第2話 高校一年の梅雨②

 立花の突拍子の無い言葉に、僕は面食らってしまった。鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしている僕を見て、立花は可笑しそうに笑っている。しかし、僕の脳裏へは彼女へ怒りが湧く前に、ふと一つの嫌な予感が浮かんだ。

「…………結城と、上手くいってないのか?」

 今度は彼女が驚く番だった。

「ち、違うよ! そ、そういうふうに受け取るんだ。もー、びっくりする」

「普通はそう受け取られるだろ。違うならいい」

 思いがけず意趣返しができ、少し溜飲が下がる。

まあ、先ほどの、手を振り合う仲睦まじい二人の様子を考えれば、そんなわけはなかったな。一人勝手に納得して、鞄を手に取る。

歩き始めると、立花は後ろから付いてきた。

「あ、ちょっと。まだ話は終わってないってば」

「僕は今のところ、どこの部活にも入る気はない。それでこの話は終わりだ」

「なんで! 肩だってもうほとんど治ってるんでしょ。知ってるんだよ。リハビリの経過、東のお婆さんから聞いたもん」

「日常生活を送る分にはな。重いものはまだ持てない。それに僕に演技なんてできるわけないだろ」

 言い争いしながら、校舎を出る。大きなグラウンドが目の前に広がる。野球部の練習風景も今ではフェンス越しだ。

「東!」

 フェンスの傍を横切ると、突然その向こうから声を掛けられた。声の主を見て、僕はそいつの名前を呼んだ。

「結城」

「やっぱり。しおりの傍に誰かいると思ったんだよ」

 目ざとく僕を見つけた結城が駆けつけてきた。一片の曇りない笑顔に僕はついに目を逸らすが、結城はまるで気にした様子なく続ける。

「偶には練習見に来いよ。みんな会いたがってるぜ」

 帽子を取り、短く刈り上げた髪を照れくさそうに掻いている。まだ春先だというのにしっかりと黒く焼けた肌、中肉中背だが服の上からでもしっかりと筋肉がついているのが分かる。トレーニングから離れて久しい僕とは対照的だ。

 口の中が苦い。ぎこちなく動く表情筋で必死に取り繕う。声が震えないようにするので精一杯だったけれど。

「あ、ああ。今はまだ補講で忙しいから。落ち着いたら見に来るよ」

 顔を合わさない僕を結城は不思議そうにしていたことだろう。

「絶対だぞ。……お前がグラウンドにいないと落ち着かないんだよ。まさか別の奴の球を受けることになるとは思わなかったし。そうそう! お前、俺が今誰の球を受けてると思う? あの宝……っ」

「結城ぃ! テメェ、さっきから何ふざけてんだ!」

 結城が何か言いかけて、後ろから怒声が飛んできた。結城が大きく肩を揺らす。

「あ? ……あれぇ~、お前、西山か?」

 近づいてきた人物は、見知った人間だった。元シニアの先輩で、今この高校でエースを張っている。野球部らしくなく伸びた髪に、しなやかに伸びた手足、野球の実力も十分で、端正な顔立ちをしていることも相まって、今年の夏は学校内外から高い注目を寄せられている。

宝条ほうじょうあきら。ポジションはピッチャーで、速い球速とノビのある球が持ち味の選手だ。

 ただあまり会いたい人物ではなかった。

「久しぶりだなぁ。え? もう肩の調子は言いわけ?」

 僕の姿を見つけた瞬間、宝条先輩は口角を上げた。声音は明るく、そこにはどこか嘲笑的な色合いが見て取れた。

「……はい。大分回復しました」

「へぇ~、でも、あれだよな。もう、肩より上に上がらないんだっけ? ははは」

 漏れた笑い声に、結城が眉根を寄せる。宝条先輩はそれを見て、取り繕うのをやめたようだった。

「ふ、はは。お前も馬鹿だよなぁ。中学で肩ぶっ壊すなんて。いや、いい思い出のままで終われて逆に良かったのか? 結局、優勝はできてたんだろ。見た感じ高校入ってから身長も伸びてねぇみてぇだし」

「……っ、ちょっと! 宝条先輩」

 結城が怒気を含んだ様子で、先輩へ静止の声を上げた。宝条先輩はそれに対して、揶揄う様に両手を上げた。

「お~、こわ。ま、今回は大目に見てやるよ。“可哀想”な西山くんが来てたみたいだからな」

 そう言うと、宝条先輩は笑い声を上げながらその場を去っていった。

「あっの野郎~、本当に嫌な奴っ! 東、あんなの気にすんなよ!」

「分かってる」

 僕は宝条先輩の背中を見ながら、ため息をついた。昔からあの人は他人の神経を逆なでするような事ばかりを言う。

 実力は十分あるのに、そのせいでチームメイトからも煙たがられている。

 ……まあ、裏を返せば、性格に難があるのに、誰もが追い出せない才覚をあの人が持っているということでもある。

「相変わらずだな、あの人は」

「そうなんだよ~! 俺、今よりによってあの人のブルペン捕手させられてんだ。わざと変なコース投げたりするし、マジで苛つくんだよ! そのくせ顔がいいからファンが押し掛けて練習の邪魔だしさぁ」

 結城はよほど鬱憤が溜まっているのか、流れるように愚痴を吐き出し始めた。僕は適当に聞き流しながら頷く。

 昔は一緒に憤ったりもしたが、今では他人事だ。そんなこともできない。

 気の無い相槌を返していると、横から今まで黙っていた立花が割り込んできた。

「も~、悠馬、それぐらいにしてよ。私たち、用があるんだから」

 彼氏に対して遠慮なしに、立花は僕を結城から引きはがした。僕が不満を口にするより先に、結城が口を挟む。

「は? 用なんてないだろ?」

「あるよ! 演劇部の見学。来てもらうの」

「はぁ? 東が演劇部? 冗談止めろよ。なあ、東、野球部に戻って来いって」

「ちょっと、何勝手な事言ってるの? そういう態度がよくないって分からないわけ?」

 フェンス越しに、恋人同士が睨み合っている。

 僕を他所に進む話に、困惑し、後ずさりする。おかしい。いつの間にか険悪な雰囲気だ。

 どうすればいいのか分からず、黙ったまま二人の様子を眺める。立花は先ほどまでとは打って変わって、苛ついた様子で結城に対して何か怒っているようだった。結城の方は、そんな彼女の様子に疑問を抱きながら、その態度へ眉を顰めている。

僕はというと、突然起こった痴話げんかを仲裁するべきか迷っていた。演劇部の見学も、野球部への入部も、僕には全く身に覚えがない。

「もう! 付き合ってらんない。行こっ!」

「お、おい。立花!」

 しばらく睨み合っていたと思うと、立花はくるっと踵を返して僕の鞄を掴んで歩き始めた。引きずられる形で、僕は歩き出す。声をかけても歩を緩める様子はなかった。

「……チッ。お~い、東! またな!」

 立花の態度に結城は舌打ちをし、その後まるで何事もなかったかのように朗らかに僕だけに声をかけた。

 ……立花、やっぱり上手くいってはいないんじゃないか?

 僕は冷や汗をかきながらそんな言葉を飲み込んで、連行される囚人のように演劇部の部室へと向かった。

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