第5話 シアとの再会
翌日、俺は朝早く起きて中庭に出て木刀を振るっていた。近くの木陰には昨日と同じようにターニャの姿もある。
「ふっ! ふっ!」
技の出を見ながら、今日は調子が悪いと感じる。昨日兄上に痛めつけられた肩はターニャの処置もあってだいぶ良くなっている。けどそれを差し引いても、昨日の朝ほどの鋭さはないように思えた。
どこか体の重さを感じながらも訓練を続け、太陽も高い位置まで昇ったときだった。中庭に現れたのはローエンさんだった。彼はひどく困惑した様子で、俺の元へと早歩きで駆けてきた。
「ローエンさん? こんにちは」
挨拶は大事だけど、ローエンさんはそれどころではないようで珍しく慌てているようだった。
「ノヴァ様、その……旦那様からの質問でして、本日は空いているでしょうか?」
「え? 見ての通り剣の訓練が終わったら領地に帰ろうと思ってただけだから、空いているよ」
「……それではこの後すぐにアークゲート家の当主様とお会いして頂いても良いでしょうか?」
「……はい?」
聞き間違いだろうか。いまローエンさんは、アークゲート家の当主様、と言ったのか?
父上から縁談の話を頂いたのは昨日の夜。そして今は翌日の昼間だ。まだ時間にしてそこまで経っていない。それなのに北のアークゲート家ともう連絡を取ったのか。
それにこの後すぐにアークゲート家の当主がここに会いに来るってどういうことだ? そんな早く来れるわけないと思うんだけど、近くにいたとかなのか?
俺の頭の中は疑問だらけだった。これまでの常識と違う点があまりにも多すぎる。
「ありがとうございます。それでしたら、旦那様がお待ちですのでご案内いたします」
「う、うん……」
戸惑いつつも、ローエンさんの様子からは時間が惜しいという焦りを感じた。木陰で首を傾げるターニャに近づき、事情を説明する。すると俺の侍女は肝が据わっているのか、取り乱すような様子はなく「了解しました」とだけ返事した。
彼女を中庭に残し、俺はローエンさんと一緒に昨日の父上の執務室へ向かう。
すると角を曲がったところで執務室の扉が開く音が響き、父上がこちらに駆けてきた。かなり慌てているようで息は上がっている。
「ノ、ノヴァ! ローエンから話は聞いたか? この後すぐ、アークゲート家の当主に会ってもらえるだろうか?」
「は、はい、私としては問題ありません……ですがこんなにも早く……たまたま近くにいらっしゃったのでしょうか?」
俺の疑問に対し、父上は痛いところを突かれたという顔をした。しかし、この状況になってはどうすることも出来ないと悟ったのだろう。大きく息を吐いて、頭を押さえた。
「昨日の夜にお前から了承の返事をもらった後、すぐにアークゲート家に使者を使わせた。その使者が到着したのがおそらくは昼前だろう。そしてそこから、むこうの当主様が魔法で返答してきた。
お前の都合さえ合うならば今から向かうと。この家に瞬時に移動できる術を向こうは持っているのだ」
「……魔法は、そのようなことも出来るのですか?」
父上の話を聞いて、まるでおとぎ話のようだと思った。遠い場所を一気に移動できるなんて、便利すぎる。
「今まで私も見たことはなかったがな……ノヴァよ、これがアークゲート家の当主だ。よく覚えておいてくれ。決して失礼無いように頼む。
もしも当主様を怒らせれば……お前だけではなく家が滅ぶ……」
「……肝に銘じます」
顔面が真っ青な父上の様子を見て、彼の言葉が冗談ではなく本気だと分かって背筋が伸びる。今までは全く期待されていなかった覇気を使えない出来損ない。それが今は、家の命運を握るとまで言ってくれている。
けど、心地よいものじゃない。むしろ重圧に押しつぶされそうだ。胃が痛い。
「よし、では当主様は応接間でお待ちだ。行こう」
