ぎんなんきんいろストリート

笠井 野里

第1話

「あなた、私が死んだほうがたぶん幸福しあわせよね」


 その声に違うと答えようとした頃には目がめていた。最近は夢の中まで妙に小説づいて守破離しゅはりだの起承転結きしょうてんけつだのをやろうとしてくる。今回は破と転かな。自分の小説にはまるでそれがないのに。


 はたして違うのだろうか? 私はもう戻れない夢の中に問うが、反響するのは自分の頭の中で、脳の右奥のほうが痛くなってくる。


 たしかに彼女が、Sが死んでいたほうが好都合かもしれない。私の小説の一群は紛れもなく彼女に捧げられたもので、そうして彼女がモデルである。生きていると厄介だ。――ひどく口の中が乾いている。滅多めったなことを言うもんじゃない。二日前に口をつけた500mlペットボトルのお茶を飲み、ぬるりとした喉越しで乾きを上書きした私は、いくつもワープロソフト上に積み上がる未完成の原稿に目をやった。いや、完成したものもいくつかあったが。


 中身を見て、数行目を通しただけで辟易へきえきして閉じてしまった。

 私小説なんざ書いてしまえば自己弁護と自己破壊しかできない。そういう自意識にいる。ずっとスランプなのだろうか? いや、小説を書く才能がないだけだ。という韜晦とうかいをしたら皆この小説を読んでくれるだろうか。


 胡乱うらんな書き出し。私はSを思い浮かべる。その丸っこい顔の上にある、大きい黒目が光って私をる。……嘘くさい描写。こんなものを入れ込むほど彼女が好きだっただろうか?


「小説のダシに彼女を使ってるんだ」


 そう。ケータイ小説を楽しそうに勧める彼女は、私の中で偶像アイドルと化して、私の眼前に現れ私を面罵めんばする。なぜSの病気を知ろうとしなかったのか。私は偶像ではない、記憶上の彼女を探る。端っこで死のような色をした服を一人着て、さみしげに中学の合唱コンの段にいた彼女を。そうしてその痛々しさから眼を離した私を。蔓延はびこるイジメにも、盗難にも、なににも感じなかった自分の瞳が、彼女にだけは眼を背けた。

 そむけたのか? いや私はもしかしたら喜んだかもしれない。Sは私と触れ合わないことで、私の中で永遠になったのだ。永遠の処女性、永遠の恋愛の象徴シンボル。永遠の……

 

――――――

 私は大学の帰り、公孫樹いちょう並木を眺めながら一人歩いていた。公孫樹いちょうの季節。私にとってそれはSと隣で過ごし、本を読み合って過ごした時間の象徴シンボル。道に落ちる銀杏ぎんなんはもう腐っている。六年は前だ。


 ああ、こういう小説は苦手だ。陰気臭いし陰キャ臭い。そうしてどうも自己の韜晦とうかいなんざうまくいかないんだ。そりゃ、そうさ。自尊心が邪魔をするんだもの。Sと積極的に触れ合おうとしなかった類の自尊心が。


 こいつを倒さなければいけないんだったな。

 でも、無理だよ。そんなの。

 それができたら苦労はしない。

 そんなことが出来るのなら私はクラスの誰にでもあげていたバレンタインのクッキーにも浮かれることはなかったし、また来年も同じクラスになれたらいいねと言われたこともすぐに忘れるし、イタズラで言われた「一秒間だけ付き合おう」の戯言ざれごとも一つくだらない笑いのエピソードとして同窓会の酒の席で話せただろう。行った高校の隣の席にSがいたかもしれないことを思い出し、隣の席に座る出っ歯の彼の顔を見てやるせない気持ちになることもなかったよ。


――――――

 ケッ! なんだこりゃ。ひでぇ小説だ。

 私は…… 今はもう公園のベンチに座って月を見ている。煙草を吸って満月を見ている。ありきたりだろう?


