第一章 童話は彼女を救えない4
この小さな
お稲荷様は、稲の神だ。
だから、米からできる日本酒にとって大切な神様なのだと母が話していた。
母が大切にしていた神様だから、紀枝は母がしてきたように、朝に水を換えて手を合わせるのが日課になっている。
大きくなったらお祖父ちゃんと一緒に旧酒蔵に入って、お酒が造れるようになりますように……と祈っていたこともあった。
まだ女の杜氏は数えるほどしかいなくて自分がなれる可能性は少ないけれど、なれるならなってみたい気持ちがあった。
祠の上に枯れ葉が落ちてきたので、紀枝は手で軽く払う。
すると祠の薄茶の汚れが指に
浮かび上がった黒い指紋をしばし見てから、紀枝は本を脇に挟み、ポケットからティッシュを出して、祠の上を綺麗に拭いていく。
そのティッシュはハンカチ代わりに持っているもので、他の子供達のように可愛いパッケージに包まれたポケットティッシュなどではなかった。
ボックスティッシュの紙を、彩に隠れて数枚取り出してポケットに詰めているのだ。
そんな風に貧乏くさいから、紀枝と遊んでくれる友人はいなくなってしまった。
――いや、一人だけいた。
最近、隣町から引っ越してきた女の子で、もうすぐ卒業だからという理由で転入届を出していない。
だが、その子も何かがある家の子らしくて、彼女の家に入ったことすらなかった。
それに、たまに会って少し会話をするだけで、お母さんたちの挨拶のようなことしかしていない。
「あの子の家も、こんなんなのかな……」
うつむきながら
体温で解けた雪は、冷水となって背筋をざわりと冷やしていく。
紀枝は
風邪をひく前に家へ帰ろうか、でも帰ったら今度はどんな目に
掃除機もモップも
それか、洗濯板というものを使っての大量の衣服の手洗いだろうか。
それとも、強烈なカビ取り剤をゴム手袋もさせず、ブラシも持たせずにさせるタイル貼りの風呂掃除……あれが一番嫌だ。
(――嫌だなんて言えないけれど)
そして紀枝は思うのだった。
もしかしたら、あの人は、もっと酷いことを考えているかもしれない、と――。
殺すよりも、殺す一歩手前を楽しんでいるのだ。
猫が捕まえてきた雀を
いや、猫には雀への憎しみなどない。
彩からは、明らかな紀枝への憎悪を感じる。
あれこれと考えている内に、鼠色の空が紺に変わり、雪が
もう直ぐ、死すら呼ぶ凍った夜がやってくる。
頬も、耳も、手も、剥き出しになった首も、激しい雪に
助けを求めるように、祖父がいる酒蔵に大きな黒目を向けた。
だが、酒蔵の扉はしっかりと閉まっていて、紀枝を心配して顔を出す人の姿はなかった。
クラッシックや宗教合唱曲が好きだった祖母はとっくの昔に亡くなっていて、家族と呼べるのは祖父だけだ。
しかし、祖父は、紀枝に優しくしてくれるが助けてはくれない。
なぜなら、紀枝を助けると祖父が生き甲斐にしている古い酒蔵が、彩によって壊されてしまう恐れがあるからだ。
いや、彼女ならば本当にやりかねない。
あの大切な銘酒<鈴>が、祖母の名が与えられた酒が造られなくなってしまう。
彩は「この世の中、少量しか造れない酒なんて足手まといよ!」と父に何度も訴えていた。安酒のせいで銘酒のブランドが地に落ちたという事実を「銘酒なんてあるから安酒があっちと比べられて悪く言われてしまうのよ」という風に転換して父を洗脳しているのだった。
今や、父は彩の
彩は嫁いできてからたった二年で、この
(あれじゃあ、いないのも同じ。死んでいるのと変わらない)
紀枝は、濡れて重くなった内履きを引きずるようにして裏庭を後にしようとした。
その時、背を向けたお稲荷さんの祠からブツブツとした声が響いてきた。
『遊べよ……雪で遊べ』
そんな風に話しかけられたような気がする。
だが、実際はそこまで明瞭に聞こえていなかった。
きっと、辺りを
そう思って紀枝は気にとめず、内履きの中のぐしょぐしょになった靴下の気色悪さに滅入りながら家へ向かっていく。
死にたくないから、帰るだけ……。
でも、濡れた足で家に入ったら、彩に怒られるだろう。
ティッシュは使ってしまったので、服で拭くか、見つからないように下着を脱いで拭くかしかない。
足が濡れたという些細なことすら、今の彼女には重すぎる苦痛だった。
ああ、どうしてこんな風になってしまったのだろう。
母がいた時は、父が帰ってこなくたって、こんなことを気にしなくてもよかったのに。
『紀枝――紀枝。雪で遊べ、
今度ははっきりと、何者かの声が聞こえた。大きなつららのように滑らかな美しい声だ。
驚いて振り返ったが、裏庭には誰もいない。
猛々しい雪風が、葉を失った木々を乱暴に揺さぶり続けているだけだった。
「紀枝ちゃん」
今度は後ろからではなく、前方から声がした。
顔を元に戻すと、あの子がいた。
紀枝の唯一の友達である
住んでいるのは隣町のアパートで、年下という今年か彼女について知らない。
だけど、学校でも嫌われている紀枝にとって、彼女の存在は米粒ぐらいの小さな救いだった。
「未子ちゃん……、今日は大丈夫な日なの?」
何も食べさせてもらえないのか、未子の頬は痩せこけて青ざめている。
光の加減によっては、死体の肌の色と同じだ。
「……大丈夫。また近所のおばちゃんにお菓子もらったから、紀枝ちゃんにもってきたの」
いつも未子は、こうして紀枝のところにお菓子を持ってきてくれる。
そして、そのほとんどが、彼女を哀れんだ近所のおばちゃんの手作り菓子だ。
最初、遠慮しようと思っていた。
だが、今は素直にもらうことにしている。
未子の瞳の奥に明らかな哀れみの色があるからだ。
未子は、紀枝を哀れむことで正気を保っていられるのだろう。
だから人の
これは、ほどこしなのだ。
ありがたく、いただくだけだった……。
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