第5話 夏休み前①
【四年前:高校一年の夏休み前】
初夏が終り、季節は本格的に夏を迎えつつあった。ほんの数週間前は長袖シャツが肌寒いぐらいだったのに、今や若干熱いぐらいだ。日差しも春の温かさから、夏の熾烈な日差しへと変わりつつあった。
クラスメイトから劇の主役に晒上げられた宝条が、立花の提案を受け、演劇の練習を始めてから三週間になる。演劇部の練習もみっちりと入っているはずなのに、部活終りになると立花は河川敷へと行って宝条の練習に付き合っている。
学校や住宅街が近く人通りがあると場所だが、女子二人が暗い中にいることも憚られて、結局僕も毎日のように付き合わされている。
帰宅部の宝条が一番に着いて一人練習、補講終りの僕が一時間ほど遅れて到着して、台本片手に棒読みで相手役、数時間遅れて部活終りの立花が来て暗い中その日の練習の成果を確認。必要があれば助言と矯正をする。
そんなことを宝条はめげずに毎日こなしている。両親の傍を怯えるように付き従っていた姿が嘘のようだ。
何が宝条へ勇気を与えたのだろう。逃げることもなく、立ち向かうことを決めたその理由が知りたかった。
ぼんやりと考え事をしながら、補講のプリントへ向き合っていると、突然後ろから背中を強く叩かれた。
「よっす! 捗ってるか、優等生!」
「うぐっ」
痛みでうめく僕へ、結城は容赦なく追撃を食らわせる。背中に痣ができたかもしれない。同性の友人のみに繰り出されるこの加減を知らないスキンシップは彼の悪癖の一つだった。振り返ればユニフォーム姿の結城が予想以上に痛がっている僕を驚いた表情で見ていた。
「あ、あはは、悪い。つい。ついな! 怒るなって」
「言っとくけどマジで痛いからなこれ!」
抗議の意を込めて語気を強くする。結城は痛みで涙がにじんだ僕の目を見て、誤魔化し笑いを浮かべていた。
「はあ。……クソ、痛ぇ~、マジでお前……」
持っていたペンを置き、痛みを訴える背中をさすっていると、結城は可笑しそうに笑いながら話しかけた。
「最近なんだか楽しそうじゃないか。しおりと何かつるみ出してからだな」
「楽しそう?」
意外な言葉にオウム返しをすると、結城はきらりと目を光らせた。
「……浮気か?」
「はぁ!?」
予想外のあらぬ誤解に目を見開いて固まると、結城は僕の反応を見て腹を抱えて笑い始めた。
「ふっ、ははは! くれぐれも俺以外のミットに投げるなって話! 隠れてキャッチボールでもしてんじゃないかと思ってさ」
がくっと肩から力が抜ける。なんか噂が立っているのかとか、幼馴染と言えど気は遣った方が良いのかとか、こちらは一瞬の間に色々考えてしまったというのに。ガハガハと笑う結城にはちっとも気にした様子がなく、心の底からただ冗談を口にしただけのようだった。
「で、本当に他所のチームに行ってるとかは無いんだよな?」
「そっちは冗談じゃないのかよ……」
真顔で問い詰めてくる結城へ勢いよく首を横に振ってやると、彼はほっと溜息をついた。そして、僕がその安堵の表情を眺めていることに気付き、焦った様子で狼狽し始めた。
「い、いや。別に東が野球をしてなかったことに安心したわけじゃなくて!」
「言わなくても分かってる。というか練習はどうした。部活中の時間だろ」
取り繕う結城を面倒に感じて、僕はさっさと話題を変えることにした。肩を壊した僕をしつこく野球部に誘うように、デリカシーの無さを発揮する割に、意外と彼は他人の表情を窺う気の弱いところがある。
反面、立花なんかは気配りが上手いが、自分が決めたことは他人に何と言われようと、どう思われようと譲らない強情なところがある。似ているようで案外この二人は、真逆の性格をしている。……どちらも僕に対しては強引な事には変わりないけれど。
結城は僕が気分を害していない事を確認すると、すぐ普段の様子へと戻った。窓の外、グラウンドで練習をしている坊主頭たちへ視線を投げると、下から見えない位置へ移動してへらへらと笑った。
「いや~、仮病使って抜けてきたの。ちょっと頼みたいことがあって」
「……お前、また宝条先輩に怒られるぞ」
「大丈夫大丈夫! 他にも偶にサボってる奴いるけど怒られてないから!」
あの先輩がそんな生易しい事をするとは思えなかった。中等部時代、レギュラーに対して鬼のように取り仕切っていたことを思い出す。あの人が怠惰を許すのは、ベンチ入りも出来なような補欠にだけだ。正規のバッテリーでは無いにしても、先輩の練習相手にも指名されている結城がサボった末には、部に戻ってすぐに地獄のようなしごきが待っているだろう。
暢気に笑顔を浮かべている結城に対して、内心冷や汗をかきながら僕はそっとそんな予想を胸にしまった。
黙った僕へ疑問符を浮かべながら、結城はキョロキョロとあたりを窺って誰もいない事を確かめた。
そして先程までとは打って変わって真剣な表情で、声を潜めた。
「……しおりの事なんだけど、最近なんか誰かに付きまとわれているみたいなんだ。あいつ自分からは気を付けないからさ、東からも言ってやってよ」
「立花が?」
ただ事ではない結城の様子とその内容に、僕は緊張を覚えながら返した。結城は間違いない事を念押しするように、ゆっくりと頷いた。
立花は何かと目立つ人間だ。そういった被害を受けるのもおかしくは感じなかった。ただ最近の彼女の様子から、そういった雰囲気を感じた事は無かった。しかし、結城がそんな意味の無い嘘を吐くとも思えない。
けれど、これが本当ならば、宝条との練習は止めさせた方が良いだろう。わざわざ僕へこの事を伝えたのも、遠回しにそれを頼んでいるのかもしれない。
でも、あんなに頑張っているのに? 彼女たちは一日たりとも気を緩ませず、本気で取り組んでいる。それに水を差すような真似をしなくてはいけないのか。
冷静に考えれば、終わらせるのが立花の為だ。しかし僕は結城へ事情を話すことも、自分の中で結論を出すことも出来ないまま、どこか曖昧な返事で場を濁してしまった。
「……分かった。注意しておく」
「ありがとう。助かるよ」
僕の返事に結城は少し気がまぎれた顔をして去って行った。
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