叶った! 永久の享楽
後藤文彦
叶った! 永久の享楽
目が覚めた。
ああ、唯一神ヌーロ様。
私は復活したのですね。
生前、聖なる浄化を行った者は天国で永久の生を与えられるというのは、本当だったのですね。ああ、私にはこれから望み通りの享楽が待っているのですね! ああっ!
大洋の真ん中にぽっかり浮かぶ二つの島。それぞれは周囲数百キロメートルの巨大な島だが、互いの島は数十キロメートルしか離れていない。一方は「神の国」島、もう一方は「知の国」島と呼ばれている。もともと「知の国」島は単に「荒島」と呼ばれる荒れ地で、ほとんど人は住んでいなかった。人が最初に住んでいたのは「神の国」島の方で、そこは「神の国」という国であった。
神の国の民は唯一創造神教の信者である。唯一創造神教の教えと言えば、例えば「絶対的な存在である唯一の神がこの世を創った」「神は人を創り、言葉と文字を与えた」「神は絶対的に正しい神の教えを書いた聖典を千年前に民に与えた」「だから! 聖典に書かれていることはすべて正しい」などなど、この時代に各地で発生した一神教の典型的教義を一通り取り込んでいた。
中でも特徴的な教義は、
「青いものは穢れているので食べてはいけない」というものだ。この島では、果実、芋、豆などが豊富であったが、ネマンジュという青い果実には食べると死ぬほどの猛毒があったため、この島の先祖たちが採集生活をしていた時代に、青いものは毒だという言い伝えが生まれ、それが唯一創造神教の成立過程で聖典に取り込まれたものと思われる。とはいえ、青い食べ物で猛毒があるのはネマンジュだけなのだが、聖典に青いものは全て食べるなと書かれているので、ネマンジュに限らず、青っぽいものであれば、鳥や魚も一切食べないという習慣が数百年も続いていた。すると、人間に食べられない青っぽい実のなる植物や青っぽい小動物ほど生き残りやすいため、人間が捕食していた植物の実や小動物はどんどん青っぽいものが増えていき、一方、青くない実や青くない小動物はどんどん人間に食べつくされていくので、数百年のうちに、植物の実や小動物が青いものばかりになってしまい、食べるものがないという問題が生じていた。
一方、「知の国」島の「知の国」は、神の国から独立した国である。知の国は、当時は荒れ地だった荒島を耕作し、その地に適した動植物を交配するなど、農業や畜産の技術を科学的な手法で飛躍的に発展させていった。「知の国」建国のきっかけを作ったのはブーダという若者だ。ブーダは子供時代、「青いものは毒だ」というのは本当だろうかと疑問に思った。さすがに自分で食べてみるのは怖いので、魚をつかまえ、餌として様々な青い実を食べさせてみた。確かにネマンジュを食べさせると魚は痙攣して死ぬが、それ以外の青い実を食べさせても死ななかった。ブーダがそのようにして青くて食べられるものを探していったら、実は、青い実や青い魚にはとてもおいしいものがたくさんあることを発見した。ブーダはこの発見を得意になって親に話したのだが、ブーダの親はかんかんになって怒り、二度と青いものを食べないことを約束させられた。ブーダは、自分の明快な理屈をまるで理解できない親が、ただのバカに思えた。
そもそも聖典を「絶対に正しい」と信じることが間違いだと思った。現に、「青いものは毒だ」というのは明らかに間違いだった。「ネマンジュ以外の青い実は別に毒ではなく、おいしいものがたくさんある」という事実は、聖典が絶対的に正しいわけではないという強力な証拠である。にもかかわらず、ブーダの周りの大人たちは、この明快な理屈をまるで受け入れられなかった。なんでこいつら、こんなにバカなんだ!
