あの頃のように
小糸
冴えない日々と冴えてる日
「はあ…今日も疲れたなあ」
私、豆田由美はふらふらになった体を庇いつつどうにか帰宅しては、いつもの決まり文句を呟いていた。いつからだろう。「ただいま」よりも先に、この言葉が出てくるようになったのは。このままずっと玄関にいるわけにもいかないので、雑に靴を脱ぎ捨てて、洗面台の前まで体を持っていき、手洗いとうがいを行う。必要以上に手と喉を洗い流している最中に、「食事や睡眠と並んで小さな頃から継続して取り組み続けてる数少ないことだなあ、これ」などとしょうもないことを考えていた。
手洗いとうがいをきっちりやり終えて、真っ先に向かうのはベッド。年甲斐もなく無邪気にダイブ!…という気分ではなくて、言わば無気力にぱたりと倒れ込むといった形。傍から見れば、さぞみっともないことだろう。でも誰にも見られてないんだから、こうしてみたってきっと許されるはず。家でくらい自由に振る舞っていたいものだよね。
…ああ、このまま寝てしまいそう。まだ着替えてないし、お化粧は落としてないし、シャワーも浴びてないし、晩ご飯だって食べてない。やらなくてはならないことがあまりに多すぎる。「起き上がらなくては」と思いはしても、ゆっくりと落ちてくる瞼には抗えなかった。明日はお休みだし、別にいいよね。今日はもう、このままおやすみ…
ぴりりりり!
耳元にあった音の爆弾が炸裂して、一気に目が覚めてしまった。もううるさいなあ、一体誰なの。こっちの気も知らないで、電話をかけてくるのは。真っ先に浮かんできたのは課長の顔。うう、電話に出るの嫌だなあ。安息の地である家でまで課長の声を聞かなければならないだなんて堪ったものじゃない。多分、「明日出勤してくれないか」とか言われるんだろうなあ。ついさっきまであんなにうつらうつらしてたのに、我ながら見事なまでの推察力だ。うーん、流石私。偉いぞ私。…自惚れるのもここまでにしておこう。後で虚しくなるだけだから。
現実逃避もほどほどに、目の前の問題と再び向き合う。この電話、出た方がいいよね。既に一分以上鳴り続けてるから、かなり重要な用件であることには違いないはず。でもなあ。明日は何よりも大切な休日なんだし、出勤したくないなあ。誰からの電話なのか、一応確認だけしておこうかな。もしかしたら、全部杞憂かもしれないし。目を半分だけ閉じて、裏返しにしていた携帯電話の画面を表に向ける。どうか、どうか課長じゃありませんように………
・
ようやく訪れた土曜日をお祝いするかのように、空は青く綺麗に澄み渡っている。私が今いるのは会社…ではなく、すごくオシャレなカフェの前。待ち合わせ場所にここが指定されたから来てみたはいいものの、「本当に合ってるのだろうか」と少し不安になる。こんなお店、自分の意思で訪れることはまずない。今日のコーディネート、何もおかしなところはないよね?これで大丈夫だよね?ガラスに映る自分の姿を改めて確認する。家でも姿見で何度も確認したけれど、それでも足りなかったみたいだ。幾ら確認したとて身に纏っている衣服は変わったりしないし、大人しく腹を括って入店することを決心する。
「すぅー、はぁー…」
大きく息を吸い込んでは、吐き出す。これを何度か繰り返した。…よし、もう大丈夫。扉に手をかけて力を込めて開くと、「からんからん」とドアベルの音が鳴り渡る。私の存在に気づいた大学生っぽい店員さんに、「いらっしゃいませ」と歓迎してくれた。
甘い匂いが漂う店内をきょろきょろと見回していると、店員さんがこちらへと駆け寄ってくる。
「連れが先に来ているのですが…」
「先ほど来られたお客様のお連れ様ですね。どうぞ、ごゆっくりなさってください」
にこやかに接客をしてくれた店員さんにぺこっと頭を下げる。
…遡ること20分前、ちょうど家を出ようとしていた時のこと。その旨について連絡しておこうと携帯電話を開くと、「予定してたよりはやく着いたから先に中に入っている」といった内容のメッセージが届いていていた。それを見た私は大急ぎで向かう…ということはせず、普段となんら変わらないペースで歩いてここまでやってきた。この行いに対して下劣だの、人としてどうなのかだの、色々言われるかもしれない。だけど、今日ここで待ち合わせをしている相手は気心が知れている間柄で、メッセージには「ゆっくり来てくれて