「だから小説を書けるんでしょ」

 月が笑った。月の模様ってのはどうも落ちてゆく兎のようにみえてならない。紫煙しえん越しに皮肉に笑う。瞬間ゴボゴボとむせる。煙草なんて似合わないことをするからだ。


「ね、教えてよ、その子のこと」

 隣には真っ白なワンピースを着た少女が座っていた。私はこういう主題をいくつか掌編しょうへん小説で書いていたため、ワンパターンだと苦笑する。

「ああ、いいさ。とはいえ今まで語った以上をやると、描写としてやり過ぎじゃないか?」


 私は小説の台詞回しでしかしない口調で言う。

「そうかしら。今のところ私にはあなたの彼女に対する想い……ううん。彼女に対する想いの形をした自尊心しか見えないわ」

 そうかい。そりゃ失礼。やっぱり失敗小説みたいだ。少女は私の顔を見て笑っている。嫌になったのが表情に出ているな、と思った。


「じゃ、どう語ればいいのさ」

「あのね、Sの好きなものが知りたい」

「Sは…… 小説が好きだった。ケータイ小説、恋愛小説、そういった類のものが」

「素敵じゃない、Sちゃんはいい趣味だね」

「素敵なもんか。小説なんざ好きでもなかったのに、理科でも数学でも、歴史の授業でもずっと机の下で本を読まされたんだぜ、しかもヨコ書きの。話は明快だったが筋と文体が酷くてね」

「まあ、でもさ、Sはそんなあなたが小説を読んでいるのを喜んでた」

「ああ。だからかな、小説ってのは凄いんだって、思ったんだ。私はそういうものを書きたいと思ってるんだよ。」

「だから筋と文体の酷い、ヨコ書きのこんな小説を書いてるわけね」

「話が明快じゃないから修行が足りないかもな」


 私は少女の軽口を笑った。

 読む人も、それを教えた人も、救われる。気持ちを分かち合える。暖かかった。窓際の席で、二人机をくっつけて、物語を読み合う。おかけでその期間は休みの数を減らせた。


「不登校児だったの?」

 心を読まれる。こういう安直なSFみたいな手法は駄目だと私は思うのだけど。

「アンニュイな生徒だったからかな、なんか学校がめんどくさくてね。あと課題を出さなかったのもあって、教師がうるさくて、それから逃げたかったんだ」

「ダサいね」

「だろう。課題の提出遅れで名前を呼ばれるたび、彼女に怒られたよ、課題やりなさいってね。お姉ちゃんみたいで、なんだかくすぐったかった」


 自尊心の虚飾きょしょくが、記憶の窓一面に吹く。中庭に一つ公孫樹いちょうが植わっていて、金の葉を、風が吹くたび地面に落としてゆく。

「こんなのが小説かい?」

 自嘲じちょう気味につぶやく。


「なんであなたは彼女ともっと触れ合おうとしなかったの?」

 私は黙って答えなかった。月を見上げる。――月が綺麗ですね。そういう陳腐ちんぷな台詞が告白になるなんてのは嘘だと思う。少女は続けた。

「知ってるよ。だって、あなたは彼女に出会う前に他の女の子に情けない告白をして、振られたんだもんね」


――そう。私は彼女に会う前、一人のクラスメートに無謀な告白をしていた。元気な明るい、笑窪えくぼが大きい子だった。なぜいけると思ったのか、今ではわからない。さらに、なぜ私はその子を好きだったのかわからない。私がその子は見つめると笑窪を作ってこちらを見つめ返してくれた。だからかもしれない。馬鹿げた話だ。そうして振られて、私は愚かにも自尊心を傷つけられた。だから人の瞳を見つめることができなくなった。今も。


「そうして失意の中現れたSに節操せっそうなく恋をしたわけね、恋に恋するだけのナルシスト。顔に似合わない」

「しかし、そんな動機でも、長い間Sを好きではある――いや……」

 煙草をくわえ、吸った煙を薄く吐いて続ける。

「Sが好きなのか、Sを好きな自分が好きなのか、小説が好きなのかはわからない……」

「それでも良くない? 恋愛感情なんて、いや。人を思う気持ちなんてさ、大体そんなもんじゃない?」


 少女はフフと笑って私の低い鼻のあたりを見つめた。ようやく私は少女の瞳を見ると、吸い込まれるような紫紺の球が二つくりくりと並んでいた。その奥底には月の明かりと同じ色の光が映っている。


