第5話 夏休み前②

 今日も補講を終えて、僕は河川敷へと向かった。橋の下にあるいつもの場所へ行くと、既に宝条が台本片手に呟いていた。連日の練習でセリフはほとんど頭に入っているはずなのに、彼女はびっしりとメモ書きの入った台本を手放さない。

 以前、立花に注意された時、不安で見ないと安心できないと言っていたのを聞いた。

「に、西山さん……!」

 僕が近づいてきたのに気付き、宝条は台本から顔を上げてこちらを見た。長い前髪と眼鏡でほとんど隠れた顔は、それでも笑顔を浮かべているのが分かる。

「あのっ、私、今日は、シーン5の練習がしたくて」

「ん、あ、ああ……。分かった」

 ぼんやりとしていた僕は、気合の入った様子で話しかけてきた相手に反応できないまま、生返事をしてしまった。

 宝条の眉が不安そうに下がる。

「えっと、そ、その……今日は気が乗らないですか?」

「え、いや。そんな事は無いけど」

「なんだか、げ、元気ない気がして……」

 図星を突かれて言葉を詰まらせる。どうにも結城が言っていた立花のストーカーの存在が頭を掠めて不安を残す。

 ――それに、宝条がこのまま舞台に上がるのを止めなくてもいいのだろうか。どんなにいい演技をしたところで、見る人間に悪意しかなければ笑い者にしかならないんじゃないのか。

 嫌な考えは広がりをみせて、僕からやる気を削いでいっていた。止める『べき』。止めさせる『べき』。そんな考えばかりが頭に浮かぶ。彼女をその気にさせたのは、僕や立花だというのに。

 でも、どうして宝条は、立花の提案に乗ることにしたのだろう。僕が考えるような事は宝条だって考えているだろう。

 疑問はそのまま口を突いて出た。

「……なあ。宝条はどうして劇に出ることを決めたんだ? こんな嫌がらせ、乗る必要なんか無いし、やりようなんて他にいくらでもある事分かってるだろ? 立花がああ言ったから断り切れなかったのか?」

「その、それも有るんですけど……あの時、西山さんが『無理だ』って言わないでくれたから」

「え?」

 予期しない言葉に咄嗟に間の抜けた声が出た。自分の名前がここで出てくるとは思っていなかった。

 宝条は取り繕うように、両手を前で振って、視線を泳がしていた。

「えっ、あ、あの……。も、勿論、西山さんが『私になら出来る!』と思って言わなかったわけじゃないって分かってます。そこまで自惚れてるわけじゃなくて……えっと。……、その……」

 宝条の声は、徐々に細くなって、歯切れが悪くなっていった。

言い淀む彼女に、僕は怪訝な目を向けていたのだろう。彼女は躊躇いながらも顔を上げると、小さく首を振った。

「や、やっぱり……違います。私、あの時、自惚れてしまったんです。に、西山さんがあの時、目があったのに私の事引き留めないでくれたから、で、『出来る!』って少しでも、ちょっとでも思ってくれたって……、き、期待してくれたと、お、思ってしまって。い、いつも、そんな事無かったから、う、嬉しくて――」

 彼女はつっかえながらも、必死に言葉を紡いでいた。あの時、僕が言い淀んだだけの瞬間が、彼女が決めることだからと口にしなかった言葉が、彼女にとっては意味があった沈黙であったことを語っていた。

 そんなつもりではなかった。僕はあの時、確かに彼女を否定する言葉を頭に浮かべていた。

 でも、それでもあの瞬間は彼女にとっては特別な意味を持ってしまっているようだった。

彼女の言う『いつも』とは、どんな時なのだろうか。彼女の両親の事が思い浮かぶ。彼女の兄の試合に目を輝かせる反面、傍の娘には一瞥もしないあの二人。先輩が『殺してやりたい』とさえ言っていた人物たちと、彼女は家でどんな時間を過ごしているのだろうか。

 夏になり、強くなった日差しの下は、少し動くと汗が出てくる。衣替えも終わり、制服は既に半袖に変わっている。……変わっていないのは、目の前にいる少女だけだ。

 袖をまくることもせず、汗を額に浮かべながら、宝条は普段の気弱な態度からは考えられないほど真っすぐにこちらを見ていた。

「だから、が、頑張りたいって思ったんです! この人たちと、立花さんと西山さんのお二人と一緒なら、私にも出来るって思えたんです!」

 眼鏡の下の瞳は力強くこちらを見る反面、彼女の体は小刻みに震えていた。強張った体からは緊張しているのが見て取れる。

 そんな彼女の姿に、自分が言い訳ばかりを探して、立ち向かうことからも逃げていた事を自覚させられた。

 僕は、小さく息を吸い込んだ。自分の頭から悪い考えを追い払い、一度リセットさせた。考えるのは後にする。

「……っし! 練習に戻るか。勉強も、野球も、演技も、何事も反復練習が重要だ! 努力あるのみ!」

 勢いをつけて思いっきり体を伸ばす。上がらない利き腕のせいで不格好な形になり、おかしく感じた。

「――は、はい! 頑張ります!」

 宝条が胸元で小さく手を握り、やる気は十分であることをアピールする。その真剣な表情に、僕はつい笑ってしまい、宝条もつられて口元をほころばしていた。

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