構わない」とも記されていたので、その言葉に甘えさせてもらったという感じだ。
「由美、こっちだよー」
私の名前を呼ぶ声がした。その声にぴくりと肩を揺らがせてから、速やかに声の源である窓際のテーブル席に顔を向ける。そこには主のごとく居座っている華奢な姿が一つ。私は彼女の元へと小走りで足を運び、着席する。今度は…今度は私が名前を呼ぶ番だ。
「お待たせ、真菜」
いつ以来だろうか、この名前を呼んだのは。その名前を口にした瞬間、あの頃の思い出が私の周りを駆け巡り、心の奥底から例えようのない何かがとめどなく込み上げてくる。まだはやいよ。はやすぎるよ、それは。私は蓋の代わりになりそうなものを探す。この込み上げてくる何かを押さえつけてくれそうなものを。
私が待ち合わせをしていたのは、真菜こと間辺真菜。私達が初めて会ったのは高校の入学式の日で、期待と不安に胸を震わせていた私に、
「ねえ、豆田さん。中学校どこだったの?…ってこれ、学園モノでよくある出会いのシーンみたいだね。あはっ」
と声をかけてくれたのが、今私の目の前に座っている真菜だった。思いがけない一言に私もすっかり緊張の糸がほぐれ、式が始まる頃にはずっと前から友達だったんじゃないかと錯覚してしまうほど意気投合していた。それからの学校生活では常に二人で行動を共にしていて、挙げ句の果てにはクラスメイトからも「真菜由美」あるいは「由美真菜」と、まるで二人で一つのように囃し立てられる始末だった。
そんな二人だったから高校を卒業して別々の大学に行っても何かにかこつけては会っていたけど、社会人になってからというもののお互いに忙しくなったこともあり、めっきりと会わなくなってしまった。
「ううん、全然待ってないし大丈夫だよ。…って、なんだかデートの始まりのテンプレみたいなこと言っちゃったね。あはっ」
自分でデートとか言った癖に「きゃっ」と顔を赤らめては、くしゃっと顔を綻ばせている。ああ、懐かしいなあ。懐かしくて堪らないなあ、この笑い方。こんなの反則以外の何でもないでしょ。ちっとも処理が追いつかないよ。だって真菜のこの表情と台詞、ちょうど今回想していた出会った時のシチュエーションと似ているんだもん。
「…久しぶりだね、真菜。元気にしてた?」
上擦りそうな、ていうか上擦った声で私は真菜に尋ねた。あまりにも当たり障りがなさすぎて、気心が知れている間柄だとかほざいていたのが少し恥ずかしくなる。だけど、今の私にはこれで精一杯だった。
「もちろん元気だよ。…と言いたいけれど、生憎仕事、仕事、仕事…って感じの毎日で、ちょっと疲れ気味かも。忙しい内が花なのは分かってるけどね」
私の問いかけに、真菜は眉をハの字にして応えてくれた。…ああ、そうなんだ。そりゃ、そうだよね。私達、今が頑張り時だもんね。何か気の利いた言葉をかけようと頭を回そうにも、ちっとも動いてくれなくて困ってしまう。
「ねえ、由美はどうなの?毎日ちゃんとご飯食べてる?あと睡眠はしっかり取ってる?あっ、これじゃあ、まるでお母さんみたいだね。あはっ」
また出た。伝家の宝刀、「あはっ」が。昔はこんなに連発してたっけ。久しぶりに会ったことだし、今日は出し惜しみはなし、ということなのかな。…って、それよりも注目すべきところがあるでしょうが。
…今の真菜の言葉を聞いて私が思ったのは、相変わらず優しいなあってこと。当の本人は「お母さんみたい」だなんて言ってるけど、それは真菜なりに私を思ってくれているということの表れなのだろう。
こういうのを心配性だとか、お節介だとか、そういう風に思う人もいるかもしれない。かくいう私も、昔は冷たくあしらってしまったことがある。でも今となっては、あの時の自分を平手打ちしてやりたいと本気で思っているし、何と言ってもこの何気ない優しさがすごく染みる。冷たい社会の荒波に揉まれてふらふらになったこの心と体には痛いくらいに。
