カラオケ

カラオケについて

 私がカラオケに出会ったのは中学生のころかもしれない。声変わりもしていない時期で知っている曲は当時、街に出て聴かない日はなかったくらい有名な曲のサビの部分だけであった。友達は既に何回かは行ったことのある様子で、私もよそよそしい感じを出さないためにも行ったことのある感じを演出しながら個室に入った。中に入ると暗い室内の中に眩しいくらいに映像が流れているテレビとマイクが日本だけ用意されていた。当時の私にとっては暗い中でする行為は自分の部屋で親が寝た後にやるゲームくらいしか結びつかなかったので妙な罪悪感があった。友達が自分が歌う曲を入れていって、自分の目の前についにその機械が置かれた。私は歌いたい曲というよりも歌詞がある程度記憶に残っている曲を入れるほかなかった。


友達が自分が知りもしない曲を、普段とは別人の声色で歌っているその姿には何とも言えない羞恥の念があったように思える。当時を振り返るとカラオケというよりも音楽について無知であったことに嫌気が指すが、「なんでその曲を選択したのだろう」とか「女性が歌っている曲を男性が歌っているのは変だ」という自分の何ともつまらなく凝り固まった偏見をそばにカラオケの場にいたので上手く楽しめることができていなかったのである。他人が歌っているときに注目しているのはその場にいる人が歌っている人に対してどんな反応をとっているのかを見て楽しむような変態野郎だったので中学生ながら妙な尖り方をしていたように思う。自分が歌う番になったら全員が知っていてみんなで一緒に歌えるような曲を選択した。その行為は自分が歌が下手であるというの少しでもごまかしたかったからだろう。


高校生になってからは自分が今まで気にならなかったことがどんどん気になってしょうがなくなる思春期という状態に突入する。要は他人に自分がどう思われているのかを考えずにはいられないような時期である。それでは中学生の自分と変わらないではないかと思う人もいるかもしれない。しかし、自分が気にする部分は何を歌えばかっこいいかを考えるようになったのである。ちょうど声変わりが始まった時期だった。当時の曲は今ほどではないにしても有名な曲は高い声で綺麗に歌い上げるのが主流であったような気がする。当然普段から音楽をよく聞いたり、歌ったりするような豊かな学生ではなかったので歌が上手いわけもなく、高音を出そうとすると音が外れて気持ちの悪い声になってしまうのは確定している事項であった。高校生になると友達にはどんな曲を歌っても高得点を出すような人がいたものだ。そんな友達の存在を知ってからはその人を抜きにしてやるカラオケなど無意味に等しいと感じるようになってしまっていた。自分なりにそんな状況になってしまった原因を考えてみた。まず、歌が上手くない集団でカラオケに行くと歌唱力の判断基準は歌唱後の採点モードに委ねられる。そこに出る点数の高低で一喜一憂するカラオケはテレビで観るスポーツの試合に近いと感じた。スポーツ観戦の方が有意義なものであることは確かだが、要は歌唱力が点数でしか判断できないのだ。一人でも上手い人がいるカラオケでは採点モードの結果ではなくその上手い人が判断基準になる。つまりその人にさえ何かを感じさせることができれば自分のカラオケの場での価値が確保されるのだ。


どうでもいいようなことを長語りしているだけであるが、要するに年齢を重ねるにつれてカラオケの楽しみ方が変わってきているということに最近気づいたのだ。

今の自分はカラオケの個室で友達と喋りながら各々が歌いたい曲を自由に選んで歌っていくという空間に面白みを感じている。自分が知らない曲を誰かが歌っているときでも最低限リズムに乗るようにしている。私は一度、自分以外誰も知らない曲を歌ってその場にいる全員がじっと黙っているという地獄の空間を経験しているので誰もリズムに乗ってくれないという苦しみを人一倍理解しているつもりである。誰か一人でも乗っていればみんなもそれに連れて乗ってくれるものである。あの思い出したくもない地獄の空間は誰にも経験してほしくない。(まあ経験している人は多いと信じているが)


カラオケで歌う曲についてだが、その曲を歌っている意味を問うてくる人の理解に苦しんでいるのは私だけだろうか。失恋ソングを歌えば「~ちゃんのことを思いながら歌ったの?」とか恋愛ソングに関しては「歌詞のこの部分って誰のこと?」とか自分で想像を膨らませるのがとても好きなようだ。その質問をすることで一体何が面白いというのだろうか。人間なら自分の気持ちや感情を歌に重ねて歌うことは一回くらいあるだろう。勘の鋭い人や空気の読める親しい友達は「そんなこと」は質問せずとも察しがつくというものだ。それが自分の心に土足で踏み入るような質問をしてくる人とは少し距離を置くのがいいだろう。とにかく失恋ソングくらい気持ちよく歌わせてくれと思っているわけである。


カラオケで一度は経験のある出来事だと思うが、歌詞間違いをしてしまったり一番と二番で同じ歌詞なのにリズムや音程が違う部分をそのままのリズムで歌ってしまったときに最初にミスに気付くのはその曲をよく知る人だろう。周りの雰囲気で自分がミスを犯してしまったことを悟る人もいるだろう。そんなときに笑って収まればそれがベストなのだが、必要以上に指摘する人がいた場合、その人を相手にする必要は全くない、気にしなくていいだろう。カラオケの中で人間性というのはすべてそこに出ると私は考えている。歌詞があやふやな部分を一緒に歌って助けてくれる人もいれば「頑張れ」と声をかける人もいる。正解はないがその時に精一杯楽しい雰囲気に持っていけるような努力はしようという話だ。そうしていると自分がミスする場面に直面した時に誰かが必ず助けてくれるだろう。


友達とカラオケに行くと必ず起こる出来事なのだが、どうしても誰かが「ネタ」としての曲を選んでしまいそこからの曲は少しふざけた曲をチョイスしがちなのである。そういったときに自分が歌える「ネタ」としての曲を持っていない場合、全く無理して「ネタ」の曲を入れる必要はないという話だ。そこで他の人から「ノリが悪いな」などの発言があった場合、大げさに言って縁を切ってしまって構わない。(言い過ぎてしまった)

とにかく周りの雰囲気に無理して合わせる必要はないということだ。


最後に自分の好きなアニソンを歌うときには覚悟をもって挑んだ方がいいだろう。全てに言えることかもしれないが、アニソンはまずそのアニメを知っているかどうかで分けられ、さらにカラオケで歌って盛り上がれる曲なのかという部分でリアクションが大きく変わってくるのである。自分が歌いたい曲を歌う、これが私の考える楽しいカラオケであるがアニソンだけは注意が必要だ。好きなバンドの曲もそうだがカラオケのメンバー次第ではその場を一瞬で更地にしてしまう博打であるということはぜひとも頭の片隅に入れておいてほしい。(経験済みである)


 結論として述べるのは、カラオケは人間関係、友達付き合いをするうえで人間性を見定める重要な機会であるということだ。

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