「なんてな」と焼酎のグラスを空けた。

「その月沢神社というのは、どこにあるんです」

「行ってみようっていうのかい。確かに事故が多発しているもんだから、みんな鬼の祟りだなんて言っちゃいるがね、実際のところは何にもありゃあしないよ。月沢なんて限界集落みたいなもんだしな。泥棒に入られて壊れちまったところもあるが、修繕費がないからそのままなんだと。鬼の伝説以外は何もない、オンボロ神社だよ」

「いいんです。商売なもので」

「大変だねえ。――あ、おかわりちょうだい」

 男がカウンターの方へ空のグラスを掲げて見せた。気のいい女店主が返事をして、空のグラスを回収していった。

「月沢村行きのバスが出るから、それに乗ればいい。若い人らは車があるし、バスは爺さん婆さんしか使わないもんで、運行本数は少ないがね。村に入ったら停留所の少し手前に神社の入り口があったはずだから、すぐ分かると思うよ」

「分かりました。ありがとございます」

 井滝は自分の手元に残ったハイボールを飲み干して、男に会釈した。

「それじゃあ、僕はここらで、お暇します。面白い話を聞かせていただいて、ありがとうございました」

「そうかい。ま、朧様に気をつけてな」

「朧様?」

「件の鬼女様のお名前だよ」

 慇懃無礼に言い放ち、男は「元気でな」と手をひらひらと振った。立ち上がった井滝と入れ替わりに、女店主が酒を持ってきたので、男の興味はそちらへと移った。


 翌日、バスに乗って月沢村に向かった。

 教えてもらったとおり、バスが停留所のある村役場に着く少し前に、くすんだ朱色の鳥居が見えた。本殿と、そのほかに建物が二つほどあるが、遠目に見ても傷みがひどく、手入れが行き届いているとは言えない。泥棒に壊された箇所の修繕以前の問題という印象があった。

 村役場の停留所でバスを降りた。バスの中は冷房が効いていたが、日差しもあって、外は暑い。懐から扇子を出して仰いでも、熱風をかき回しているだけで、さして涼しくはならない。蝉の鳴き声がけたたましいが、輪をかけて暑苦しかった。

 二〇〇メートルほどバスの通ってきた道を戻ると、先ほど見た神社にたどり着いた。参拝客の一人も居らず、しんと静まりかえっていたが、本殿脇の建物から金槌を振るう音が聞こえてきた。そちらに回ると、戸の開いた建物の中で、神主らしい男性が一人で床板の修繕作業をしているところだった。

「こんにちは」

 声を掛けると、神主は顔を上げてにこりと笑った。

「どうも、こんにちは。参拝者の方ですか?」

「はい。僕は各地で怪談や伝説の収集をしている井滝といいます。こちらには鬼女の伝説があると耳にしまして。ご迷惑でなければ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」

「かまいませんよ」

 神主は額の汗を手ぬぐいで拭いながら、柔らかく微笑んだ。

 修繕作業中の建物がどうやら宝物殿のようで、建物同様にささくれ立った古い木製の展示棚に、鏡や、硯箱、書物、いろいろな物が並んでいる。

「お茶をお持ちしましょう。少しお待ちくださいね」

 神主はそう言って、小走りに別の建物の方へ駆けていった。しばらくして、小脇に座布団を挟み、ヤカンと湯飲み茶碗を二つ盆に載せて戻ってきた。

「興味を持っていただける方は多くはないですから、知っていることなら何でもお話ししましょう。井滝さんは、民俗学の研究者さんですか」

 神主は、宝物殿の縁側に座布団を並べて、井滝に座布団とお茶を勧めた。井滝は会釈して、階段下で靴を脱いで宝物殿に上がった。

「いえ、僕のは単なる趣味でして。各地で見聞きした物をいつかまとめたいと思っているのですが、なかなか形にするのは難しそうです」

「そうなんですか。それで、鬼女伝説についてでしたね」

 いただきます、と井滝は湯飲みに口をつけた。よく冷えたほうじ茶だ。

「平安時代後期頃、この月沢には朧という鬼が住んでいました。美しい女の姿をしていて、子どもを好んで殺して喰ったといいます。あるとき、出家した武家の子どもが、戦のために家に呼び戻されることになり、迎えに来た女房と二人で峠を超えようとしたところ、朧に目をつけられてしまった。……絵図があります」