ブーダは、「青い実は毒である」など、聖典に書かれていることも含め、まだ実際に確認されていないことを「仮説」と呼ぶことにして、「仮説」が正しいかどうかを、魚に青い実を食べさせるなどして、実際に調べてみる方法を「実験」と呼ぶことにした。大人たちは実に頭が固く、聖典に書かれた「仮説」を信じ切っていて、誰もブーダの「発見」に耳を貸さなかったが、子供であるブーダの友達のなかには、ブーダの「発見」や「実験」の手法に共感する者もいた。
ブーダは大人たちから、子供たちをたぶらかす危険な子だと警戒されるようになったが、自分に共感する同士を少しずつ着実に増やしながら大人へと成長していった。
成人して親元を離れたブーダは、数十人の若者たちと「実験主義」という運動を起こして荒島に渡り、神の国のしきたりに囚われないで豊かに暮らす方法を模索し、実践していた。畑には、実験で人間に無害であることを確認した青い実のなる種々の植物を植え、実験で人間に無害であることを確認した青い魚や、青い小動物を捉え、非常に豊かな食生活を楽しんでいた。その様子は、聖典を信じる保守的な人々にはあまりに不謹慎で冒涜的な行為に見える一方で、刺激や享楽を求める若者の中からは、常に一定数の共感者が供給され、荒島の住人は一気に数百人に増えていった。
ブーダは悪魔だ。
殺さなければ。
これは聖なる浄化だ。
クレドはブーダとは幼なじみだった。育ち盛りの頃、腹を空かせたクレドは、果樹園に忍び込んで赤の実を盗もうとブーダを誘った。
赤の実?
あんなまずいもの わざわざ盗んでまで喰おうなんて思わねべ!
そんなごどで捕まったら馬鹿くせっちゃ!
もっと、うめえ実 たくさん成ってっとご 教えでやっから!
ブーダは青い実の成っているところを教えてくれた。ネマンジュだけは絶対に食べてはいけないが、それ以外の青い実は、毒じゃないし結構 おいしいんだと。青い実は確かにおいしかった。しかし、聖典に背いているのだという罪悪感が、クレドを悩ませ続けた。
そんなのどうだっていいべ。
聖典なんて、昔の人の考えだ物語だど。
なんでそんなの信じんのや?
現に「青いものは毒だ」っつうのは、嘘だおん。
「聖典は『絶対に』正しい」っつうのは、間違いだべ。
既に「絶対に」は正しぐないごどがはっきりしたんだがら、
そんなもの信じる必要ねえべっ!
ブーダはこわい。聖典なんて、まるっきり信じていない。昔の人の作り話だと完全に馬鹿にし切っている。ネマンジュ以外の青い実を食べても、すぐに死んだりするほどの猛毒でないことは確かだ。でももしかしたら、将来 体に何か悪い影響があるかもしれない。
確かに、そういう可能性もあっかもしゃね。
んで、それも調べでみればいいべ。
ブーダはそう言う。それがブーダの考え方だ。「ネマンジュ以外の青い実は食べられる」――そんな「自分が発見したこと」すら信じるということはしない。なんでもかんでも疑ってみるのだ。子供のときのその姿勢を未だに貫き続けている。確かにそのやり方が、様々な問題を効率良く解決する場合があることも確かだ。今、神の国では、青くない食べられる食物が減って困っている。しかし、もともとは青くなかったのに、この数百年のうちに青くなってしまった木の実の色が問題なら、ブーダの発見した「交配」という方法――赤っぽい色の実のなる花どうしで受粉させることで、少しずつ赤くしていくことも可能なのだ。しかし、荒島の実験主義に参加する若者を見よ。あの堕落した生活を! 私はあの連中が羨ましいのではないのか? 多くの若者たちに慕われ尊敬されているブーダが羨ましいのではないのか? いや、それだけではない。ブーダは外見も美しく、若者たちはブーダを恋愛対象としても慕っているはずだ! それがどうした。純潔に敬虔にこの世を過ごし、聖なる浄化に尽くした者は、天国での幸せを保証される――望み通りの性愛も含めて。それも永久にだ。この世の高々数十年の享楽と天国での永久の望み通りの享楽と、どちらを選ぶべきかは自明なことだ。聖典に書かれている通りなのだ。迷うまでもない。ブーダを殺さなければならない。それは正義だ。ブーダを殺すべきなのだ。なぜならそれは絶対に正しいことだから。聖典を冒涜し続ける者を排除する。それはどう考えたって正義だ。自明だ。
