You know I want you

You know I want you

 電車内は疎らに揺れている。日は完璧に沈みきり午後八時を過ぎる頃なのに、中は箱詰め二歩手前といった具合だ。

 隅の席を陣取る八田はったはスマホのインカメラで己の顔面を凝視してから、コーラルピンクの唇を小さく突き出し気合を入れた。

 合コン元い戦場に赴くのである。

 最近彼氏が死んだから。

 男を失った彼女の心を埋めてくれるのは男だけなのだ。多くの男女がそうであるように。

 車内に吹く風が、八田のカーリーな茶色い毛先をハタハタ浮かせた。

 切り替えには苦労した。元彼は優しくて楽しくてそれなりに良い人だった、結婚だって考えていた。そして恐らく彼も考えていた。恐らくだ、今はもう知る由もない。同棲していた部屋のクローゼットの奥に隠された荘厳なエンゲージリングを見つけたからとて、それは早計というものである。


『次ァぁ、……っかのブァー。のば~……』


 カスカスのアナウンスが響く。

 次の人は声が渋いといいかもなと思いながら、降りる駅なのでスマホをしまった。

 行きつけの飲み屋で行うという合コン。こちらの事情など何も知らない、大学からの友人に誘われた合コン。彼女はこれに二つ返事で了承した。暗い部屋で、鳥の巣みたいにやさぐれた髪と身のままブルーライトを浴びたのだった。

 電車を降りて、駅を出たところのパチンコ屋の耳が引き千切れそうな轟音を通り過ぎると、八田は狭くも広くもない明るい道へ引きずり込まれた。


「ッ」


 ミュールの踵が傾きカコッと音を立てる。焼き鳥屋やカラオケパブがガタガタ立ち並んでいる。

 そこで彼女はフルフェイスを被った男の腕の中で、雁字搦めに抱擁されていた。愛しているようだった。

 微かなウィンストンに加え男らしいメントールの香りと、それらをかき消すような鉄臭さが鼻を刺した。心臓は依然スーパーボールの如く跳ねていて、正常にはもう戻らないような気がした。


「は、なしてよ」


 男がグローブを嵌めた手で八田の髪に触れたとき、とうとう彼女は彼を突き飛ばした。電光掲示板の緑色がヘルメットに反射している。

 酔っているのか、怖いものがない感じのナンパか。まさか友人が寄越したお迎えだろうか? それとも本当に「お迎え」だろうか……。


「お前サスペンス系って大丈夫だったよね?」

「えっ、ギャッ」


 考えている間に彼女は突如ヘルメットを被せられびっくりして、顕になった男の頭部に短く叫んだ。

 青黒く腫れた左目、垂れ流しの鼻血、痣だらけの頬と顎。可哀想なくらいこびり付いた泥色の血は額からか頭皮からのものか、よく分からない。全体的に原型を留めていなかった。頭蓋は凹んでいるし。

 それでも八田は、男に見覚えがあったのだった。にわかに信じ難いが。彼に手を繋がれて、彼女は今度こそ素直に握り直し指を絡めた。


「……え? 祥太しょうたじゃん。イタソーッ。? え……いや……わーッ!! 生きとったんかワレ、死んどきなさいよ」

「それは意味分からんけど」

「お葬式にいたのに!」

「主役だったね」

「燃やされたよね?」

「うん」

「ウワア! こっち見ないで、足の裏向けないで!」

「顔なんだけど」


 迷いなく歩き出した祥太は「しょうがないな」と顔を逸らし、一方の彼女はそれに引かれながら、拒絶したくせにしげしげと見つめ上げていた。

 いつも綺麗で好きだった彼の横顔にしては初めて見た種類の顔だ。デコボコで痛々しい、まさしくリンチの跡である。リンチされた等身大の人間など画面越しにも会ったことはないが。

 とにかく葬式では彼の死に顔を拝まず終わったし詳しい話も分からないままだったから、こんな悲惨だとは思っていなかった。チャームポイントの白い歯なんて三、四本抜けているので、こんなにはっきり喋ることができるのもおかしかった。


