逆転

平乃ひら

逆転

 それはマンションの前に着いた時だった。

 男は嫌な予感がして足を止めると、その目の前を物力のある何かが真上から通り過ぎ、けたたましい音と共に地面へ衝突して土をばら撒いた。鉢植えかと判断するまで一瞬で、それが頭にぶつかっていたらという恐怖が背筋を走り抜ける。

 急いで上を見上げると、三階から覚えのある部屋のベランダに女が顔を歪めて次の鉢植えに手を掛けていたところだった。

「ちくしょう! 折角綺麗に咲いてたのに!」

 男がマンションの中へ飛び込むより早く次の鉢植えを投げ付けてくる。とにかく必死になって足を動かして再度の殺意を回避する。マンションの中に入って一つ安堵の息を吐き、慣れた手つきでマンション内を閉じている自動ドアの暗証番号を押して開く。

 どうやって知ったのかは不明だが、あの女は自分を殺すためにあんなことをしたのだろう。明確な殺意が無ければ三階から土という重量のあるものを詰めた鉢植えを人に向けて投げるなんて考えられない。

「くそ、何が目的だ」

 ベランダの花はどれも綺麗に咲いていたというのに、それを滅茶苦茶にしたのは軽く腹が立った。同時に綺麗な花を害してまで人を殺そうとする狂気に震えも起こる。

(当たり前だが部屋の鍵は持ってる! だけど部屋の中には他にも凶器がある! どうする!)

 これでは部屋に入れない。もしかしたらドアを開いた瞬間に、大事に育てた他の花も鉢植えごと投げてくるかもしれない。何という惨事であろうか。

 しかし考えていたところで状況が変化するわけでもなく、男は覚悟を決めて部屋の前へと走っていく。鍵を差し込んでドアを開こうとしたところで強烈な抵抗を喰らい、強引にドアを押し、内側から抑え込んでいた女をドア越しに突き飛ばす。

 チェーンを掛けなかったのは慌てていたからだろうか。計画性のなさが見え隠れしているものの、自宅の中に居るのは何かと厄介だ。実際、女はその手に包丁を持っている。

 倒れたとはいえすぐさま起き上がるだろう。その前にこちらが彼女の手首を掴んで抑え込む。馬乗りになってしまえばこちらが断然優位だ。

「何が目的だ! 殺すつもりか!」

「……!」

 女が足をばたつかせて股間を蹴ろうとしてくるので、思わず身を捻って女から降りてしまうと、その女がすかさず包丁を振りかぶってきた。

「――っぶな!」

 頭を横に振っていなければ、容赦なく包丁の刃先が顔面を捉えていたことだろう。その場合は顔の骨を滑って目か口の中を貫き、ほぼ間違いなく絶命していたはずだった。男はそんな自分のイメージにぞっとしながら、振り下ろして体勢が整っていない女の脇腹を思い切り蹴る。床を転がって居間の方まで滑ったにもかかわらず包丁を手放さない執念を見て、男はやらねばやられると察した。

(とうとうこの時が――)

 女はすかさず立ち上がって向かってくるかと思いきや、その場で立ち尽くしたままだ。男は訝しみ、あそこまで感情を剥き出しにしていた理由を考える。

(てっきりすぐ襲ってくるかと思いきや、何を考えている?)

 考えたことで男の気が僅かに逸れたところで、女が包丁を振りかぶってくる。自分の油断に後悔しながら男は女の腕を両手で受け止めるが、しかし今度は女が馬乗りになって体重を掛けてくるので、全力で腕を押し返すものの、切っ先が目の前にあるのは背筋が凍る。

「うおおっ……!」

 このままでは危険だ、殺されてしまう。この間にもミリ単位で刃先が近寄ってくる。右目でも左目でも、どちらにしろ包丁に貫かれれば死ぬことは間違いない。

(殺される! だが、それなら俺だって)

「――と、思ってるんでしょうね」

「?」

「あなたが私を考えていた分、私もあなたを考えていたから」

「どういう……?」

「時間切れよ。本当にギリギリだった。これ以上は多分『殺されて』いたから」

 ドン! と玄関のドアが開く。

(何だ! 警察か!)

 警察官が飛び込んできて、何かを命令しながら女を抑えに掛かる。

(何が起こっている!)

「○○時○○分、自宅内にて女を確保――」

「……確保?」

 女はあらかじめ警察に連絡をしていたというのか。その理由はなぜか。自分が捕まって一体どうしようというのか――

 そこで男は自分の失敗に気付いてしまった。女が通り過ぎ様、男の耳元に口を寄せて囁く。

「これで私の勝ち。じゃあね、殺人鬼さん」

 警察の前で手を出すことはできないと、男は懐にしまってあったナイフを取り出さず、そっと手から離したのだった。

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逆転 平乃ひら @hiranohira

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