第4話 魔人と貴族

 シルエットだけは人間のように見えた。フード付きのコートを着た、ひょろっとした長身の男だ。

 けれど、〝それ〟は形が人に似ているというだけで、とても人と呼べるようなものではなかった。

 目深に被ったフードの中の顔が、わずかに暗闇の中に浮かび上がった。

 ライラは思わず息を呑んだ。

 ぎょろりと剥き出しになった眼球。

 溶けた鉄をぶっかけられたかのような、いびつでおぞましい光沢のある皮膚。

 それはもう人間と言うよりは、ガラクタで造られた人形のようにも見えた。

 そして、何より目を引いたのは、暗闇の中でもはっきりと分かるほどに光るだった。

「――」

 怖れ知らずのライラでも、そいつの姿にはさすがに言葉を失った。

 はっきりと言えば恐怖を感じた。

 なぜなら、そいつは冗談でも何でもなく――本当に〝化け物〟だったからだ。

 黄金色の双眸。

 直感的にが思い浮かぶ。

 魔人。

 目の前にいる化け物は、まさにそう呼ぶに相応しい姿をしていた。

「ギ、ギギ、ギギギギ」

 化け物が奇妙な音を発した。まるで不快な金属音のようだったが、それが化け物の〝声〟だったということに、ライラは遅れて気付いた。

 化け物が手をかざした。

「――グラ、ディック」

 何かを呟く。それはかろうじで人語のように聞こえたが、言葉の意味は分からなかった。

 すぐに変化が生じた。

 化け物がかざした手に光が集まり始めたのだ。

 それはあっという間に〝剣〟になった。

 とてつもなく禍々しい、ドス黒いいびつな剣だった。

 それを見たライラは思わず目を剥いた。

(い、今のは〝魔法〟か!? じゃあ、こいつマジで――)

 この世界で〝魔法〟が使えるのは基本的に貴族だけだ。

 貴族は魔法という強大な力で、古の時代からずっと平民を支配してきた。

 それは今も変わらない。

 貴族はあの丘の上にある街――〝貴族街ハイツ〟の中から、今も平民たちを睥睨へいげいしている。

 けれど、この世界には例外的に貴族以外にも魔法を使うことの出来る存在がいる。

 そう――それが〝魔人〟である。


 μβψ


 ……魔人という存在は、この世界の人々にとって自然災害と同じ、大きな〝厄災〟そのものだと言えた。誰もが怖れ、そして忌み嫌うもの……その名を口に出すことすら、誰もが憚るほどの恐ろしい災いだ。

 この世界には〝魔力〟という、貴族だけが持つ特別なエネルギーが存在している。彼らは魔力を使って魔法を使役するが、この魔力は平民には存在しない。魔力を持っているのは基本的に貴族だけだ。

 だが、貴族ではないにも関わらず、例外的に魔力を保持している存在がいる。

 それが魔人である。 

 しかしながら、魔人は魔力を持ってこそいるが、貴族のようにそれを意のままに制御することはできない。一度出現すれば魔力が尽きるまで暴走し、周囲にあるものを手当たり次第に破壊する。そこには自我も目的もない。ただ衝動的に破壊の限りを尽くすだけだ。

 過去、この世界で魔人が出現したことは何度もあるが、その度に大勢の犠牲者を出してきた。かつての悲惨な言い伝えは数多く、その伝承と共に、人々は魔人の恐ろしさを継承し続けてきた。

 なら、その魔人はいったいどこから出現するのか。

 魔人とはつまり、魔力を持ちながらそれを制御できなくなった存在のことを指す。

 ならば貴族が魔力を暴走させて魔人になるのかと言えば、これはまったくそうではない。、というのがこの世界での常識だ。

 では、魔人はどこから現れるのか。

 答えは――

 平民は基本的に魔力を持たないが、ごく稀に魔力を持って生まれてくる子供がいる。

 そうした平民の魔力持ちのことを、この世界では〝邪悪なる者ヴィルマルス〟と呼ぶ。

 魔人というのは、つまりこのヴィルマルスと呼ばれる存在が魔力を暴走させたということだ。

 平民は貴族のように〝高貴なる血ブルー・ブラッド〟を持たないため、魔力があってもそれを制御することができないと言われている。本人の成長と共に魔力量は増大し、ある一定量を超えたところで臨界現象が生じ、魔力が暴走して魔人化するのである。