「死んだの?」

「死んだよ」

「じゃ今のあんた何」

「幽霊? 幽霊かな……。でも脚あるし、触れるし……見た目より元気」

「『神への冒涜』とかって言うんじゃない? そういうのって」

「神様がいたことも神様の前にいたこともないでしょ」

「確かに、アハハ。……」

「……」


 そして完全に黙りきった頃、祥太が手を解いた。離れた間から冷えた風が吹き抜ける。

 彼が向かうは車道の隅で停まりスマホを弄る若いバイカーである。ガードパイプに足を引っ掛けてフラフラしている。


「路駐してんじゃねえぞバカが」


 祥太は怒鳴りながらそのバイカーを振りかぶって殴った。喉仏をえげつない勢いで打ち付けられたバイカーは何も発さずかくん、とバイクから崩れ落ちた。事態を呑み込めないままとりあえず頭の片隅で「路駐ってそうなの?」と思った。

 それの前にしゃがみ込んだあと、一つ蹴って退け、祥太が当たり前のようにバイクに跨り八田に「おいでおいで」と言うように手招きをする。


「有り得ない。本当に。有り得ない」

「大丈夫だよ俺の方が怪我してるから」

「だから何!?」


 八田は金切り声で噛み付いた。しかし気分は既に完璧に祥太に乗せられていたので、ノリでその後ろに跨りバッグを前に抱え、彼の腹に腕を回した。もうこれは話を全て聞かないと帰れないと思ったのだ。

 不思議と帰りたくはなかった。合コンなどバックれてしまえばいい、ドタキャンは得意だった。

 祥太は「訴えられても被害者面すればいい」という思いから言ったのだが、思考の飛躍が甚だしくて彼女には伝わらなかったようだ。

 グアッと速度を出しあてどなく前進した。

 一連の流れを見ていた通行人たちの目線など、振り切ってしまえばどうでもよかった。人が人に無関心なのは、お互い様だった。


「どこ行く? レイトショー面白いのやってるかな」

「払うの誰だと思ってんの? てか、私払えんし」

「こいつ」


 祥太は右手の人差し指を浮かせ爪先で二回ほど控えめに叩いた。八田は首を傾げた。

 近くの映画館をスルーしてもっと先の方へ進んだ。閑散としてきていた。八田は、彼がヒッソリとしていて人が少ない方が好きなことを知っていたので何も言わなかった。小さな映画館となると駅から遠ざかり帰りが面倒臭いのだが、好きにしろと思った。

 そのあと、淑やかな映画館の前にバイクを停めて、祥太は彼女に鍵を渡しリアボックス​──バイクの後ろにある荷物入れ──を開けるよう促した。

 中にはアディダスの灰色のリュックが入っており、彼がそれから躊躇なく財布を取り出した。八田は目頭を押さえた。


「……。いや。いやっ……」

「トーシローちゃんだよ、財布までここに入れるなんてさ。俺らからしたらありがたいことだね」

「なんで入ってるって知ってんの……?」

「考えるだけ無駄だって」

「……やらかしたことある? ここに入れて盗まれたことあるんでしょ、閉め忘れとかで」

「はにゃ?」

「あんた」


 彼女は他人の、しかも恐らく年下の金で遊ぶのはちょっとどうなのか、しかし彼が腕を振り上げたときから、盗んだバイクで走り出したときから「正しさ」を宣うのは諦めるべきだったかもしれないとまごついて馬鹿を見ているのである。

 マジックテープのビチビチと離れる音と共に祥太は笑った。酷い笑顔だった。

 因みに彼はそもそも閉め忘れでもなんでもなく、自宅とバイク本体以外で鍵を閉めるという文化を知らない、面倒臭いので。痛い目を見てなおである。


「ただの罰金って考えろよ。はい、買ってきて」

「なんで私が……うわ、ああ。うん……」

「うん。ビビられちゃうからね俺、この顔だと」


 彼は八田に四千円を渡した。最近の若者は持ってるなあと思って、そっくりそのまま呟いた。

 受け取った八田は肩を竦めて前髪をフッとロウソクの火にするみたいに吹く。

 出入口の右隣にあるチケット窓口は刑務所の面会室のようだった。アクリル板越しにピースしながら金とチケット二枚を交換する。映画のタイトルは「マルフリーテ」という。それしか時間が残っていなかったのだ。

