何気ない日のなんでもない危機

たると

何気ない日のなんでもない危機

 甘い匂いがする。

 光は思わずキッチンへ向けて鼻を鳴らした。

 砂糖の焦げ付く匂いと、卵と牛乳の匂い。

 キッチンの向こうではエプロンをつけた杏莉がプリンを作っていた。

 視線に気づいたのか、光の方を見た。

 小首を傾げた彼女は微笑む。


「もうちょっと待っててね。オーブンに入れて焼いちゃったら、冷ます前に一個食べちゃおう」

「あ、あぁ」


 窓から射し込む柔らかな昼の光が杏莉を照らしている。可愛らしいその姿に、光は思わず視線をそらした。

 そんな彼に、杏莉がくすりと笑う。


「どうしたの光」

「あ、いや、すまない。なんだか、きみが眩しくて……」

「またそういうこと言って」


 杏莉が目を半ば伏せ、火から下ろした小鍋を傾けている。

 器にカラメルを入れているのだろう。

 小鍋をシンクにおいて、杏莉は次にボウルを手に取った。

 トトト、と小気味いい音がして卵液が注がれていく。

 どこか楽しげな彼女に光はつい笑ってしまった。


「なぁに、なにかおかしい?」

「違う、きみが楽しそうだからつい」

「えー、なにそれ」


 くすくすと笑い声をこぼす杏莉がひどく愛おしくなって、光は立ち上がる。

 お湯を張った天板に器を並べている彼女を背後から抱きしめると、大げさなほど杏莉の肩がはねた。

 器が彼女の手から離れる。

 ひっくり返ってしまいそうになったそれを、光の手が慌ててキャッチした。

 危うくお湯の中に卵液がぶちまけられるところだった。まさに危機一髪だ。

 二人して顔を見合わせる。


「……もう、光! びっくりするでしょ!」

「すっ、すまない! もうしないようにする」


 消えたい……と小さくこぼしながら光はうずくまった。

 頬を膨らませていた杏莉は、彼のつむじをポンポン叩く。


「はいはい、消えないのー。別に作業してるときじゃなかったらいいから」

「すまない、本当にすまない」


 なおも謝り続ける彼に、杏莉はころころ笑った。

 天板をオーブンの中に入れて、スイッチを押す。

 視線を合わせるように環のそばにかがみ込むと、彼の両手をとった。


「ほら、出来るまで向こうで待ってよう? それとも二十分もここにいるつもり?」

「うぅ……」


 申し訳なさげに呻きながらも彼女に導かれるがままに光は立ち上がる。

 ぎゅ、と正面から彼女を抱きしめると、もう一度ささやいた。


「すまなかった」

「こらしつこいぞー」


 からかうように笑う杏莉は、心底幸せそうだった。

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何気ない日のなんでもない危機 たると @0123taruto

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