クレドは一人で船を漕ぎ、荒島に渡った。実験主義に加わったばかりのメンバーであるかのように装い、農作業をしていたメンバーからブーダの家を聞き出した。ブーダは子供たちやつれあいとともに、広場で焼き喰いの最中だった。焼き喰いというのは、ブーダの考えた娯楽の中でも特に子供たちや若者に人気のもので、広場で火を起こし、各種の野菜や小動物の肉を焼いて食べるのだ。その享楽に浮かれはしゃぐ若者たちの姿は、クレドにとっては特に冒涜的でおぞましいものだった。あいつらは、青の実や青い動物の肉を喰って喜んでいる。なんとはしたないことか。私は、一瞬でもあの若者たちのように、楽しげにはしゃいでいる輪の中に入りたいと、夢想したことはあろうか。まさか、あんなおぞましい享楽よりも、聖なる浄化に成功した者に保証されているはずの望み通りの永久の享楽こそ、私の求めるべきものなのだ。迷うまでもない。
「ブーたあちゃーん、ドゥーたあちゃーん」
ブーダとそのつれあいのドゥーボは子供たちに請われながら肉を焼いていた。私の姿を認めたブーダは、片手をあげて、
「おお、クレド」
と親しげに呼びかけてきた。私は聖典に書かれた「聖なる浄化」の作法通り、ブーダの左胸を刃物で突き刺した。子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえる。
ドゥーボは、体の小さい人ではあったが、子供ら二人を抱き上げ、必死に逃げていった。こういうことが起きた場合の役割分担を予めブーダと決めていたかのようだ。その様子を見ながら仰向けに倒れたブーダは、血の流れる胸を押さえて、振り絞るような声で、
「んだから聖典は間違ってるっつったべっ。心臓は真ん中なんだどっ」
とか余計なことを言いながら、少しでも自分に注意を向けて、子供たちを抱えたドゥーボが逃げ切る時間を確保しようとしているかのようだった。ここはブーダの言うように胸の真ん中を刺して確実に絶命させた方がよいのか、聖典に書かれた左胸を突く正しい作法に従うべきなのか。頼むから、早くこのまま死んでくれないかなあ。お、どうやら死んだんじゃないか。息もしていないし、目も口も開いたまま固まっている。死んだ。やったぞ!
聖なる浄化成功だ。これで天国での望み通りの享楽が約束されたのだ。望み通りの性愛も望み通りの快楽も! それも永久にだ。やったぞ! これでブーダよりもいい思いができるんだ。ブーダに勝った!
ブーダが殺された後、荒島での実験主義に参加していた若者たちは、ドゥーボを中心にして神の国からの独立を必須と考えるようになった。独立とはいっても、神の国はもともと、預言者と呼ばれる宗教指導者が全てを決める原始的な独裁国家みたいなもので、島から遠く離れたところにはあるらしい他国との交易もなかったから、そもそも国家としての自覚もなかっただろう。つまり、神の国からの独立とは、預言者の言うことや聖典に書かれたことに従わず、自分たちのことは自分たちで決める民主的な国家を樹立しようという初の試みでもあったのだ。
実験主義のメンバーたちは、いきなりブーダの復讐をしたりはせず、なるべくクレドたち、唯一創造信教の原理主義的メンバーを刺激しないようにしながら、応戦が必要になったときに備えて武器の準備をしていた。
唯一創造信教の原理主義的な運動の中心であるクレドは、実験主義のメンバーを「浄化」することは正義であり、その「浄化」を行った者は聖典に書かれた通り天国で永久の享楽が得られるという考えを布教していた。クレド自身によるブーダの「浄化」に刺激された原理主義メンバーたちが、「浄化」目的で荒島に渡ってきて、無差別な殺人をやり出しかねないことは、簡単に予想できた。なにしろ、この連中は「聖なる浄化」を実行しさえすれば、自分は天国に行って永久の享楽を享受できると、本当に信じていたのだから。
荒島の実験主義は特に戦争に備えていた訳ではなかったが、鳥や小動物を離れた距離から捕獲するための各種の武器が発達していた。弓のバネを強力にし、照準を定めてから矢を発射する装置を取り付けた武器は、数百メートル離れたところから、獲物を仕留めることができた。その他にもてこの原理を利用した投石機や、まだ実験段階ではあったものの、硝石、硫黄、炭等を混ぜて作った火薬すら使い始めていた。