 祥太は出入口の横で壁に背をつけながら腕を組んで俯いている。


「貸切だよ。楽しんで」


 窓口のおじさんが言った。

 八田が祥太に寄りチケットを見せると、彼はマッシブな赤茶色い扉を開け八田を先に行かせた。

 バイクは路上に停めたまま置いておいた。

 入った途端に彼の足取りは踊り跳ねるように軽くなるのだった。


「貸切だってさぁ。貸切! 人生初かも」

「全然笑えない」

「奥? シアター1かな」

「シアター2。二階じゃない?」


 狭くて高い段差を一段一段踏みしめ登った。

 わくわくした様子で彼が手を握ってくる。知らない温度だった。汗でジトジトしていた彼の掌はもうこの世に存在しないのだ。


「一番前座ろう」

「観にくい! 真ん中行くよ」


 シアター内。八田が彼を引きずり二人は中央の席についた。

 案外時間がギリギリだったのか、既に予告や注意ムービーは終わっており配給会社のロゴがデカデカとスクリーンに映っていた。

 八田がふと覗いて見たシックな腕時計は、九時半を指していた。映画は二時間と少しある、終わるのは日が変わる手前だろう。

 他に誰もいないため彼女は思い切り声を出してごねた。


「あーあ。終電なくなっちゃう。おうち帰れなぁい」

「煙草の中に万札入ってるよ。ヘソクリなんだけど。それ使って帰んな、釣りはいらん」

「送れよ。せめて」


 最初の場面は海だった。白いワンピースの令嬢、マリーを想いながら、男が口笛を吹いている。そうして回想に入る。

 八田はザバッと海水みたいに汗を流した。

 なんで分かるのと。

 祥太は彼女の方を向いて、ニッと芳しく破顔した。やはり最悪な顔なのだが、どうしたって彼女にとっては可愛い彼なのだ。


「俺はなんでも分かるんだ」

「何それ。……」


 なんで私が持ってるって分かるの。

 どうしてウィンストン、まだ捨てられてないって知ってるの。と。

 八田のバッグにはいつだって彼が最後に置いていったウィンストンの箱が眠っていた。ライターなんてないしそもそも吸えたこともない。だというのに手放すことだけはしなかった。

 汗をかいたのは恐れからではない。見透かされていた恥ずかしさだったし、眉頭に刻まれる皺はこの恋愛に残るほとぼりという存在への悔しさそのものだった。

 こんな調子では見つけたエンゲージリングを付けることすらできなかったこともバレているかもしれない。

 ひとまず観念して彼の視線を感じながらバッグを開き、底を探った。小さな箱状を指先で掴み取っては開けた。十五本も残る煙草と箱の壁に挟まりギュウギュウに畳み込まれた一万円札は、確かにあった。

 八田はなんだか色んなものに呆れ返って溜め息を漏らした。


「てか、手持ちないの? 珍しい」

「今日は奢られる気満々だったから」

「ああ、誰によ。ベイちゃん?」

「いや男」

「は? 誰。待て、どこ行こうとしてたの」

「合コン」

「エ!? 嘘だろ、立ち直りが早すぎる。薄情者」

「先に勝手に死んだのはあんたでしょ」

「……」

「なんで死んだの」

「……」

「薄情者」


 八田は今まで意図的にその質問をしてこなかった。

 聞いたってどうしようもないから。

 今聞いたのだって本気で教えてほしいわけではなかった。

 私と結婚したかったくせにぽっくり逝っちまいやがって。彼女は泣いてやることだってしたくなかったため、そうやってあぐらをかいて理不尽に真っ当にキレているのである。これは意趣返しだ。

