第39話 芸術サロンに向けての準備/ベルベット生地
芸術サロンに誘われたことを早速ゾーヤに相談したところ、彼女は短く「……そうか」と呻いていた。
話をうまく咀嚼できていないのだろうか。それとも話が突飛すぎて呆れているのだろうか。
「いったい何者なんだろうな、アルバートさんって普通の商人って感じじゃないよな」
「うむ……只物ではあるまい。この街ミュノス・アノールは交易都市としてそれなりの規模を誇っている。そんな街で質屋業を営んでいるのだから、きっとアルバート氏は非常に優れた鑑定眼をお持ちなのだろう。そうでなければ、日夜舞い込んでくる雑多な品々に適正な値付けができるはずがないからな」
話はアルバート氏のことに及んだ。
正直、俺から見てもゾーヤから見ても、アルバート氏は少し変わった御仁である。
上品な仕草や素振り。落ち着いた言葉遣い。
貴族と日ごろからお付き合いがあるお抱えの商人と言われてもおかしくはない。というより実際その通りなのかもしれない。身のこなしが洗練されているように見受けられる。
そもそもサロンに招待されているのだから、商売上の付き合いがあって当然だろう。
「交易が盛んなこの街で長く商人として生き残っているということは、それだけで商才がある御仁だと言えるだろう。相談してもいい知恵を出してくれる。知己も広い。
「まあ、偶然だけどね」
こればかりは本当に偶然である。いくつか質屋や雑貨商に顔を出して、条件の良かった店を選んだだけにすぎない。引きが良かったというべきだろう。
知己が広いのは、人柄ゆえだろうか。
アルバート氏は、日中はどこかによく出かけてる。
質屋の店番は生真面目な娘さんに任せて、アルバート氏本人はというとあちこちの場所に人付き合いで顔を出している……ように見受けられる。
傍から見ていても、「これから中央区の親方達とワインの試飲会を行うのですよ」とか「あちらの商会のご夫婦にお子さんが新しく生まれたとのことで、今から秘蔵のチーズをおすそ分けに向かうのです」とか、しょっちゅう外に顔を出しているので、悠々自適の隠居生活を送っているのか、あちこち忙しく営業活動をしているのか、よく分からない。
あの真面目そうな娘さんの他にも、息子が二人いるという。
一人は代書屋で、一人は商人ギルド勤めらしい。アルバート氏本人の顔の広さのみならず、代書屋や商人ギルドにまで
普通、ただの一介の質屋業の商人が、そんなに顔が広いものだろうか。
多分そんなことはないだろう。
「貴族令嬢のサロンにもお招きされるような立場だもんな……」
「……。もちろん、質屋とは金貸し業だから、石大工や金細工の
俺もゾーヤの意見に全く同意であった。
となると、ますますこのサロンで失敗するわけにはいかなくなってきた。大きな失敗をすれば、アルバート氏の顔を潰してしまうことになる。何があっても
「何か策はあるのか、
「あるさ。物量に頼ってしまうことにはなるが、少なくともどれか一つは満足いただけるような、そんな飛び切り豪華なものをたくさん調達してやろうと思っているんだ」
まあ、それを無策というのだが。
数に頼って戦う、という何の捻りもない作戦。
だが、そんな頼りない回答とは裏腹に、ゾーヤは信じられないようなものを見たような顔で驚いていた。
「……あんな工芸品をまだまだたくさん調達できる……?」
◇◇◇
「どうだ? これなら物珍しいし、品質も高いし、かなりいい値段で売れるんじゃないか?」
「……」
うちの子たち五人全員をそろえた俺は、早速新しい商品を見せつけた。
今までは、江戸切子、津軽塗(唐塗梨子地)、九谷焼(赤色金襴手)、ベルナルド「エキュム・モルドレ」等の工芸品や、砂糖・胡椒を中心に取り扱ってきたが、そろそろ新たに増やしたいものがあるのだ。
それは生地である。
「
俺の持ってきた生地を見て、パルカやアルルは凄い凄いとはしゃいでおり、ハユやカトレアは良く分からなさそうな顔をしていた。
ただ一人、ゾーヤだけが、顔を引きつらせていた。
「うーん、綺麗だねえ、肌触りもすっごいすべすべしてる」
「ですね~、服を作ったら素敵でしょうね~」
「……?」
「うむ、よくわからんが凄そうだ! 偉い人が着る服っぽい素材だな!」
めいめいが好きなことを言っている。こういう個人の感想みたいな言葉が、俺の一番欲しかった情報なので助かる。
裏を返せば、普通の人間が見てもこの生地は『良さそうな生地』という印象を与えるものだということになる。ぱっと見の印象は大事である。
あと一人、残るゾーヤの意見も聞いてみたいところだが。
そう思って水を向けてみたところ。
「ゾーヤ? さっきからどうした? ずっと無言ですべすべ触っているけど、気に入ったか?」
「……
王侯貴族。
予想外の言葉が返ってきて、俺以外の全員が目を見開いていた。
俺もちょっと驚いたが、まあ、この回答は予想の範疇を外れていなかった。むしろこの世界にも同じようなものがあるんだな、という方向で感動を覚えていた。
「てんがじゅう……? へえ、そんな名前があるんだ。俺はベルベットとかベロアって呼んでるけどね」
織物の王様、ベルベット。
パイルの直立性に優れ、その毛並みにより独特の光沢を醸し出している。パイルを織り込む織り方なので、密度が高く、さらにパイル抜けが起こりずらい頑丈な構造になっている。
古くは、オスマントルコ皇帝の衣装等の高級装束用に製織されたり、祭壇の掛布に使用されたりと、貴族のみならず司教たちにもこよなく愛されてきた。
当時織物商でもあったフィレンツェのメディチ家も取り扱っていたという由緒正しい生地、それがベルベットである。
「……にしても、こんな見事な
だろうな、と俺は内心で納得していた。
中世ヨーロッパの時代、紅色の染物を作るのは非常に高価だったのだ。大量のカイガラムシを乾燥させる必要があり、何十匹捕まえて染料1gというような途方もない労力が必要になっていた。
今でこそ、ポリエステルやレーヨンの朱色のベルベット生地を見かけるのはごくごく当たり前になってしまっているが、当時は"色"も重要だったのだ。
どうやらこの世界でも、赤色の染料は希少なようであった。
「ちなみに紫色もあるよ」
「えっ」
「でも主役は
「えっ」
ゾーヤの喉が変な音で鳴った。驚かせてしまったらしい。
確かに俺が持ってきたベルベット生地は、それだけでも十分に王侯貴族や司祭たちへの贈り物に使えるような高級品であろう。
事実、現代日本でもポリエステル・レーヨン生地にしてはそれなりに値の張る一品である。
だが、いくらいい生地とは言っても、芸術サロンの手みやげとしては芸が無い。文字通りに
そう、あくまで主役は中に包む割れ物である。こんないい生地をただの包むための緩衝材として使うからこそ、中身に目を引かれるのだ。
貴族令嬢と顔通りの叶う希少な機会、生地だけを贈って終わらせるつもりは毛頭なかった。
―――――
2024/04/24:
記事→生地に修正しました!
ご指摘ありがとうございます。
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