 思い立ったように、神主は宝物殿の一角へ向かい、展示してある本をとって戻ってきた。神主が持ってきたのは近年刊行されたらしい絵巻の図録本で、それを床の上で開いて見せてくれた。光沢紙のページに絵巻の色鮮やかな写真が載っており、余白に書き下し文と現代語訳が印刷されている。

 神主がぺらぺらとページをめくる。手を止めたページには、人の皮を被った鬼女の立ち姿が描かれている。朧と思しき女房装束を纏った鬼の足下には、皮を剥がれた女の死体が横たわっていた。



 人であろうがなかろうが、死んでいようが生きていようが、得体の知れない多くのものが鬼に大別された時代のことだ。実態が何であったかはさておき、朧は人をさらい、殺して喰う、鬼と呼ばれた常ならざる人の一人であった。朧は月沢峠に居を構え、ここを通る旅人の中から、好みの少年少女をさらっては喰っていた。

 夏のある日、旅装束の少年と連れらしい女が歩いて行くのが見えた。少年はちょうど肉の柔らかそうな年頃で、体つきに合わない大ぶりの太刀を携えていた。

 話しぶりから、少年は地方武士の庶子で、寺に入れられていたのを、戦が起こったために呼び戻されるらしかった。女は迎えに来た女房で、少年からは山吹と呼ばれていた。

 朧はまず、少年が目を離した隙に山吹を茂みに引きずり込んで、その生皮を剥がして着て成り代わった。朧にとっては手慣れた作業であるが、それでも瞬く間にとはいかない。山吹とはぐれたと思い、一人取り残された少年は、暮れつつある峠でべそをかきながら、立ち竦んでいた。か弱い声で「山吹、山吹」と呼んでいるのがなんとも愛らしく、そそられる。眺めているだけでも愉しいが、山吹がどこにもいないと悟れば一人で山を下りてしまうかもしれないし、山吹が戻るまでここを動かないというのなら、朧ではなく他の獣の餌になることもある。朧は遅れてきてようやく追いついたふうを装って、少年の元へ駆け寄った。

「山吹、どこへ行っていたのだ」

 瞳を潤ませながらの、弱々しい叱責が飛んできた。

 肩で息をしながら、山吹こと朧は少年に謝る。

「ごめんなさいね。ついよそ見をしていたら、はぐれてしまったのです。しかし、今しがたそこで家を見つけましたよ。主は留守のようですが、もう日も落ちます。夜明けまで休ませてもらいましょう」

 当然それは、偶然見つけたものではなく、朧自身の住まいであった。住居に引き込んで、生かしたままゆっくりと食おうという算段である。

 少年は困惑したように朧を見上げた。

「しかし、早急に山を下りなければ……。明日中には父上の元へ参らねばと言ったのは山吹だぞ」

「そうではございますが、肝心のあなたが五体満足で着かねば、それこそ不孝者でしょう。不気味な獣の唸り声も聞こえました。夜が明けたら、急ぎ出立することにいたしましょう……ささ、こちらへ」

 朧は強引に、少年の手を引いた。近くの木陰でいくつもの獣の瞳が光る。朧が捨て置いた山吹の屍を、獣が集まって食い散らかしているのだろう。何が起きているとも知らないで、少年は木陰に不安そうな眼差しを向けた。

「ほうら、獣たちも気が立っておりまするゆえ」

 少年は、朧の衣の裾をぎゅっと掴んだ。暑さのせいか、近くで騒ぐ獣に驚いたのか、額に珠のような汗を浮かべ、やや憔悴した様子ながら、朧に従った。

 住居に戻ると、入り口の角には蜘蛛がせっせと巣を作り始めていた。夏場は蜘蛛が多い。どこにでも沸いて巣を作り始めるので鬱陶しい。朧は蜘蛛を指先で潰し、巣を巻き取って少年を住居に引き込んだ。薄暗い室内で灯明に火を灯すのに、わざとらしく探すのに時間をかけてみせた。