 マリーと青年のダンスシーンは鮮やかだった。上からのカメラワークではマリーの青いドレスが傘のようにくるくる回り舞った。

 八田が手すりに置いたその手の甲に、祥太が重ねた。

 その後は無言。画面の奥で差別的なジョークが言われていても猫が死んでも、マリーたちが神の前で満ち足りた口付けを交わしても、八田と祥太の間の空気は揺らがないままであった。

 物語は「結」に突入する。

 八田は、それまでに何度もあくびをした。画面の彼らの陳腐な恋愛がつまらないだけでなく、普通に夜も遅いから。


「知りたい?」


 沈黙を裂いたのは祥太からだった。

 八田は目をキョロッと向けるだけであった。


「コカイン星の宇宙人にさぁ、新薬打たれちゃった。分かんないけど」

「はあ」

「別に痛くなかったよ」

「心配してない」

「元中陸上部の先輩もいたし」


 彼は喉から息を吐き含み笑いをした。「人生って嫌ァね」と共感を求めるように、一人言として言った。

 八田は失礼だなと思った。私がいた人生も嫌かよと。しかしそんな風に信念なく終わる人生は確かに嫌だなとも思った。

 祥太の顔は、薬でいっぱいの脳を持つ彼らの、薬でいっぱいの血管を持つ腕で殴られ遊ばれ放題になってしまったためである。既に意識がなかったので、苦痛も記憶もなかった。

 生と死の境目が曖昧なので、本当は彼自身も死んだことは信じきれていなかった。しかし彼女に言われたので……なんでも理解していたように見せかけて、今さっきやっと自分は死んだのだと理解した。死んだって全知全能にはなれなかったようだ。


「あんま治安悪いところ行かないで、今日みたいに。死なない方がお得だよ」


 彼女のものを握る手に、力が込められた。説得力がある顔で見つめられては、いつの間にか顔を向けていた八田は目を離せず。

 そして不意に二人は唇を合わせた。一瞬である。

 いつもと同じだった。彼はいつも、もう慣れてもいいくせに緊張するのか小刻みに指が引き攣っていて、最後に彼女の唇を親指で撫でる。彼女はそれに目を瞑ればいいのか、いや一瞬なのだからと見開けばいいのか迷って、不細工な顔になってしまうことが嫌だった。

 眉を顰め半開きの目で、八田は彼を見上げた。


「あんたのための口紅じゃなかったのに」

「そっか」


 彼女はいい加減彼から目を離し、体を真っ直ぐ元に戻した。

 だから彼がどんな顔をしているかなんて分からなかった。辛うじて、俯いて映画を観ていないことだけが視界の端に入り見て取れた。


「俺だけが良かったな」


 エンドロールは続く。

 か弱い一言を最後に、重なる手に篭った体温は霧散していた。

 それを彼女は深く考えなかった。きっと彼は歓迎されなくて不貞腐れてしまったのだ。それだけである。

 すすった鼻の下を擦る。

 映画はすごく幸せで、とんでもない駄作だった。内容も覚えていない。映像が綺麗なだけではないか。

 それでも最後まで観切らず劇場が暗いままの間に去って行くなんて、やっぱり彼とは分かり合えなかったのかもしれない。

 八田はすっくと立ち上がり一人でシアターを出て、階段を降りた。


「連れは?」

「死にました」


 おじさんは食い下がりはしなかった。

 八田は捕まえたタクシーに揺られ、二分も経たないうちに目を瞑った。

 結局、彼が自分の妄想なのか本当に実在していたのかは分からなかった。分からなかったけれど、苦しくなかったなら良かったじゃんと思った。

 彼女は眠かった。生きているところだった。


「お姉さん。着いたよ、一万千四百円」


 ポゥと意識を浮上させ瞬きをした彼女は、運転手の言葉を飲み込むのに時間を要した。そして電柱の光に激痛のように目を細め。


「諭吉じゃ足んないじゃないのよ……」


 と、合コンの費用になるはずだった三千円から出して、呟いた。



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