「ふふ。もう、真菜ってば。ご飯は毎日三食食べてるよ。…寝坊しなければ、ね。あと、仕事でくたくたになるから、夜は目を閉じた瞬間に眠っちゃってるよ」
この期に及んでこんなことを隠しても仕方ないので、自分の生活についてありのままを打ち明けた。
「あー…あたしもそんな感じ。由美と同じだと分かって安心したよー。ありがとうね」
「そんな、礼にも及ばないって。こちらこそ、今日は誘ってくれてありがとう。こんなオシャレなところ、私一人じゃ絶対に来れないから嬉しいよ」
流れで互いが互いに感謝を伝える。「最近の若者はお礼が言えない」という偏見を、偉そうに語っていたどこぞのコメンテーターが浮かんできたから、すぐに頭の中から払いのけて心の平穏を保とうとする。
「ネットでケーキが美味しいカフェを探してたら、たまたまここを見つけたんだ。それで、どうせなら由美と一緒に来たいなあって思ったんだよね」
「なるほどねえ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。…あ!そういえば昔結成してたよね、甘味同盟!覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ!忘れるわけないじゃん。よく学校帰りに寄り道したり、買い食いしたりしてたよねー」
声のトーンとテンションが自然に高くなっているのが、自分でもはっきりと分かる。思い出話に花を咲かせるとは、まさにこの状況を示すのだろう。いや、まだ咲かせてはいない。強いて言うなら、花が開く寸前といったところかな。だって、まだ会って五分も経ってないのに花を咲かせてしまったら、帰る頃にはこのカフェはもう花で溢れ返っていることだろうし。でも、それはそれで綺麗でいいかもしれないなあ。でもでも、そんなことになったら店員さんと他のお客さんに迷惑極まりないから、やっぱり駄目だよね。
「クレープとかソフトクリームとか、よく食べてたよね。今日は久しぶりの甘味同盟の活動だし、目一杯堪能しようっと。…って、あれ?」
ノリノリで語っていた途中だったけど、ある考えに行き着いた私は黙り込んでしまった。そんな私を真菜は「どうしたの?」と首を傾げ見つめている。
「真菜は、私と一緒にここのケーキを食べたかったんだよね?」
「ん?さっき言った通りそうだけど…それがどうかした?」
自分から聞いておいてなんだけど、この聞き方だとちょっと自意識過剰みたいだと思った。…いや、今はそんなことなんてどうでもいいんだって。
「だったら尚更、真菜を待たせて悪かったなあと思って…えっと、その…ごめんなさい!」
私は今、頭を下げてテーブルとにらめっこをしている状態になっている。だから、真菜がどんな表情をしているのかは分からない。そして、なぜ私は真菜に向かっていきなり謝りだしたのかと言うと…
真菜は私を思って今日ここに誘ってくれたのに、当の私は急ぎもせずにのこのこと歩いてここまでやって来た。そのことに気付いた途端、自分で自分が許せなくなってしまった。私が謝罪を決め込んでいる理由は、概ねこういったものだ。
「気心が知れている間柄」だからといって、そこにつけ込んで甘え散らかし、礼節さを忘れていた自分が愚かしい。ついさっきまであんなに朗らかだったのに唐突に謝りだすだなんて、我ながら「情緒不安定か」とツッコミたくなる。真菜も困るよね、こんなの。思い出話をしていたはずなのに、瞬く間に危うい雰囲気になって。こういう時どうしたらいいんだっけ。この居心地の悪い雰囲気をつくりあげたのは自分なのに、真菜の言葉を待つしかできないでいるのがただただもどかしい。
「あはっ。顔を上げてよ由美。あたしが勝手にはやく来ただけなのにー。それに一人で食べるよりも、二人で食べた方が美味しいに決まってるもんね」
「…っ!」
凍りつきかけていた心がじんわりと溶けていき、ふわふわの毛布に包まれているような安心感で満たされる。ああ、真菜の言葉と笑顔には本当救われるなあ。高校生の頃もどんなについてない日だって、その無邪気さのお陰で沈まないでいられたんだよね。