 ふと目をやると、少年は土間で立ち止まっている。

「どうしたのです。いつまでもそうしておられないで、履き物を脱いでお上がりなさいませ。主人が帰ってきた時のことを心配しておいでなら、私が事情を説明いたします」

 声を掛けても、なかなかその場を動こうとしない少年に痺れを切らし、朧が腰を上げると、少年は一歩後ずさった。

「いかがなさいましたか」

 少年は、怯えた様子で朧を見上げ、「近づくな」と言った。

 おや、と、思いこそすれ口には出さず、朧は上げかけた腰を下ろして平静に努める。

「どうされたのです。急に」

「お前、本当に山吹か……?」

「何を申されます。私は山吹でございますよ。私が山吹以外の何に見えるというのです」

「……お前、蜘蛛を指で潰したろう」

 震える声で、少年は言った。

「山吹は大の蜘蛛嫌いだが、蜘蛛は仏様の遣いだから殺しちゃならないと言っていた。お前、山吹をどこへやった」

 悍ましいものを見るように、少年は朧を睨んだ。怯えながら、恐れながら、女房の安否を聞き出そうと必死に堪えているのが、なんとも愛らしい。

「まあ、山吹なら、ここにおりますでしょうに」

 朧は着ている皮を、ほら、と、摘まんで見せる。

 少年は顔を真っ青にして踵を返すと、背後の戸に手を掛けた。

「あ、開かないっ! ……なんで、どうしてっ……」

 泣きそうな声を上げながら、開かない戸を必死に開けようとしている少年の小さな背に、朧は組み付いた。肉の薄い、華奢な背中をなで回す。

「そう急くこともございませんでしょうに。ああ、可愛らしいお背中ですこと」

「俺を殺すのか、お前……山吹にしたように、俺も……」

「可哀想に、こんなに怯えて。あなたが私の言うことを何でも聞くというのなら、命だけは助けてあげても――」

 朧が少年の背を撫でながら言うと、少年の強張った身体が一瞬弛緩したように感じられた。朧は少年の顔を覗き込むようにして、意地悪く笑った。

「ふ、そう言って欲しいのでしょう?」

 少年からしたら、どれほどの悪夢だろう。知った女の顔をした鬼に生死を握られている状況。少年の怯えた顔を見るほどに、朧は興奮した。人の恐怖した顔というのは、何と美しいのだろう、と。

 当然逃がすつもりなど無い。この子どもが美味そうだったから、わざわざ女の皮など被って引き込んだのだ。少年はもう朧の意思に反して外へは出られないし、生きて山を下りることもない。

 朧は少年の襟首を掴んで床に引きずり倒した。少年に暴れられては厄介なので、朧はひとまず足の腱を切ろうと思い、壁に掛けた鉈を手にとって振り返った。

 震えてカチカチと歯を鳴らしながら、少年はお守りのように太刀を抱きしめてへたり込んでいた。もしも彼に助かる道があるとすれば、その太刀を引き抜いて朧を斬るしかない。そうなれば朧は鉈で反撃するが、太刀の方が長いのだから、勝ち目もあるだろう。けれど、少年にはとても、太刀を引き抜いて朧に立ち向かう勇気がないようだった。

 朧は少年の細い足首に手を伸ばした。少年は、怯えた表情で、涙に頬を濡らしながら、掴まれまいと足を引く。少年の口から、嗚咽混じりの乱れた呼吸が漏れる。躙り寄る朧から逃れようと、少年はどんどんと壁際へ追い込まれていく。

「暴れてはいけませんよ。余計に切ったら、その分苦しみます」

 少年は、息が出来なくなってしまうんじゃないかというほどの荒い呼吸を繰り返していた。朧が少年の足首を掴んだ時、少年の緊張が限界に達したのが様子から分かった。そして、それが突然、少年はまるで事切れたように静かになった。手には冷たい汗の感触。触れた足首に脈動を感じるので、生きている。恐怖のあまり意識を失ったのだろう。