すぐに背中を向けて歩き出す父上を見て、これは、先に返事したな、と内心で溜息をついた。おそらくは俺が了承することを前提に話を進めていると思う。別に断る理由もないから、いいんだけど。
父上の背中を追いながら、入った記憶があまりない応接間へと向かう。その途中で緊張からか、父上の体がガチガチに固まっていった。
かくいう俺もそれは同じこと。これから救国の英雄に会うのだ。しかも相手は長年宿敵と言われてきた家の当主。どれだけ恐ろしく、高慢で女王のような女性が現れるのか、考えるだけでも逃げ出したくなる。
けど家の中は思った以上に狭く、俺達はあっさりと応接間へたどり着いてしまった。父上は緊張した様子で振り返り、俺の目を見て横へと避ける。
「この中にいらっしゃる。頼んだぞ……ノヴァ」
「は、はい……」
父上からこれまでに聞いたこともない言葉をかけられて、改めて責任の重さを実感する。この扉の奥に……。ごくりっと唾を飲み込んで、扉に手を伸ばした。伸ばした手は、震えていた。手のひらに冷たさが広がると同時に、開いて中へと入る。心臓が早鐘のように鳴り響いて、頭ではよく考えられなかった。
部屋に足を踏み入れてまず目にしたのは、夜のような黒い髪だった。ソファーに腰かけていた彼女は扉の音を聞いてこちらの方を向く。灰色の瞳が、俺を射抜いた。
誰がどう見ても絶世の美女としか言いようがない程整った容姿。その髪色と相まって、彼女は闇夜に浮かんで人の心を魅了してやまない輝く月のようだった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、微笑む。あぁ、彼女の本来の笑顔はこんなにも綺麗だったのか、と思ってしまった。扉が閉まる音が小さく耳に残るくらい、俺は彼女の姿に釘付けになっていた。
「はじめまして、突然の来訪、失礼いたしました。アークゲート家当主、レティシア・アークゲートです」
「…………」
戦争を終結させた英雄、レティシア・アークゲート。その名前は聞いていた。けどまさか、彼女だったなんて。確かに考えてみれば、名前の一部に俺の知っている名前があるけど。
俺が片時も忘れなかった名前が、確かにそこに。
懐かしさすら感じる顔を見て、俺は言葉を紡いだ。
「シ……ア……」
声が、上手く出なかった。けど名前を発した瞬間に、全身を今まで感じたことのない何かが駆け巡った。喜んでいる。彼女と一緒にいるだけで、心が、体が、幸福を感じている。
「…………」
彼女は大きく目を見開いた。信じられないとでも言わんばかりに口を手で押さえている。
「覚えて……いるのですか?」
「忘れない……ずっと考えていた……シアは大丈夫かなって……でもまさか、再会できるなんて」
「……嬉しいです、ノヴァ様」
「あぁ……俺もだ……」
あの日、あの時だけ話しただけの少女。けれど短い時間だけでも、俺にとって彼女はただ一人の同じ境遇の人だった。誰よりも身近に感じた人だった。そんな彼女が今目の前にいることに、心が躍った。
彼女はハッとして、向かいのソファーを指し示す。
「と、とりあえず座ってください。立ったままでなくてもいいでしょう」
「あ、あぁ、そうだね……」
お互いにどこかぎこちない形になってしまったけど、俺は彼女に言われるままに向かいのソファーに座った。けどすぐにシアは、じーっと穴が空きそうなほどに見つめてくるので堪えきれなくなって、俺は口を開いた。
「で、でも驚いたよ。まさかシアが当主になっていたなんて……あ、シア様ってお呼びしないといけませんよね?」
相手は俺よりも遥かに格上の当主にして戦争を終結させた英雄。そんな彼女に敬称と敬語を付けるのは当然だと思ったけど、彼女には悲しい顔をされてしまった。
「辞めてください。ノヴァ様にはさっきまでの自然体でいて欲しいです」
「えーっと……いいの?」
「はい、ノヴァ様以外の方もそのような感じでして……せめてノヴァ様だけは昔のままでいて頂けると」