 ようするに……いまライラの目の前にいるのは、姿、というわけだった。

「ギギッ!!」

 化け物が魔法で生み出した剣を振りかざして、ライラに襲いかかる。

「ちぃ――ッ!」

 慌てて避ける。

 魔人の振るった剣はすぐ近くにあった石壁を、まるでバターのように斬ってしまった。

 思わず目を剥く。あり得ない切れ味だ。明らかに普通の剣ではなかった。

 距離をとって態勢を整えながら、武器になりそうな物がないか必死に視線を走らせる。だが、何も無い。

(くそ、こうなったら――一か八か、思いきり〝力〟を使うしかねえか)

 ライラに宿る〝力〟には、いくつかの使い方がある。

 〝力〟を不可視の腕のように使い物を動かすことも出来るし、単純に腕や足に〝力〟を宿らせることで、一時的に筋力を底上げすることも出来る。そもそもライラの身体能力が潜在的に高いのも、恐らくは〝力〟を元々保有しているせいだろう。それをさらに部分的に強化するのである。

 だが、彼女は一瞬〝力〟を使うべきかどうか迷った。

 〝力〟を使うと、必ずがあるからだ。

「ギギャアッ!!」

 化け物はさらに、容赦なく襲いかかってくる。

 迷っている暇はなかった。

 ライラは、自らの内に眠る〝力〟を呼び覚ました。

 いつもはある程度加減しているが、今はまったくその余裕がなかった。

 これを蛇口に例えるなら、いつもならほんの少し捻る程度にするところを、とっさのことだったため、誤って思いきり蛇口を捻ってしまったようなものだった。

「――」

 どくん、と心臓が跳ね上がった。

 一瞬、周囲の音が遠くなる。


 ――ろせ


 〝声〟が聞こえた。

 いつもより〝声〟はずっと近かった。

 ライラの目の前に、いつの間にか顔のない〝影〟が立っていた。


 ――〝敵〟を、殺せッ!!


 μβψ


 それは本当に一瞬のことだった。

 〝影〟はどこにもおらず、目の前には化け物がいるだけだった。

 たったの一秒が数十秒にまで引き延ばされたような感覚の中から戻ってくると、化け物は今まさに自分を斬り殺そうとしているところだったが、

「――」

 ライラはおよそ人間とは思えない反射神経で、ほぼ無意識に相手の攻撃をギリギリで避けた。

(――〝敵〟)

 〝敵〟は殺さなければならない。

 それは当然のことだ。

 いま目の前にいるそいつが〝敵〟だ。

 だから――そう、

 彼女は自分の右手に〝力〟を集中させた。いつものように加減なんてしている暇はなかった。本当に全力で〝力〟を込めた。

「――らぁッ!!」

 全力の一撃を、ライラは相手のどてっ腹に思いきりたたき込んだ。

 それは本当に全力だった。人間にやれば胴体に穴が空いただろう威力だ。そこまで全力を出すのは、彼女自身初めてだった。

「ギギャ!?」

 不意を突かれた化け物は吹き飛び、壁に叩きつけられた。壁自体が崩落し、瓦礫が化け物を押し潰した。

 右手に生じた痛みのおかげか、不意にライラは我に返った。

 まるで何かに取り憑かれていたような感覚が消え、自分自身の意識がはっきり戻って来たのだ。

「――ってぇ!? どんだけ硬えんだこいつ!?」

 ライラは手を押さえて涙目で悶えた。

「ギ、ギギッ!!」

 化け物はすぐに瓦礫を押しのけて立ち上がった。

 それを見たライラは「げぇ!?」と顔を引きつらせた。

「あれ食らってまだ動けんのかよ!?」

「ギギッ!!」

「うお!?」

 化け物が再び斬りかかってくる。

 ライラはさすがに焦った。

 このままじゃ本当にまずい。

 そう思った時だった。

「ギッ!?」

 化け物が突然、背後を振り返った。

 少しだけ動きが止まる。

 ライラは慌てて距離を取り、すぐに構えたが――化け物はなぜか、じっとしたまま動かない。背後ばかり気にしている様子だ。

(……ん? 血?)