――面白くない。泣き叫び、命乞いをする姿をもっとじっくり見たいのだ。縄でも持ってきて縛ろうか。思って、少年の足を掴んだ手を緩めた。

 次の瞬間、朧の身体は跳ね飛ばされて、床にひっくり返っていた。少年が、朧を突き飛ばしたのだ。

 驚いた朧が顔を上げると、涙の筋を残しながらも、まるで別人の形相の少年が朧を見下ろしていた。怯える子どもの顔つきではなく、修羅の面相。死に直面し、極度の緊張を強いられて、少年は変貌した。身体中から朧への殺意が立ち上るのがわかる。少年は太刀を抜き、まともに扱ったことも無いであろう手つきで構えて、ふう、ふう、と、熱い息を漏らす。

 朧は、見とれていた。

 顔立ちの美しい少年であった。怯えていても愛らしいが、奮い立った姿は凜として猛々しく、それでいて可憐だ。

 朧が見とれている間に、少年は太刀を振り上げた。ここで朧を打ち倒さねば死ぬだけだと、彼は既に理解している。朧がどんな顔をしていようと、どれほど怖ろしい鬼であろうと、振り下ろす太刀筋にひとかけらの躊躇いもなく――。


 そうして、どれくらいの時間が経ったのか、朧が目を覚ますと、暗くて狭いところにいて、不思議なことに四肢の感覚がどこか遠いような心地がした。


朧伝説を一通り話した後、神主は神妙な面持ちで「実は……」と切り出した。

「この神社には、朧伝説縁の品が収められていたのですが、先月くらいに泥棒に入られましてね……」

「ああ、僕にここの話をしてくれた人からも聞きました。大変でしたね。一体何が盗まれたんですか?」

「いやあ、それが」

 神主は困ったように笑って、額に浮いた汗を拭った。

「朧頭骨、というものなんですが」

「トーコツ? ああ、頭の骨ですか」

「はい。朧は退治された際に首を落とされたのですが、首だけになってもまだ生きていて、呪詛の言葉を吐き続けたそうです。そこで、首桶にしっかり封をして、この月沢神社に持ち込まれました。いつ誰が確認したのだか、板の隙間からのぞき見たら骨になっていたというので、朧頭骨と。いや、私は怖いのでとても覗いてはいませんが。鬼の骨じゃないにしても、骨が入っているんですからね」

「他に盗まれた物は?」

「ありません。朧頭骨だけ。ずいぶん荒らされたのに、不気味でしょう。私はね、変なことを言うようですが、……朧頭骨は盗まれたのではなくて、出て行ったんじゃないかと思うんです」

 そう言った直後、神主は突飛なことを言ってしまったと慌てて取り繕った。

「いえ、構いませんよ。どうぞ、続けてください」

 井滝が促すと、神主は話すのを躊躇いつつ続けた。

「ちょっと前に、隣町の暴走族が首無し女を見たとかで、若い人を中心にそんな怪談が流行っていたことがあるんですよ。それがまた、月沢峠あたりのことらしくて、しかも目撃証言によれば、どうやら女房装束のようだと。暴走族の少年は随分驚いて転倒事故を起こしたのですが、首無し女は周りの騒ぎには反応せず、何かを探している様子でどこかへ行ったそうで……私はそれを聞いて、まさか首から下が頭を探し歩いているんじゃないかと思ったんです」

「へえ……それは、また……」

 良いですね、と言おうとしたのを抑えながら、井滝は聞いた話を手帳に書き付けていく。女房装束の怪異や鬼の首などというのは、伝説の主役としては登場するが、現代の怪異としてはあまり聞かない。現代人の認識よりずっと外側にあるものゆえに、認識されないからだろう。