「はい、もう謝るのはなし!由美のことだから、日頃職場で上司や同僚に気を遣ってるんでしょう?今日くらいは…あたしにくらいは無礼講でいてよ」
「…ありがとうね、真菜。やっぱり私には真菜しかいないのかも。なんてね」
縋り付くような視線を送ってみる。もう大丈夫だと判断したのか、真菜は「やれやれ」と言わんばかりに首を横に振った。
「そんな重い女みたいなこと言わないの。ほら、メニュー。あたしはもう決めてるから、由美も好きなの選んでよね」
「ふふっ、分かったよ。えーっと…わあ、どれも美味しそうで目移りしちゃう。何にしようかなあ。ねえ、由美は何にしたの?」
「あたしはね、これだよ」
重い女って言われちゃった。でも、軽い女って言われるよりはマシかな。だって、風に吹かれてふわふわと飛んでしまうよりも、しっかりと地に足を付けていられる方がよっぽど格好いいし。
いつの間にか二人の間には「穏やかな昼下がり」と呼ぶのに相応しい空気が流れていた。
・
「…それで、山田先生が言ったんだよね。お前ら、そんな甘ったれで社会に通用すると思うなよ!ってね」
「あれは名言だったよねー、本当に。あの頃は、この人何言ってるの?って思ってたけど、今思い返せば響くというか、もう教訓みたいなものだよね」
私達はケーキを食べながら、高校時代のあんなことやこんなことについて話していた。真菜が頼んだのは、このお店で一番人気があるシンプルな苺のショートケーキ。一方で私が頼んだのは、季節の果物をふんだんに用いたフルーツタルトだ。堅実に王道を攻める真菜と限定モノに惹かれがちな私。こういうのって、意外と性格が出たりするのかな。…ん?
「どうしたの、真菜?トイレならあそこだよ」
「いや、トイレは大丈夫…」
何やら真菜がもじもじしていたので、催しでもしたのかと思ったけど、どうにも違ったらしい。
「うーん…あ、何か用事でも思い出したとか?」
「そうでもなくて…」
用事があって帰らなければならないというわけでもないか。となれば、アレかな?
「これ、一口食べる?」
「うん!食べたい!」
やっぱりそうだったか。幾分かは遠回りになっちゃったけど、実は真菜の心中にはちょっと前から薄々勘づいていた。私くらいになると、真菜の考えてることなど何でもお見通し…ということではなく、テーブルに運ばれてきた時から真菜は度々私のタルトへと視線を送っていて、そこで察したのだった。目をキラキラと輝かせている真菜に、お皿をさっと差し出す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、由美!では、拝借して…いただきます!」
私のタルトを一口分フォークですくい、口へと運ぶ。もぐもぐと口を動かすその様子は、甘味を堪能しているようにも見えるし、吟味しているようにも見える。別に私がこのタルトをつくったわけでもないのに、真菜が反応をするのか気になって目を離せないでいる。あ、今飲み込んだ。来るぞ。
「…どうだった?」
「…単刀直入に言うね」
「うん」
ごくりと唾を飲み込む。食べてる様子はどこか幸せそうだったし、真菜の口には合ったのかな。それとも…こんな切り出し方をするってことは合わなかったのかな。物憂げに外の景色を眺めている真菜をじっと見つめる。そのまま永遠にも感じられる数十秒を経て、ようやく真菜は私の方を向き直った。閉ざされていた口が今開かれる。
「…もう最高だよ、これ」
しっとりと言い放たれたそれは、心の底から湧いて出た声のように思えた。その言葉を聞いて、体にかけられていた力がゆるゆると抜けていく。ああ、良かったあ。自分がいいと感じたものをそういう風に言ってもらえるのって、少しくすぐったいような気もするけど、どこか嬉しいんだよね。
「ふふっ、お気に召されたなら何より。そうやって言ってくれると、私としてもなんだか気持ちがいいよ」
「でしょー?具体的に語ってもいいけど、それだと嘘っぽくなるんじゃないかと思ったんだよね。言葉を羅列すると、途端に台詞くさくなるというか…」
