エピローグ
桂川美濃のエピローグ
グラウンドを三周しただけで身体中から汗が吹き出てきた。肉体はまだまだ疲れていないけれど、夏の暑さには抗いようもない。転部から一週間、他の部活にした方がよかったのではないかと、今さらながらに思ってしまう。
大半の部員がグラウンドを走り終え、陸上部は二手に別れることになる。やる気のある部員と、やる気のない部員に。やる気のある連中は自分の競技の練習に取り組み始め、やる気のない連中は更衣室へと舞い戻る。
あたしは当然、陸上部の半数以上を占めるやる気のない部員の一人なので、更衣室へ向かう人の波に従っていく。夏の爽やかな青空を睨みながら歩いていると、背後から肩を叩かれた。
「美濃っちー。この後暇ー?」
あたしよりも背の低いアホ面の女子が笑顔で声をかけてくる。陸上部の同級生、
「特に予定はないわね」
愛想を良くすることもなく返す。
「じゃあ一緒にお買い物いこ? のどちゃんと
「別に構わないわよ」
家が学校のすぐ傍なので、買い物なんて遠回りでしかないのだが。でもまあ、これも人付き合いというやつだ。
やる気のない部員総出で更衣室に戻った。扇風機の回る室内で、全身の汗をタオルで拭いながら体操着から制服へと着替えていく。
「そういえば神谷の奴、クビになったって」
「そりゃそうでしょ。何回か怒られたことあるからザマァだわ」
隣のロッカーを使っていた
「でも、ちょっと可哀想よね。聞いた話じゃ、望月さんの方から言い寄ったみたいだし」
西尾はやや同情するような口調で呟く。松原が下着姿のまま腕を組んでしみじみと頷いた。
「確かに、望月さんから言い寄られちゃあ拒否んのは無理だよねぇ。その噂が事実だとしたら望月さんの趣味悪すぎだけど」
すると未だ体操着のままの樋山が会話に混ざってくる。
「望月さんもあれから学校きてないんだって」
「教師と……それも神谷と付き合ってましたはもう無理よ。転校するんじゃない? 私ならそうする」
西尾がさして興味なさそうに言った。それに樋山がにやりと笑い指を一本立て、
「同じ教師でも
「若くはないけどダンディな
いつの間にか話題が自分が手を出せる男性教師に変わったらしい。
顎に手を添えた松原は四ツ高男性教師陣を脳内で吟味し始めたようだ。唸り声を上げながら、
「そんなに若くはないだろうけど佐渡原先生なんかは結構アリかも」
西尾と樋山が意外そうに目を丸くした。
「まさかのところいくわね。まあ確かに渋い魅力はあるけれど……」
「あー、無精髭さえ剃れば案外格好いいかも……?」
口ではそう言っているものの、二人ともしっくりはきていなさそうだった。しかし松原は言葉を額面通りに受け取って熱めに語っていく。
「そう、そうなんだよ! あの高校生に心の底から興味なさそうな感じ! あの渋さがいい! 身だしなみ整えたら絶対イケオジになるって!」
会話に混じらずに黙々と着替えていたあたしは、制服を身にまとい終えたのでロッカーをばたんと閉じた。その音に反応して西尾がこちらを見てくる。
「そういえば、桂川さんって生物部だったのよね。佐渡原先生ってどんな感じだったの?」
松原が気になるという具合でキラキラした目を向けてきた。あたしは彼女をじっと見やり、
──あんた、望月よりもよっぽど趣味が終わってるわよ。
……と、言おうとして言葉を飲み込む。以前のあたしなら言っていただろうけれど。
「淡水魚と観葉植物の世話をずっとしてたわ。あとウサギの世話も。生類憐れみの令の体現者よ」
「へぇ。生きとし生ける物を慈しむ……いいじゃん」
松原は満足気に頷いている。……間違えた。生類憐れみの令は立場の弱い人間も対象になっていたんだったわね。あいつは人に一切興味ないので、例えとして不適切だった。
「飲み物買ってくるわ」
あたしは三人にそれだけ告げると、荷物を持って蒸し暑い更衣室を出る。外も変わらず暑かった。
食堂の近くにある自販機へと向う。スポーツドリンクを買うと、すぐさまキャップを外して口をつけた。喉が潤っていく感覚が心地良い。そのままペットボトルの半分ほどを飲み干し、
「……ぷはぁっ。くっだらない」
そんな言葉を吐き捨てた。どうして佐渡原に妙な憧れを抱いている奴に、あたしが気を遣わなければならないのか。他の二人もつっこみなさいよ。佐渡原がどんな奴なのか詳しくなくても、あいつはないってわかるでしょう。
……あそこでつっこまなくなった時点で、あたしも大して変わらないか。尖っていた牙を丸めて隠すのも大変ね。
青春をするに必須な友人……のような存在は、あたしが自分を抑え偽ることであっさりと手に入った。中学から考えていた通りの結果だ。あたしは存外、自意識過剰でもなかったらしい。しかしそんなあたしにも読めなかったことがある。……面白くないのだ。
放課後。複数人で集まって、くだらないことをぺちゃくちゃ話しながら、買い物したり勉強したりすることは、もっと面白いものだと思っていた。けど実際は、ただ小さなストレスが募っていくだけ。
こんなくだらないものを追い求めていたなんて……。いや、違うわね。あたしが欲していたのは、きっとこういうことじゃなかったのだ。
何度無理だと標榜しても、あたしはありのままの自分を受け入れてくれる者を求めていた。そしてアスマは、間違いなくそんな存在だったはずだ。実際に許容してくれていたのかはわからないが、少なくともあたしから離れるようなことはなかった。それだけで十分、あたしの中では彼女は特殊な立ち位置となっていたのだ。
