第2話 高校一年の梅雨④

 それからしばらくの間、佐原部長は僕らと一緒に大人しく練習風景を眺めていたが、不意にぽつりとつぶやき始めた。

「うーん、でも普通の練習風景だと西山くんは退屈だよなぁ。そうだ! 今日は予定を早めて、立ち稽古にしよう」

 そう言うが早いか、大仰に佐原部長が手を叩くと、部員たちは一同に稽古を止めて部屋の隅へと集まっていく。統率の取れた動きに、部活の練度が感じ取れる。

「立ち稽古?」

 聞きなれない言葉に、僕は立花へと問いかけた。

「台本を持たないで動作も入れる稽古の事だよ」

「そんなの言われてすぐできるのか?」

「まぁ、部長の無茶ぶりはいつもの事だから。ふふふ、でも、見てなよ~。東もすぐ入りたくなるよ」

 僕の疑問に立花は自信ありげに答えると、ここで待っていてと僕へ耳打ちをした。そして演劇部員たちの元へ行った。

 そういえば、立花は演劇部のエースなんだった。視聴覚室へ先ほどまでとは一変した緊張感が漂ってくる。

 パチ、と部屋の端を残して照明が消された。僕の立っている壁は観客席らしく暗闇に包まれる。

「演目は、『弟橘媛』。始めから」

 佐原部長が静かに指示を飛ばす。部員たちが頷いて、一様に台本を傍に置いていく。

 劇は三十分ほどのものだった。古事記の地名起源説話の一つを、佐原部長が西洋風にアレンジして脚本にしたものらしい。

 旅の途中に火事にあった主人公はその最中に少女の命を救い、夫婦になる。長く滞在したが国が恋しくなり、海を越えて帰ろうとするが、物語の渦中で神の怒りを買っていた主人公は行く手を阻まれ、船は嵐の中で取り残される。主人公たちは死を覚悟したが、命を救った恩義を感じていた妻が、その命を賭して神の怒りを抑え、主人公たちは国へとたどり着いた。

「ああ! 我が妻よ! 何故いなくなってしまったのだ! 僕はそんなことのために、君を助けたわけじゃあなかったのに! どうか僕も連れて行ってくれ!」

 立花演じる主人公が、スポットライト代わりの蛍光灯の下で、涙を流す。その演技は迫真で、とても練習途中とは思えなかった。その仕草、立ち振る舞い、声の通り、今までまともに見たことはなかったけれど、立花の演技は目を奪われるものだった。演じている主人公とは性別も立場も違うはずなのに、まるで僕の知る立花はいなくて、そこにいる物語の中の主人公こそが彼女の本当の姿のような気さえした。

 命を救われ主人公のために命を捧げた妻、それに反して、共に死にたかったと嘆く主人公、いったいこの話がどんな結末を迎えるのか、僕は息をのんで見守っていた。

 しかし、予想に反して不意に蛍光灯が瞬き、部屋中の明かりがついた。

「え?」

 劇は途中のはずでは? 驚いて辺りを見渡すと、ばつの悪そうな顔をした部長が誤魔化し笑いを浮かべていた。

「ははは、すまない。まだ、ここまでしか脚本ができてないんだ。納得できるラストが出来てなくてねぇ」

「もー! 笑い事じゃないですからね。早く書いてもらわないとラストシーンの練習が間に合わなくなるんですから!」

 演劇部員たちが、怒り半分揶揄い半分で、演技の世界から帰ってくる。僕は結末を見ることが出来ず内心がっかりとしながら、舞台へ拍手を送った。横で見ていた裏方の連中も、まばらに拍手を始める。

 役者たちは拍手を浴びながら照れ笑いをし、元の場所へと戻って行った。

 スポットライトの下から降りた立花は、僕のよく知る普段通りの彼女だった。

「ふふふ、どーだった、東?」

「驚いた。つい没頭したよ。でも、それだけに最後を見れなかったのは残念だな」

 冗談めかしてそう言うと、立花は誇らしそうな顔で、佐原部長へと目配せした。

「でしょ? 早く結末書いてくださいね、部長」

「うっ、善処するよ」

 立花にまで釘を刺され、部長は申し訳なさそうに縮こまっていた。

「で、で、で。どう? 入部したくなった?」

 立花は演技をした後だからだろうか、興奮した様子で僕に詰め寄り、期待の眼差しを向けていた。演劇部の面々の視線が密かに集まるのが分かった。期待と、嫌悪が半々。

 理由は分かっていた。僕は詰め寄ってきた立花を押しのけると、ゆっくりと首を振った。失望と安堵のため息が入り混じって聞こえた。

「な、なんで?」

がっかりした様子の立花に申し訳なかったが、他の部員たちの気持ちは痛いほどよく分かった。

 中高一貫の強豪、出遅れは数か月じゃなく、三年間だ。技術も面識もなく、悪目立ちする一生徒を皆が皆、快くは受け入れてくれないだろう。

「……こんな中途半端な時期に、勝手の分かってない素人が入ったら邪魔だろう」

「邪魔だなんて思わないよ。そりゃあ、中等部から入ってる人の方が多いけど、東は真面目だし、手先も器用だし、すぐに馴染むよ」

 無理だ。雑用にしても腕も上がらないのに――、そう言いかけて口を噤んだ。いつまでも治った怪我の事を引きずっている自分に自己嫌悪する。怪我の事を持ち出せば立花が強く言えないことを知っていながら、言いそうになった。そんな自分は何よりも卑怯に感じた。

 演劇部にいる自分が想像できない。……いや、投手の自分をいまだに諦められないでいる。野球部には戻れない。前みたいに投げられないから。同情されながらマウンドに立つことは、自分のプライドが許さない。他の誰かの背中を見ながらなんて嫉妬で気が狂いそうになるだろう。だからといって、一歩引いてサポートに回ることも出来ない。

 惨めな気持ちになりたくないから野球を遠ざけているのに、女々しくしがみつくようなどっちつかずの態度をとって、動けずにいる。それが自分を貶めている。

 黙りこくってしまった僕を、立花が心配そうにのぞき込んでいる。頭に浮かぶのは、さっきまでの彼女の演技だった。立花自身も見事だったが、部の全体が主役を引き立たせる舞台として完成されていた。僕はそこへ加われる自信を持つことが出来なかった。

 咄嗟に立花から目を逸らした。情けない自分を見透かされるのが嫌だった。

 しかし、長い付き合いの前では、苦し紛れの誤魔化しなど意味が無かったみたいだった。

「……そっか。もちろん無理強いはしないよ。すぐに結論を出さなくてもいいしね。また、見に来てよ」

 立花は肩透かしを食らうほど、あっさりと引き下がった。

 ああ、きっと気付いているのだろう。そう分かったけれど、僕は表面上だけでも取り繕うことができて、情けなくも安堵していた。

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