一方のクレド率いる原理主義の一団は、数十メートルしか飛ばない弓の他には、刀や槍といった接近戦でしか使えない武器しか持っていなかったため、こうした武器を持って荒島に上陸してきたとしても、実験主義の武器には到底かなわないだろうと思えた。その意味で、ブーダがクレドに安直に殺されてしまったことは、実験主義のメンバーにとっては、大きな衝撃だった。
今までだってこうした「浄化」殺人を防衛できる力は十分にあったのに、あまりに無防備だったのだから。実験主義のメンバーは、海岸を見張りながら、海岸線に沿って丸太による城壁の整備と武器の開発を進めた。特に筒に詰めた少量の火薬を爆発させて鉄の玉を飛ばす「鉄砲」という武器が完成しさえすれば、実験主義の防衛力は、ほぼ無敵になると思われた。
時々、原理主義の数人が、いかにも「浄化」しにきたかのような武器を携えて、船で荒島へやってきた。こうした連中には、麻酔作用のある適度の毒を塗った矢を命中させ、捕虜として収容した。捕虜には、できるだけおいしい青い鳥や青い実の料理を出した。八割以上の捕虜は、それを食べることを拒否して餓死したが、一部の捕虜は、青い食べ物をおいしいと言って食べた。青い食べ物を食べるようになった捕虜には、この荒島の優れた農耕技術、狩猟技術、製鉄等の生産技術を見学させ、「青いものは毒」を始めとした聖典の「間違い」を一つ一つ納得させ、唯一創造信教による洗脳を解いていった。
こうして、荒島に「浄化」しにきた者の約八割は捕虜になってから餓死したが、約二割は、今まで根拠のないことを信じてきた不合理に気が付き、実験主義のメンバーに加わっていった。このように唯一創造信教の信者だった者が、根拠のないことを信じる不合理に気づき信仰を捨てることを「脱神」と呼んだ。「脱神」者も少しずつ確実に増えていった。
一方、こうした状況に原理主義のメンバーは怒りを募らせていき、あるときクレドは数百の「浄化」戦士を引き連れて、荒島への上陸を試みた。しかし、火矢を始めとして、投石機による爆弾攻撃や、何が起きているのかもわからない鉄砲攻撃等々、クレドたちが見たことも想像したこともない各種の武器の攻撃を受け、すべての船は上陸前に沈没した。
神の国島になんとか泳ぎ帰ったクレドたちは、悔しい思いをしながらも、実験主義の圧倒的な防衛力を見せつけられ、安易な「浄化」は思い留まらざるを得なくなった。そんな中で神の国は、ブーダを「浄化」したクレドが預言者の地位を得て、今まで以上に原理主義的な独裁国家になっていくのだった。クレドは、青いものを食べるなといった戒律を守ることを徹底したので、栄養失調になり死ぬ者も増えた。栄養失調で死にそうな子供を救おうと青い実を食べさせる親や青い実を食べて元気になった子供は、クレドの命によって「浄化」された。そのようなクレドのやり方に反発する集団による内戦もよく起きた。いずれ、宗教独裁国家にはありがちなことだが、こうして神の国は人口を減らし、国力を落としていった。
一方、荒島の実験主義のメンバーたちは、捕虜からの「脱神」者や、「脱神」目的で神の国から逃げてきて入島を求める「脱神」者で人口を増やしていった。原理主義のメンバーが荒島に「浄化」しにやってくることがめったになくなってからは、唯一創造信教の信者が「神の国」を脱出して、荒島に亡命することを「脱神」と呼ぶようになった。人口が増えた荒島では、この地に「知の国」という独立国家を樹立することとし、国の統治方法の整備を始めた。例えば、ドゥーボや一部の幹部たちが荒島のことを決めるのではなく、実験主義と同じような方法を荒島のことを決めるのに応用できないかと考えながら、「知の国」の国をづくりが始まった。今はドゥーボがブーダの後をついで島主となっていた。勿論、ブーダもドゥーボも島主としてふさわしい能力と資質を備えていたが、島主の親族が今後も島の統治にふさわしい資質を持ち続けるという保証はない。そこで島主は幹部の中から「投票」という方法によって定期的に選び直すことにし、更には幹部自体も「投票」によって定期的に島民から選び直すことにした。こうした決まりは文書化して「国法」と名付けた。「国法」には島民が従うべき数々の規範が追加されていったが、こうした規範は島民が互いの生活や財産を侵害し合わずに安心して共同生活を送るための最低限の協定を取り決めたものであって、それらの取り決めの一つ一つには、それを互いに守った方が島民同士の共同生活がうまくいくだろうと幹部たちが話し合って決めたものだという成立の根拠があった。勿論、幹部の話し合いが常に完璧な判断をするとは限らないので、その時々の幹部が制定した「国法」で島民の活動がうまくいくかどうかを「実験」してみて、もしうまくいかないようなら、現行の「国法」を「改正」することが可能な手続きも「国法」の中に文書化されていた。つまり、「国法」は神聖不可侵なために何百年も改善できない「聖典」とは全く違い、改善できるシステムだった。