だからこそ、あたしは陣内に乗じる形であの告発書をばら撒いた。それによって、あたしとアスマの関係性を確認できると考えたのだ。
桂川美濃が教師と生徒の不純異性交遊を暴露して、アスマはどういう反応をするのか見たかった。叱ってくるのか、失望するのか、呆れるのか、よくぞやったと笑ってくるのか……どんな理由でも、そこに関係性が感じられる気がした。尤も、柘植が二股をかけていたことが発覚したときのことからして、ノーリアクションのままという可能性も大いに考えられる。あいつの心の機微や距離感は測りにくすぎるのだ。そのため、本命はその先に置いた。
アスマの前で動機を全部吐き出すこと……。即ち彼女に、あたしはあんたのことを友達だと思っている、と伝えること。
我ながら拗らせ過ぎた手段だ。普通に伝えればいいだけということは理解してる。けど、そんなことあたしにできるわけがなかった。だからこそ、これまであたしたちが散々他人にやってきた推理で追い詰めて犯人を自白させるというやり方を、犯人をあたしに置いた上でアスマにやらせることにしたのだ。
アスマならすぐにわかるだろうヒントをあえて提示した告発書を作成した。笑える話、告発書をばら撒いた犯人は二人とも自分が犯人だと気づかれるよう、自分でヒントを散りばめていたことになる。
アスマに推理で追い詰められたあたしは、観念して恥ずかしすぎる動機を語る。その流れでアスマに、友達だと思っていることを……伝える。
例えアスマの方があたしのことを友達だと思っていなくても、このもやもやした心の内を吐き出せば、やる意味のある行動な気がしていた。彼女のことだから、あたしがどれだけ恥を晒しても、五分も経てばこれまで通りの対応に戻るだろうという確信もあった。そうなったら、また一から……今度はちゃんとした友達と思われるように努力しようと、そう思っていた。
……けど、アスマは動機を訊いてもこなかった。
「どうしてこんなことしちゃったの?」
と、そう一言尋ねてさえくれれば、あたしは思いの丈を全部ぶちまける準備をしていたのに。
しかし彼女はまるで触れてこなかった。柘植にさえ、二股をかけた理由を訊いていたというのに……。あたしは柘植ほどにも、アスマに近づけていなかったのだろうか。
確かに普段はアスマへ横暴に振る舞っていた。好かれている可能性なんて正直低いと思っていた。けど、そもそも悪感すら抱かれていないというのは、あたしが遊間薫子のことを甘く見ていたと言う他ない。
アスマから「私は友達とは思ってなかった」という言葉を告げられる覚悟はしていた。結果だけ見ればそれと同じだけれど……でも、何かが明確に違うのだ。
あたしの思い描いていたアスマは、あそこで無表情のまま首を傾げて動機を尋ねてくるはずだった。人の行動を勝手に決めつけていただけと言われればそれまでだが、一切予測していなかった状況に、あたしはあのとき纐纈の言葉を痛感していた。
同じものを見て、同じ時を過ごしていたと、そう思っていた。基本暇で、たまに面倒で厄介で不謹慎で、血生臭いこともあるけれど、何だかんだで楽しい日々だった。
しかし動機を訊きもしないアスマを前に、彼女はきっと違ったのだと……あたしは感じ取ってしまったのだ。確かに、纐纈の言う通りそれはもう看過できない事態だった。
蕨野の言葉を借りるなら、あの瞬間に青臭い幻想から覚めてしまったのだ。勝手にアスマのことを理解していると思い込んでいた。繋がりを可視化する必要なんてなかったのに……。
アスマと過ごすのが楽しいのならあいつの腹の底なんて、気にしなくてもよかったのだ。勝手にあいつを友達だと思い込んで、青臭い幻想に浸るだけで楽しかったのだから。
やらなくてもいいことをやって青臭い幻想から覚めるなんて……蕨野と同じ轍を踏んでしまったらしい。
自分の不器用さに嫌気が差してため息を吐いた。
「何をやっているのかしらね、あたしは……」
きっと、あれが桂川美濃にとっての青春だったのだ。終わってようやく気がついた。お互いに悪口を言い合って、たまに起こる謎や殺人事件を解決して、拗れた青春感を披露する……。あたしはそれを自分の手で終わらせた。
「破綻してるわ……」
呆然と呟いた。……おそらく、アスマは何も変わらないだろう。あたしが余程のことをしでかさなければ、これまでと同じように付き合ってくれるはずだ。けど、あいつがあたしに毛ほども興味がないことを既に知ってしまっている。あたしの方が、これまで通りにアスマと接することができない。
夏目の強さがよくわかった気がした。あいつはこんな状況下へ強制的に放り込まれたのに、折れずに園芸部の部員たちと繋がりを保とうとしている。あたしにはやはり、できないことだった。
どうせアスマは今だって、暑いだとか佐渡原早くこいだとか、眠いだとか……何なら既に寝ている可能性もある。あたしと過ごした日々をこれっぽちも惜しんではいないだろう。いや、むしろそうであってくれと思う。
仮に実はアスマもあの日々が楽しいと思っていたのなら、そんなの……あたしが勘違いして、勝手に傷ついて離れただけの愚か者になってしまう。自分の青臭い幻想だと思っていたものが、実際にはちゃんとした青春で、それをあたしが自分勝手に壊したのだとしたら……そんなの、言い繕う余地のない正真正銘の……。
「本当に、破綻してるわ」
青空へ向かって恨めしく呟いた。もちろん大自然様がリアクションを取ってくれるわけがなかった。
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