「で、でもシア……も敬語じゃないか」
咄嗟に様を付けそうになったが、堪えてなるべく自然体で返す。するとシアは困ったように微笑んだ。
「私の敬語は癖のようなものですので……」
「そ、それならせめて様は辞めてくれよ。シア……にそう言われると、ちょっと嫌だな」
正直にそう告げると、シアは目じりを下げて斜め下を見ながら答える。
「そ、そうですよね……なら、ノヴァさんとお呼びしますね」
「う、うん……」
昔、ターニャが持っていた恋愛小説を読んでみたことがある。そのときは、将来恋人になる男女の会話があまりにもぎこちないなと思ったけど、今ならそうなるのもよく分かる。これは、何を話せばいいのか分からなくなるな。
けどいつまでもそうしているわけにはいかない。とりあえず俺は、シアのこれまでを聞くことにした。
「シアは……凄いな、当主になったんだな」
「ノヴァさんのお陰です」
「え?」
素直に俺と同じ年で当主になった彼女を称賛しようと思ったけど、思わぬ返答が返ってきた。
「あの時、ノヴァさんが叱ってくれたじゃないですか。それで体内の魔力の暴走がある程度収まったんです。その後は暴走を起こすこともなく使いこなせるようになったので、こうしてアークゲート家の当主にまでなれました。
私の今があるのは、全てノヴァさんのお陰なんです」
「……そうだったのか。まさか子供のお遊びのような言葉で、そんなことになっていたなんて」
驚きを通して疑うレベルだ。俺が叱るだけで魔力の暴走がなくなるなんて、そんなことあるか?そう思ったけど、シアがそんな嘘をつくとも思えない。彼女は過去の話を続けていく。
「家も一つにまとめて、戦争も終わらせて……その間、ノヴァさんの事を忘れた日はありませんでした。南のフォルス家については聞いていましたし、その一族の中にノヴァさんの名前を見つけて、さらに婚約者がいないことを知って、思わず縁談を申し込んでしまいました。
……ノヴァさん」
名前を呼ばれて、俺は彼女と視線を合わせる。視線が、絡み合う。
「こうしてまた出会って、確信しました。ノヴァさんはあの時のままの優しいノヴァさんだと。
あのときからずっと……お慕いしています」
「シア……」
まっすぐな好意を向けられ、俺は喜びと共に戸惑いを覚えた。同時にこれが縁談話だったことも思い出す。俺もシアの事は好ましく見ている。もう認めるけど、幼い頃から徐々に芽生えていった初恋の相手だし、今もこうして一緒にいると彼女にどんどん惹かれていくのが分かる。
けど彼女は魔法の名家でもあるアークゲート家の当主で、俺はただの家の三男坊にすぎない。人として、俺と彼女の間には確固たる差がある。
そんなことを考えているのが顔に出ているのか、シアは俺の事を穏やかな表情で見つめ、口を開いた。
「ノヴァさん、今すぐ答えが欲しいとは言いません。これから一緒の時間を過ごす中で、ノヴァさんの心を決めてもらえればと思います。私はどれだけでも待ちますし、仮に縁談を断られたとしても……ノヴァさんとノヴァさんの大切なものには手は出しません。神に誓ってもいいです」
彼女は俺の事を考えてくれている。それがよく分かるような提案だった。心遣いに感謝すると同時に胸が温かくなったところで。
「今回は挨拶に来ただけですので、今日はこの辺で。ノヴァさんと再会できて、昔の話もできてとても楽しかったです。また今度、よろしければいっぱい話をしましょう」
きっといろんなことが起こって混乱しかけている俺の事を思ってそう言ってくれたのだろう。シアはそういって立ち上がり、俺の元へと歩いてくる。甘い匂いが鼻腔を擽った。
「連絡手段はあった方が良いと思いますので、こちらを渡しておきますね」
差し出されたのは黒い縁のついた便箋だった。それは20枚ほどで全てに紋章がついている。これがアークゲート家の家紋なのだろうか?
