第12章 掃除をする世界的権威

 翌朝。

 村営ホテルの玄関で主任が15人の団体さんを見送って頭を下げている。のぼりを持ったアズサが先頭に立って河童橋の方に歩いて行く。


 主任が頭を上げて村営ホテルの玄関を入っていくと、ほっかむりをして制服をだらしなく着た見知らぬ人物がモップで廊下を拭いている。「あれは誰だろう?」という顔で主任が見ている。モップを持った男は、主任に見られることを避けるように奥の方へ行こうとする。


「きみ、きみ、きみは誰だ?」


 モップを持った男はモゴモゴと何か答える。何を言ってるか聞き取れないので、主任が近づいてみると、その男はエルデシュだった。主任はエルデシュを見据えながら声を出す。


「タカシくーん、タカシくーん」




 従業員用食堂に、主任が怒った顔をして座っている。向かいにエルデシュとタカシが座っている。タカシが言う。


「いーじゃないですか。エルデシュ博士がせめて何かお礼をしたいって言ってるんだから」


 主任が怒気を含んで言う。


「それが迷惑だっていうんだ。こんなみすぼらしいじーさんが、お客様の前に出て行ったら、みなさんビックリされるだろー」


 タカシが少し怒る。


「みすぼらしいとは何ですか!この方は世界的な、、」


 主任がさえぎる。


「わかってる。散々聞かされたからわかってる。でも、みすぼらしいのはみすぼらしいぞ」


 タカシが長考する。急に指で髪をむしる。


「あーぁ、アズサくんが聞いたら、まーた主任の印象が悪くなっちゃうなー」


 主任が止まる。メガネをかけ直す。


「え?、、、アズサ君の印象悪いの?」


 タカシがあさっての方を見てつぶやく。


「最初は頼りがいのある上司だと思ってたみたいですけどね、博士とアニューカへの応対が、、、」


 主任、黒メガネに手をかけて、立ち上がって、そこら辺を歩き回る。数分歩き回ってから、再度腰掛ける。


「わかったよ。わかった。博士は、ナオミ君の下について掃除を手伝ってもらおう。ちゃんと制服着て。」


 タカシがエルデシュに通訳すると、エルデシュは立ち上がって主任の手を握る。


「ありがとう。ありがとう。これでぼくの気もすむよ」


 主任は苦笑して去ろうとするが、ふと気づいて戻ってくる。


「タカシ君、アズサ君にちゃんと伝えといてくれよ。村営ホテル主任の厚意についてさ」


 タカシがうなづく。




 アズサが従業員用食堂に入っていくと、ナオミが一人でお茶を飲んでいた。


「お疲れさまー。なんか久しぶりねー」


 ナオミが手を振る。アズサがナオミの向かいに座る。ナオミが苦々しく言う。


「まーた部下がいなくなっちゃった」


 アズサ、驚く。


「またー?ずいぶんいなくなるのねー」


 ナオミが力なく微笑む。


「あたし、こき使ってるわけじゃないのよー。なんでかなー」


 アズサがお茶を入れて飲む。


「あ、エルデシュ博士があなたの下について掃除するみたいよ。泊めてもらうお礼に掃除するんだって」


 ナオミがイヤそうな顔をする。


「えー!!ずいぶんエライ人なんでしょ?」


 アズサが笑う。


「うん。そうだけど、面白いじゃない。数論の世界的権威があなたの部下になるのよ。アインシュタインと机を並べて研究した人よ」


 ナオミがビックリする。


「ア、ア、アインシュタイン!でも、そっか。面白いか。村の友だちにみやげ話できるね。あ!あの人、写真撮っていいの?」


 アズサがいぶかしげに答える。


「いいでしょ。なんで?」


 ナオミが心配そうに言う。


「だって、あとでCIAとかに尋問されない?」


 アズサが笑う。




 昼過ぎ、アズサがノボリを持ってバスセンターに行くと、タカシがノボリを持って立っていた。


「やぁ、アズサくん、次はどこの団体さん?」


「北欧。28人。通訳さん帯同らしいから楽だけど」


 タカシが作り笑いで、


「あのさ、ちょっとさ、村営ホテル主任の厚意について話していい?」


 アズサ、いぶかしげに


「なにそれ」


 タカシが作り笑いで、


「さっきさ、主任が約束してくれたんだ。博士とアニューカを従業員同様に扱ってくれるって。宿泊も食事も従業員なみに提供するって。村営ホテル主任の厚意で」