「そうかもね。そう、思いたい。……で、この小説はまだ続けるのかい?」

「そりゃそうよ。このまましめたらなんじゃそりゃ、散漫さんまんな自己満足の小説ね。で終わってしまう」

 それもそうだが。しかし書いている作者が小説の主題を見失っているのは確かだ。


「普通の小説なら笑窪の子なんか出さないからね。困ったな」

「これで少しはリアリズムが出たでしょう?」

「馬鹿だねぇ。作者に対して誠実でも、読者がナンノコッチャなら駄目だよ。そんなリアリズムはクソ溜めに捨ててしまうべきだ」


 月明かりと一つの電灯以外に光源がない公園には、真っ黒い木の陰が動いて揺れる音だけが響いた。


「さっきリアリズムがどうとか言ったばっかりだけど、この小説、全部嘘だよね」

「そりゃあね。書き出しの夢からして空想幻想、君の存在もそうさ」

「あなたは?」

「私もだけど……」


 ふと一陣の風が吹く。この描写も嘘だ。肉感なく、寒いとも暑いとも思わないのだから。

「でも、この小説は本物だし、私はSをなんやかんやで想っているんだ。それは」

 煙草の火はいつの間にかフィルターまで到達していた。煙草を床に捨てて踏み潰すはずみに立ち上がる。そして私は少しニヤリとして少女を見た。二つの瞳はキョトンとこちらを跳ね返す。鏡のようだった。


「自己対話ってとこ? また安直だね。まあ、いいけどさ」

「――書かなきゃやってられなかったんだろ? 作者さんよ。じゃあ、納得できるオチをテキトーに考えてくれや。私は普通にワンピースを着た少女との対話をモチーフに一作書くからさ。少しインスピレーションが湧いたんだ。お前にゃ教えてやらないがね」


 「私」は腐った銀杏ぎんなんを踏みつけながら去ってゆく。夢の中、大学内、公園、縦横無尽じゅうおうむじんに駆け回った「私」はどこかへ、紫雲のように消え去ってゆく。いつの間にか少女も消えていた。


「おい、まてよ」

 作者は「私」の足取りを止めようと呼んだ。一つ、聞きたいことがある。

「Sについて、ゴチャゴチャ思いはあるんだろうけどさ。お前は結局、どうなんだ」

「なんだい曖昧だな。どうって何がさ」

「Sが死んだほうが……いや、Sが死んでいることがわかったほうが自分は幸福だと思うか?」

「そんなん、死んだらわかるさ。作中に書いたじゃねえか。そんときになりゃSが好きだったのか、Sを好きな自分が好きなのか、小説が好きなのかハッキリするだろ。もしかしたらモヤモヤしたママかもしれねぇけど。それはそれで一つの答えじゃないか」


「投げやりだなぁ」

「そしたら『私』というキャラクターについて誰か論じてくれるかもしれないじゃないか。ま、お前が有名になってくれたらの話だけどね」

「なるさ、絶対」

「なれよ。で、恥ずかしい思いをしろ。こんな変な小説を書いたことを一生悔くやめ」


 そうして「私」は去っていった。銀杏ぎんなんを踏みつけた足跡には公孫樹いちょうの葉が落ちて、黄金の一本道が、真っ白な世界の先に広がって、あたりを照らしていた。


――――――

――翌朝起きた作者は、書いた記憶のないこの原稿をいぶかしげに読み、どこからともなく湧いた照れに全身を包まれて、なぜだか涙を流したのだった。そうして、Sという名の少女を探しに、作者もどこかへと歩いてゆく。――どこか? どこか、それはつまり、小説の中だったり、現実世界の駅にだったり、空の青さのその向こう側だったり、自分の記憶の片隅だったり、地元の墓地だったり、国道一号線沿いだったり、あなたの心の奥底だったりする。

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