「魔法をかけてありますので、文字を書いて家紋を3回叩けば私の元へこの便箋が転送されます。あ、用意するのは簡単ですので、便箋がなくなったら言ってくださいね」
「あ、ああ……すごいな……」
俺が遠い距離を一気に移動する魔法に、遠くの相手と文字で交流できる魔法。それらに対して感想が思わず漏れたところで、便箋を受け取る。受け取るときにシアの手が触れた。感じた彼女の手は小さくて柔らかくて、そして温かかった。
「それではノヴァさん、また今度」
「あ、ああ……」
そういって彼女は笑顔で部屋を後にした。上機嫌であることがよくわかるくらい、雰囲気は明るくなっていた。
パタリと閉まる扉。しばらくしてから俺はソファーに座り込む。便箋をテーブルに置き、息を吐いた。驚いたな。まさかアークゲート家の当主がシアで、しかも俺の……その……婚約者だというのだから。
顔が赤くなるのを感じて、手のひらで押さえる。頭を過ぎるのは先ほどまでこの場所にいた彼女の事。夜のように艶やかな髪に、全てを照らすような月のような穏やかな微笑みだった。動悸が速くなり、体が熱を持つ。これが恋というやつなのか。
落ち着け、と自分に言い聞かせて、よく考える。縁談の相手はシアで、アークゲート家の当主。地位も家柄も良くて、容姿は天使のようだし、性格もとってもいい。しかも初恋の相手だ。
そこまで考えて、一つの答えが出た。あれ? こんな素敵な人、この世に他にいないのでは?
考えれば考える程に、シアが非の打ちどころのない完璧な存在であることを自覚していく。
それに対して俺は何の力も持たないフォルス家の三男で、もちろん他に好きな人もいない。いや、いたけどそれがシアだったわけだし。
しかも行き遅れになるのではと思っていたこともある。これ逃したら、一生の終わりかもしれない。
「いやいや、待て待て」
そこまで考えてから、俺は頭を横に振った。一時の感情で決めるのは早まりすぎているし、なによりもシアのことをまずは考えるべきだ。俺にとって彼女は理想の果てにいるような存在だ。けど彼女のことを考えると、俺は幼い頃に知り合ってたまたま出会っただけで、良い人は他にもたくさんいるだろう。
そこまで考えてから、やっぱりシアの言う通り、これはじっくりと時間をかけて考える事なんだと気づいた。こんな短期間で答えなんて出せない。
シアの心遣いに感謝したとき、ノックの音が響いた。まさかシアが忘れ物でもして帰ってきたのかと思って一瞬背筋を伸ばしたけど。
「ノヴァ、いるか? 私だ」
扉の向こうから声をかけてきたのは父上だった。すぐに返事をすれば、扉を開いて中へと入ってくる。
緊張した面持ちではなくなったものの、やや疲れた顔をしている。
「当主様は先ほどお帰りになられたが……その、どうだった?」
探るような言葉に、俺はしっかりと頷く。
「今回は顔合わせだとおっしゃっていました。これから先、一緒に時間を過ごしてみて縁談を受け入れるか決めて欲しいと、当主様からは仰っていただいています」
「そうか」
安心したように深く息を吐く父上。上下に動く肩が印象的だった。
「その……当主様の事はどう思った?」
「? とても素敵な方だと思いましたが……」
「そ、そうか……お前がそうならばいいんだ。前向きに考えてくれるということでいいのか?」
父上の質問の意図がよく分からなかったものの、縁談に関して前向きに考えているのは間違いじゃないので、俺は頷く。すると父上は難しそうな表情で頷き返した。
「うむ……だが引き続き気を付けるのだ。当主様は恐ろしいお方だ。なるべく気分を害さないようにな。お前は好まれているようだから問題はないと思うが……」
「は、はぁ……」
あのシアが恐ろしいとはどういうことなのか、俺にはどうもしっくりこなかった。俺にとって、彼女は初恋の相手であり、今回再会したときだって俺の気持ちに寄り添ってくれた。どちらかと言うと怖いよりも優しい、慈愛の心に満ちている、という方が正しい気がするのだけど。
でも、俺は父上にシアの事を話すつもりはなかった。過去にシアと出会ったことはターニャしか知らない事だし、どうもこのタイミングで過去の事をターニャ以外の人に話すのは気が乗らない。それが家族ならなおさらだ。
「ゼロードとカイラスを呼んである。この後の夕餉の時に二人にも今回の縁談について共有することにしよう。お前も参加してくれるな?」
「はい、問題ありません」
正直ゼロードの兄上もカイラスの兄上も苦手な部類だけど、父上の言うことは絶対。俺ははっきりと返事をした。父上は力なく頷き、ではなと部屋から去っていく。
子供の頃、いや実家を出る前にはあれだけ大きいと思った父上の背中は、やけに小さく見えた。
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