第58話 踊る芸術サロン⑧:ミュノスの名の価値
――硝子がぱりんと割れたよう。
喩えとして適切かどうかわからないが、令嬢は度重なる衝撃で言葉を失っているように見えた。
(解説役がいなくなっちゃったな。馬脚を露すのはいやだから全部この子にまかせてたけど、こうなったら俺が解説を買って出るしかないのか)
俺はわずかに呼吸を整えて、その間に思考を整理した。
この白磁の蛍手<光器>が素晴らしい作品であることは言うまでもない。
元より蛍手を陶磁器に施すのは難しい技術である。
蛍手とは、成形後の素地に透かし彫りを施して、その部分を透明釉で埋めてから焼成する技法のこと。明時代の中国が発祥とされており、12世紀のイスラームの陶芸品のいくつかにもこの蛍手の技法が認められる。
釉薬とは陶磁器の表面を覆うガラス質の膜である。当然、焼成温度は陶磁器の素地とは異なる温度であるため、焼成工程が難しくなってくる。
それゆえ、蛍手によって複雑な模様を入れようとすれば当然ひび割れを多く生み、歩止まりが非常に悪くなる。
今回持ってきた白磁の蛍手<光盤>は、器全体におびただしい透かし彫りを入れている。
それも、整然とした規則正しい間隔で、大きさも大小つけて、全体として見たときにきちんとした図形になるように。
電動ドリルがない時代に、これと同じことを千枚通しだけで、薄い生乾きの素地に施そうことなどできるはずもない。
素地をゆがめるだけに終わるのが関の山である。
その穴だらけの磁器に透明釉を埋めて焼き上げようと思ったら、尚のこと難しくなる。表面温度の管理を行える現代の焼成窯なくては実現は極めて難しい。
今回持ち込んだ蛍手が常軌を逸していることは、一目瞭然であった。
(元よりこの蛍手の作り手は、ファエンツァ国際陶芸展の新人賞や、国際陶磁器展美濃の審査員特別賞など、国際的な陶芸展で評価された気鋭の陶芸家だ。文句の付け所があるはずもない)
蛍手を見たことがない商人たちがいたようで、「なんで光が透けているんだ……?」と心底不思議そうに器を覗き込んでいた。
だがそれが施釉による穴だとわかると、皆が言葉を失った。
蛍手の陶磁器を知っているものからすれば、尚更恐ろしいものに感じられたはずである。これと同等のものを未だかつて見たことはないだろうし、今後も見つけられる確信が持てないだろう。
令嬢による解説をお願いするまでもなかった。
(後は、パーシファエ嬢の言葉を待つだけだが……)
彼女はただ、潤んだ瞳で蛍手に魅入っている。
法悦。
奇跡を目の当たりにした敬虔深い信徒の如く、彼女はただただ、美しさに胸を打たれていた。
「――――――」
言葉を促した方がよいだろうか、と俺は少し考えた。
ややあって令嬢と目があった。
彼女はしばし瞬きを繰り返していた。
少しずつ、彼女がただのうら若い少女から、凛とした城伯令嬢へと戻っていくのが分かった。
「――最低ね。こんなに弄ばれるなんて、屈辱だわ」
びっと扇子が広がると、令嬢は口元を隠して、小さな溜息を吐いた。
彼女の双眸には、強い意志の炎が宿っているように見えた。
「貴方を見くびっていたわ。今夜は貴方の底を割るつもりだったのに、酷く残念ね」
「ご勘弁を。私は所詮木っ端商人です、ミュノス家の庇護なしでは立ち行きません」
「貴方が欲しいなら」
ぞっとするほど甘い声で、令嬢は詰め寄ってきた。年端もない少女の出す声ではなかった。
「我が一門のあらゆる庇護を与えられるけども、覚悟はおあり?」
「そこまで大層なものでなくても、ささやかな自由さえあれば大丈夫ですよ」
「あら残念」
一体何を提案されるところだったのかちょっと怖い。
場の空気はまたもや異様なものになっていた。さっさと変えたいところである。
「……本当に残念よ」
獲物を狙うような目。正直あんな目で見られては落ち着かない。
「今日の
「そうね。こんなに面白い
少し令嬢は間をおいて、「……褒美をね」と意味深に繰り返した。
ふと、背後でゾーヤが機嫌を損ねている気がした。何となく、そんな気がした。
◇◇◇
見せるだけでもよし、奏上品として令嬢に渡してもよし。これは、美への談義を深めることが第一義としてあるからであった。この決め事がなければ、この
だが俺は、今日持ち寄った全てを、令嬢への奏上品として贈呈することにした。
当然のことである。
それ相応の褒美を交渉で勝ち取るため、今日俺はこの場にいるのだ。こんなにいい品物を取り揃えられる実力があるのです、と見せびらかしに来たわけではない。商人としての実力を認めてほしいのではなく、もっと別のものが欲しいのだ。
「何が欲しいの?」
各々が休憩に入り、酒をたしなみながら歓談に入った頃、人払いの時間を頂いた俺は、パーシファエ嬢と交渉の席についていた。今この部屋の中にいるのは、パーシファエ嬢、アルバート氏、ゾーヤ、そして俺の四名である。
令嬢は、すっかりいつもの鋭さを取り戻していた。
これだけの名品をただで受領できると思っていないあたりが、彼女の聡いところである。迂遠な会話をせず、無駄なく要点を押さえにくるのも彼女らしいところである。
「貴方が魔道具に入れあげているという噂なら聞いているわ、いくつか用意したけど足りるかしら」
「確かにそれらも欲しいですが、本題はそちらではありません」
「ふぅん?」
品定めをするような目付き。俺は居心地の悪さを感じながらも、恐らく最も本質に近いであろう話を切り出した。
「今後の話にも繋がるのですが……私が取り揃える工芸品や美術品について、これらを『ミュノス家お抱えの職人が作り出した特注品』という形にして世に流通できないかの相談です」
「やるじゃん♥」
俺の一番の泣き所でもあり、城伯令嬢が最も欲しいと考えている美味しい部分。
即ち、『この美術品はどこからやってきたか』という話こそが、今回の話の大きな焦点である。
「くだらないご褒美に尻尾を振る子じゃないのね」
扇子で隠れた口元から、再び、ぞっとするほど甘い声が聞こえてきた。
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