「それ、分かるかも。ああだこうだ言うよりも、スパッと一言で言い切ってみせる方が本物っぽいっていうか、本当にそう思ってるのが伝わるっていうか」
もしもこの店内で私達の会話に耳をそばだてている人がいたら、きっとその人は頭を傾げていることだろう。でも私は、真菜以外とは交わすことがなさそうな、真菜としか交わすことがなさそうな、こういう会話をしてる時間が昔から好きだったりする。
「まさしく余計な言葉は要らない!…ってやつだよね」
「うんうん。考えるよりも感じるのが大事なんだよ」
「…ぷっ。ふふっ…」
「あはっ。何言ってるんだろうね、あたし達」
何か分かってる風なことを言い合っている内におかしくなって、どちらからともなく笑い出す。ここまでがワンセットみたいな、そんな感じ。
「はあ、やっぱり真菜といると楽しいなあ。職場では愛想笑いしかしてないし…あっ」
ひとしきり笑ってからぽつりとこの口から放たれたのは、紛れもない本音そのものだった。自分でも驚くほどにさらっと出てきたそれをどうにか誤魔化すために、せめてもの抵抗として慌てて口元を手で隠す。せっかくの「楽しい」がこんな形で台無しになってしまうのだけは、何が何でも嫌だった。
「…大丈夫だよ、由美。この時間の楽しさも、日頃感じてるもやもやも、全部二人で分かち合おうよ。あたしも由美に話したいことがあるし。ね?」
あまりにも慈愛に満ちている優しい目で真菜は私を見つめてくれた。不思議なことに、真菜の大丈夫という言葉を聞いたら、本当に大丈夫なんだって思えてくる。ただそれと同時に、「これから先、生涯をかけても私は真菜に勝てっこないんだろうなあ」とも思い知らされる。まあ、元より打ち勝つ気なんてさらさらないからいいんだけどね。
「…うん、分かった。じゃあ、真菜の話を私に聞かせてよ。私で良ければいくらでも聞くからさ」
「あはっ。頼もしいね。流石由美、略してさすゆみだね。それじゃあ、早速だけど聞いてもらおうかな」
本腰を入れるためか、真菜は「こほん」と一つ咳払いをしてみせた。「さすゆみって何なんだろう?」という雑念を振り払ってから、真菜の言うことを一言一句聞き漏らしたりしないよう、前のめりの姿勢になって耳と心を澄ます。
「…あのさ、由美は目撃したことがあったりする?えっと、その…不倫現場を」
「ふりん、げんば…?」
真菜の言ったことをすごく馬鹿みたいな声で反復していた。不倫現場ってあの不倫現場だよね。週刊誌の記者が有名人のソレをカメラに収めるべく、日夜奮闘してるあの。流石に目にしたことはないなあ。
「私はないけど…真菜、まさか見たことあるの?」
「そのまさかだよ。しかも昨日。本当にあるんだね、社内不倫って。その場面を目撃しただけに過ぎないのに、あたしまで共犯者になっちゃった気分だよ」
「き、昨日だったんだ…ねえ、どういう経緯でそれを目撃したのか教えてくれる?」
真菜は私の言葉にこくりと頷いてくれた。その目は力強さを感じさせるものへと変わっていて、思わず私の背筋もピンと正される。なんだか、さっきまで学生時代の話で盛り上がっていた私達がひどく遠くに感じるなあ。
「昨日退勤して会社を出てからデスクに忘れ物をしてたことに気づいてね、些細なものだから別に月曜日に持って帰れば良かったんだけど、なぜかその時は取りに戻らなくちゃなって気分だったの」
「うんうん」
「それでオフィスに取りに戻ったら既婚者であるはずの部長が、三つ上の先輩とちょうど抱擁と口付けを交わしてるところで…それを見てたら、怖くなって逃げ出しちゃったんだよね。あはは…」
一息に全てを語り終えた真菜は笑ってこそいるけど、その様子はどこか辛そうに思えた。だって、笑い方が「あはっ」じゃなかったから。こんなの、私にとっては難易度が星一つの間違い探しだ。憶測に過ぎないけど、正義感が人一倍強い真菜のことだから、部長と後輩の間に割って入って止めることができなかったのを気に病んでいるのだろう。「あたしまで共犯者になっちゃった気分」とも言ってたし。