 ぴちゃり、ぴちゃり――と、化け物の身体から地面に粘つく液体が滴り落ちる。

 恐らく血だろう。

 だが、その血はライラがよく知っている赤色の血ではなく――

(……え? 青い血? それって――)

 化け物が突然、跳び上がった。

 ライラは慌てて身構えたが、化け物は蜘蛛のように壁にへばり付いただけだった。襲いかかってくる様子はない。

「ギ、ギギ、ギギギ――」

 耳障りな声を発してから、化け物は再び壁を蹴って跳躍し、建物の向こう側へと姿を消してしまった。

「……な、何だったんだ?」

 ライラは呆然とそれを見送った。

 一瞬だけ、その場に静寂が訪れたが――直後、再び喧騒が押し寄せてきた。

「おい、そこのお前! その場を動くな!」

 濃い霧の向こうから、武装した憲兵たちが飛び出してきたのだ。

 憲兵隊というのは、ようするに平民社会の治安維持組織だ。

 彼らの仕事は酔っ払い同士の喧嘩の仲裁から、迷子の保護、はたまた犯罪者の取り締まりまで多岐に渡る。いわゆる〝おまわりさん〟と言うやつだ。

 憲兵隊は五人ほどいたが、全員が殺気だった様子でライラに小銃ライフルを向けた。

 さすがにライラは慌てた。

「お、おい待て!? オレは何もしてねえぞ!?」

「いいからそこを動くな!」

「どうした!? 切裂号を見つけたか!?」

「はっ、フラトン隊長! 怪しい人物を発見しました! 指示を!」

 憲兵たちの背後から、もう一人誰かが姿を見せた。

 そいつも憲兵だった。40代半ばほどの男だ。いかにも真面目そうな男である。憲兵らしく、とても屈強な体つきだった。雰囲気から察するに、その男が彼らのリーダーだろう。

 ライラの視線と、フラトンと呼ばれた男の視線が真正面からぶつかる。

 ……すると、男はなぜか驚愕を浮かべ、すぐにライラを強烈な視線で睨みつけた。

 すぐに部下たちへ指示を出す。

だッ! 間違いない、こいつが切裂号だッ! 撃ち方用意ッ!!」

「はっ!!」

 憲兵たちは手元のボルトを引いて弾を装填した。どうやら本気で撃つつもりのようだ。

「だから待てってッ! オレは切裂号じゃねえよ!! 何の話だ!?」

 ライラは必死に叫んだが、相手が応じる様子はまったくない。

 いったい何なのか。

 訳が分からない。

 黄金色の眼? 何を言っているのだ、こいつらは?

「……あ、あれ?」

 ふと横を見ると、そこにガラス窓があった。そこに反射した自分の姿が映っていたのだが……

「――」

 彼女自身、自分の姿に息を呑んだ。両目が黄金色に光るのは、誰もが知っているだからだ。

 魔人は両目が黄金色に光っているが、それはようするに魔力を暴走させた証拠だと言われている。

 今まさに、彼女はその状態だったのである。

 ライラは思わずガラスに張り付いていた。

「な、なんだこれ……何で両目が……? 今まで、こんなこと一度も――」

 ……そう、ライラは〝ヴィルマルス〟だ。

 彼女は昔から、自分でもよく分からない謎の〝力〟を使う事が出来た。

 その〝力〟は決して人前で使ってはならないと、生前の母は何度もライラに言っていた。

 けれど、ある日、があって叔父たちに〝力〟のことがバレてしまった。直後、彼らはライラを〝化け物〟と呼び、本気で殺そうとしてきたのだ。

 それはなぜか。

 理由はとても簡単だ。

 ヴィルマルスはいずれ必ず魔人化するからである。

 もし魔人化すれば、いったいどれほどの被害が出るか。

 この王都の民下街デプスにいる大勢の人間はそれを知っている。

 12年前にこのクリューソスで起きた、史上稀に見る最悪の犠牲者を出した大規模魔人災害――〝紅鐵号こうてつごう事件〟が、多くの人間に魔人の恐ろしさをまざまざと見せつけた。