 アズサが笑顔になる。


「えー、それはよかったねー」


 タカシも笑顔になる。


「よかったよー。アズサくんのお陰だよ-」


「なんであたしのお陰?」


「なんかわかったんだよ。主任て、アズサくんに好意持ってるじゃない?」


 アズサ、ビックリ。


「えー!そーなのー!?」


 タカシがうなづく。


「うん。だから、アズサ君をダシに使ったら、スルスルとウマくいってさ。アズサ君に色々教えてもらったお陰だと感謝してる」


 アズサがいぶかしげな顔になる。




 夜になった。


 村営ホテルの従業員寮。ほぼ全ての窓に明かりがともっている。


 従業員食堂に、アズサ、ナオミ、エルデシュ、タカシが一緒の机に座っている。机の上のはワインが置いてあり、みんな少しずつ飲んでいる。少し顔の赤くなったアズサがナオミを紹介する。


「この人が明日から上司になるナオミさんね」


 エルデシュがナオミに小さく手を振る。


「アズサ、こーゆー場合、日本語でなんて言うの?」


 アズサがちょっと考える。


「うーん、「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。」かな」


 エルデシュが立ち上がってマネをする。


「ふととかものでしゅか、よろりくおねましらぬる」


 アズサとナオミとタカシが拍手をする。エルデシュは満足そうに座る。タカシが小さい声でアズサとナオミにつぶやく。


「でもさー、主任がさー、博士をお客さんの前になるべく出すなって言ってたよ」

 アズサとナオミが口を揃える。


「えー!」


「えー!」




 主任が真面目な顔で村営ホテルのフロントに立っていると、少し向こうの廊下のハジから、顔の赤いアズサが上半身だけ出す。


「あれ?アズサくん、なにしてんの?」


 アズサが破顔してピョコピョコ近づいてくる。そして、なかなか堂に入った甘ったるい声を出す。


「主任、主任、ステキなことしたんですってね」


 主任が黒メガネに手をやる。


「な、なにがよー?」


 アズサ、うるんだ瞳で主任を見つめる。


「だって、だってぇー、エルデシュ博士とアニューカを、従業員のようにちゃんと扱ってくれるんでしょ?」


 主任が黒メガネに手をやる。


「う、うん。だって、世界的な人が困ってるんだから、当たり前だろ?」


 アズサ、うるんだ瞳で胸の前で手を合わせてつぶやく。


「ステキ」


 主任はほほえみそうになるのを堪えながら、黒メガネを触って目を泳がせながら、アズサをチラチラ見る。


「あ、あた、あた、あた、当たり前のことだよ。あ、あた、あた、当たり前だろ?」



 少し離れた廊下のハジから、ナオミとタカシが上半身を出して見ている。


「さ、さすが世渡り上手のアズサ君」


 ナオミが同意する。


「さっきまで心からブーたれてた女とは思えないわ」


 タカシがうなづく。


「ワイン3杯飲んだだけなのに、アズサ君、別人になっちゃうんだなぁ」



 アズサが体をクネクネさせている。


「でね、でね、明日から博士も掃除するじゃない?」


 主任がうなづく。


「あのね、あのね、これは美談だと思うの。主任が親切にしてね、そしたら世界的数学者がお礼に掃除してるとこなんて、お客さん喜ぶわよ」


 主任が、いぶかしげに黒メガネに手をやる。


「そ、そーかぃ?」


 アズサが体をクネクネさせている。


「そーよー。信濃毎日に掲載されてもいい話よ」


 主任、少し驚く。


「そーかぃ?信濃毎日新聞に載るくらいの話かぃ?」


 アズサが急に主任を手を両手で包む。


「あたし、明日シゲルさんとこによく来てる信濃毎日の記者さんに言ってみる。だから、博士が掃除してるとこ、お客さんにも見せてあげて」


 主任、手を包まれてドギマギして、デレデレする。


「しょ、しょーがないなー。わかったよー。アズサくんが言うなら」



 上半身を出して見ているナオミとタカシが驚く。タカシがつぶやく。


「さ、さすがだ。アズサ君」


 ナオミがつぶやく。


「小悪魔がいるわ。あたしたちの主任が、小悪魔に操られてる」

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