さてと、このことを踏まえた上で私は真菜にどんな言葉をかけるべきか。この件についてはあまり深掘りをせずに、さっさと次の話題へ移った方がいいのかな。…いや、それだと意を決して私に話してくれた真菜のことを蔑ろにしてるのと同じじゃなかろうか。そんなの絶対に駄目だ。ならばせめて、その心の支えになるような何かを届けないと。
「…真菜は何も悪くないし、断じて共犯者なんかじゃない。それに、そんな場面に遭遇したら私だって逃げてたと思うよ」
前半部分は力を込めて、後半部分は優しさを込めて言った。これが正しいのかは分からないし、そもそも正解なんてないのかもしれない。だけど、これで多少なりとも真菜の心に安らぎを与えられていたらと願う。
「…ねえ、由美。今あたしは何を考えてるのか分かる?」
「真菜が今考えてること?うーん…」
投げられた質問はありきたりなものではあるけど、この状況においてはかなり難解なもので、つい唸ってしまった。うーむ、真菜の考えていることかあ。こんなことを考えていてくれてたら嬉しいなあっていうのはあるけど、それはあくまでも私の要望に過ぎなくて。真菜の視点に立ってみようにも、それは違うというか。悩んでいた最中、時間切れと言わんばかりに真菜は口を開いた。
「今あたしが考えてるのはね、大人になったあたし達はオシャレなカフェで社内不倫の目撃談について話してるよ、って高校生だったあたし達に伝えるとどんな反応をするのかな?ってことだよ」
「え?…え?」
私は困惑した。文字通りそのまま、困って惑っている。答えが想像の斜め上をいくもので、思考も強制的に停止してしまう。
きっと今、私はものすごく間抜けな顔をしている。人に顔向けするのも憚れるような、そんな顔。言うまでもないけど、「真菜が人じゃない」と言いたいのではない。それくらい驚いたということだ。
「由美、顔、顔。授業中、いきなり指名された時みたいになっちゃってるよ」
「う、うん。分かってる」
ほら、真菜にも指摘されてしまった。頬を両の手でぱんぱんと叩いて喝を入れる。これでよし、と。
「あ、戻った。良かったあ。ねえ、大丈夫?」
「もう大丈夫だよ。…えっと、つまり真菜が考えてたのは、この状況を高校生の頃の私達に伝えたらどんな反応をするのか、ってことだよね」
「そうだよ。きっと国語の要約問題だったら満点だね、そのまとめ方。文系科目の鬼、豆田由美は伊達じゃないね」
またも斜め上をいくことを言われて、「ありがとう…?」と歯切れの悪い返事をする。高校生だった私達の反応よりも、目の前にいる私の反応は気にならないのかな。まあ、真菜が楽しそうにしてるならそれでいいか。
「あたしから持ちかけた話なのに、変な方向にもつれさせてごめんね。でも、由美がそう言ってくれるだけですごく安心できたんだ。…ありがとうね」
「ううん。私、大したことはしてないよ。押し付けになるかもだけど、真菜には笑っていてほしいかなあ…なんて」
「もう、由美ってばまたそんなこと言ってー。それなら…ほら、どう?」
真菜は私の言葉に触発されたのか、あの空にある太陽と同じくらい眩い笑顔を向けている。それにつられて、私の頬も自然と緩んだ。色々とツッコミどころはあるかもだけど、これがありのまま等身大の私達なんだし、私も私で真菜に本心を包み隠さず伝えられてすごくすっきりしている。
長らく取り出してなくて埃を被っていた心のアルバムに、今日というページが新たに加わったのが分かった。仕事ばかりの冴えない日々の中で、「何のためにこんなことをしてるんだろう」と時折考えてみたりもするけど、それはきっと今日みたいなあまりにも冴えている日のためなんだ。
「紅茶、もう冷めちゃったかな。…あっ、まだほんのり温かい。冷め切る前に飲んじゃおうよ、由美」
「そうだね、真菜」
ケーキと一緒に頼んでいたロイヤルミルクティーを飲む真菜を見て、真菜にとっても今日が素敵な一日になっているといいなって思った。
あの頃のように 小糸 @koito
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