 事件の死傷者は1万人を越え、現場となった区画はいまも更地のままだ。

 憲兵たちの眼は必死だった。

 彼らの眼は、紛れもなく〝化け物〟を見ている眼だった。

 彼らは誰1人として、ライラを人間として見ていなかった。

 引き金にかかった指が、ゆっくりと引き絞られていく。

「――貴様ら、銃を下ろせ」

 ……だが、その直前、憲兵たちの背後から1人の男が静かに姿を見せた。

 すると、憲兵たちはすぐに小銃ライフルを構えるのをやめ、慌てて直立不動になって敬礼していた。それはよく訓練された憲兵としての動きというよりは、まるで男の声に心の底から恐怖しているがために身体が勝手に動いた――そんなふうにも見えた。

 しかも、敬礼と言ってもよく見る憲兵式の挙手注目の敬礼ではない。右拳を左胸に当てるような敬礼で、ライラは見たことがないものだった。

 直立不動となった憲兵たちの間を悠然と歩いてきたのは、まだ若い男だった。どう見ても20代くらいだ。どの憲兵よりもずっと若い。

「ふむ……」

 若い男はずんずんと歩いてライラの前に立つと、じっと観察するように眼を向け始める。

 何と言うか、奇妙な格好をした男だった。憲兵ではないことは見ればすぐに分かるが、じゃあ何なのかと言われると、彼女にはさっぱり分からなかった。

 それも無理ない話だろう。

 なぜなら、ライラが人生で〝騎士〟を見るのはこれが初めてだったのだ。

 騎士。

 それは〝貴族〟で兵役に就いている者を指す言葉だ。

 つまり、男は貴族なのだった。

 貴族はほとんど平民の前に姿を見せない。彼らが自分たちから民下街デプスに下りてくることなど滅多にないからだ。

(な、なんだこいつ……?)

 目の前に立つ男に、ライラは本能的な忌避感を覚えた。

 男はどこまでも冷たい眼で、ライラのことを見下ろしていた。

「ダニエル様、その者は恐らく魔人です! あまり近づくと危険では――」

 フラトンが男に進言する。

 すると、ダニエルと呼ばれた男は「ふん」と馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「阿呆が。こいつはまだ魔人などではない。魔人化していないことなど見れば分かるだろう。まぁ、ヴィルマルスであることには間違いないようだが」

「魔人ではない……? ということは、切裂号ではないということですか?」

「そうだ。ちっ、どうやらまんまと逃げられたようだな……貴様らがグズグズしているせいで対象を逃してしまったではないか、この役立たず共めが」

「し、しかし、よく確認もしないままいきなり切裂号に魔法で攻撃したのはダニエル様ではないですか! あの爆発で怪我をした者も――」

「――フラトン。貴様、おれに口答えするつもりか?」

 ぎろり、とダニエルが憲兵を睨みつける。

 睨まれた憲兵はすぐに口を閉じ、直立不動で胸に手を当てた。

「い、いえ! 決してそのようなことは……ッ!」

「次に口答えしたら首を刎ねるぞ。分かったか?」

「はっ!」

「まぁいい。だが――

 と、ダニエルはおもむろにライラへと視線を戻した。

「〝賢者の石〟の素材が不足していたところだ。ヴィルマルスなどそうそう簡単に見つかるものではないからな。アーヴァイン様に良い手土産が出来た」

 にやり、とダニエルが口端を歪める。

 ……それはとても人間に向けるような眼ではなかった。

 恐らく、人間は家畜を見る時こんな目をしているだろう。男の眼はまさにそういう目だった。

「――ッ!」

 ライラは弾かれたように、その場から走って逃げようとした。そうしなければならないと、心の底から本気でそう思ったからだ。

 だが――

「ふんッ!」

 ダニエルがライラの首根っこを掴み、そのまま地面に叩きつけた。

「かはッ!?」

 男は凄まじい握力でライラの首を締め付けた。

 息がまったくできなかった。

「無駄だ。逃げられるなどと思うな。まぁ安心しろ、殺しはせん。殺してしまっては賢者の石に必要な〝血〟が採取できんからな」

「は、離せ、この――」

「ほう? まだ喋れるか。これは活きの良いのが手に入ったな」

 どんどん意識が遠ざかる。

 もうダメか――と、ライラがそう思った時だった。

「あなたたち、そこで何をしているの!?」

 路地の中に聞き覚えのある少女の声が響いた。

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