「神主さんは、もしその考え通りなら、朧頭骨はどこへ行ったとお考えなんですか?」

 井滝が神主の話をありきで話を進めるのに、神主自身が驚いた様子だった。確かに、こんな話をされて真に受ける人も少ないだろう。神主は少し考えて「見当も付きません。私の勝手な妄想ですから、気にしないでください」と言った。

「勉強になりました。月沢峠の朧伝説ゆかりの地っていうのは、どの辺か分かりますか? ついでだから、写真の一枚でも撮っていきたくて」

「怖いもの知らずですねえ。たしか、標高の看板が立っている場所の近くに石碑があったはずですよ。近くに喫茶店もあったかな。暴走族が事故を起こした後、速度注意の看板が設置されていたはずですから、行けば場所はすぐに分かると思います。時々熊なんかも出ますから、行かれるなら気をつけてくださいね」

「どうも、ありがとうございます」

 神主に礼を言うと、神主からかえって井滝が礼を言われた。

「思ってもなかなか言えないでしょう、首から下が持っていったかもなんて。聞いてもらって、すっきりしました」


 月沢峠へは歩くとかなり距離があるが、巡回バスは峠まで行かないため、タクシーを使って峠道の喫茶店まで乗せてもらった。タクシーの運転手に近頃事故があった場所を訊ねると、通り掛けに教えてくれた。標高の看板の近くに、まだ新しそうな速度注意の看板が立っていた。

 喫茶店で一服した後、峠道を歩いて引き返した。地上はむんと熱気が満ちていたが、標高一〇〇〇メートル超の高さと、生い茂る木々が影を作って、別世界のように涼しい。鬼の伝説とは真逆の、清浄な印象すらある。しかし、道路には街灯もなく、ガードレールもよほど危険な場所以外は設置されていない。道路を挟む森を遮る物は何もなく、ほんの少しの好奇心で道を外れれば、その先は暗くじっとりとした茂みが広がっている。清浄で、不気味。山は昔から、人に恵みを与えるものであり、人知の及ばぬ領域でもあった。

 速度注意の看板の位置から森の中を眺めると、道路に近い場所に石碑らしいものが見えた。森に足を踏み入れ、石碑に近づいて写真を撮った。

 ついでに、怪異の痕跡でもないかと見回していると、森の木々にのまれかかった家を見つけた。板葺きの掘っ立て小屋で、家の中にも枝葉が生い茂っている。中を除くと、森の木々に突き破られたぼろぼろの床の真ん中に、漆塗りの桶があった。所々色あせていて、板の地色が出ている。かなり古いもののようだ。

 大当たりだ、と、独り言ちる。長いこと怪談収集をして回っているが、本物を引くことは滅多にない。指先が震えていた。高揚感に浮き足立ちながらも、冷静に辺りを見回して、首無し女が周囲にいないことを確認する。胴体がないなら、大事には至らないだろう。自身の楽観的な性格に感心しつつ、井滝は屋内へ踏み込んだ。屋内へ踏み込むと空気が淀んでいる感覚がある。

 井滝は枝葉をかき分けるようにして家の中を進み、そっと首桶を持ち上げた。見た目よりはずっと重い。動かしても音がしないので、中身は固定されているのだろうが、やはり頭骨相当のものが入っているようだ。穴がないかと眺めていると、板と板を貼り合わせた箇所に僅かに隙間が出来ていた。

 覗き込んでぎょっとした。

 自分の瞳の一寸先に、自分を見返す瞳があった。金色がかった虹彩に長い睫毛のかかった瞳を細めて、嗤った。

「お前は、食っても、美味くなさそうだ」

 桶の中から、くぐもった音が漏れた。

 気がつくと、井滝は茂みの中に倒れ込んでいた。中天の真昼だったはずだが、空は西側が茜色に染まり、森の中はもう随分と暗くなっていた。辺りを見回すが、首桶も首無し女も家もなくなっている。仕方なく、帰ろうと思って道路へ出ようとすると、石碑のすぐ裏側に、むりやり蓋をこじ開けた首桶が転がっていた。



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朧頭骨 御餅田あんこ @ankoooomochida

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