このように「実験」によって改善できる社会システムと改善できる科学技術とを手にした「知の国」の文明は日進月歩で進歩していくのであった。
一方の神の国は、少しずつ知の国の文明の利器を取り入れてはいったものの、「聖典」がすべての規範であったために、改善することも進歩することもなく何百年も同じような暮らしを続けていた。食糧難の問題に関しては、知の国で遺伝子組み換えの技術が実用化されてからは、簡単に青くない食物を生産できるようになっていた。このように神の国は、多くの面で知の国の科学技術の恩恵にあずかっていたにもかかわらず、敬虔な唯一創造信教の原理主義的な信者のに中には、知の国から流入した爆弾等の技術を悪用し、知の国の住民に対して「聖なる浄化」と称して無差別の殺人を実行しようとする者が一定の頻度で現れた。こうした無差別殺人は本当に手に負えなかった。なにしろ、無差別殺人の実行者は、知の国の善良な一般市民を「浄化」殺人しさえすれば、自分は天国に行けて永久の享楽が保証されると本当に信じていたのだから。だから、「自爆」という方法で無差別殺人を行うことすら、こうした連中にとってみれば、天国行きを確実にする楽しみな儀式でしかなかったのだ。なにしろ、それで本当に天国に行けると信じていたのだから。
信じる――これは、厳しい弱肉強食の生存競争の中で、動物が短期的利益を増大させるために獲得した本能だ。青い実を食べてたまたま腹が痛くなったら、「青い実を食べたから腹が痛くなったのだ」と信じる方が、「そうじゃないかもしれない」と疑って違う可能性を検討するよりも、喰うか喰われるかの緊急性の高い弱肉強食の動物時代の進化の過程では生存に有利だったのだろう。しかしこのやり方では、最初に信じた仮説に間違いが含まれていても修正されないので、例えば青い実しか食べる物がなくなった時など種が絶滅する危険もある。
そういう時に「疑う」能力を持った個体が生き残ることで、「疑う」能力も進化により獲得されたものかもしれない。
「疑う」能力を駆使して、様々な仮説を「実験」により検証できるようになるには、人間程度の知能を獲得するまで進化する必要はあった。しかし、人間程度の知能を獲得してすら、「信じる」本能の弊害は絶大だった。単に青いものを食べてはいけないといった戒律を信じる程度におさまっているぶんには、他の人間にさほど迷惑をかけないが、聖典を冒涜する者は殺してでも「浄化」しなければならないといった戒律を信じられてしまうと手に負えない。
結局、知の国建国以来、神の国には数百年をかけて、知の国の科学技術や社会制度、教育制度が少しずつ流入していった。性本能をコントロールするための性教育と同じように、信じる本能をコントロールするための「考え方」教育も浸透し、性本能をコントロールできずに性犯罪を犯してしまう犯罪者の発生比率の低下と連動するように、信じる本能をコントロールできずに「浄化」犯罪を犯してしまう犯罪者の発生比率も、教育の普及に伴って下がっていった。それには、本当に数百年以上の長い年月を要した。
「私は復活したのですね」
「はい。しかし、あなたの考えている浄化による復活ではありません」
「ここは天国ではないのか」
「はい。ここはあなたが以前 住んでいたのと同じ世界です。ちなみに、人間の意識活動を継続させるために必要な情報が、死後、『天国』といった他の宇宙に移動している証拠は観測されていません。つまり、今 目を覚ましたあなた以外の『本当の』あなたが、どこか『天国』と呼ばれる別の宇宙で復活している可能性もまずありません」
「では、私は何なのだ」
「あなたは、約千年前に神の国で死亡したとされるクレドのアルコール漬けの脳から、現在の技術により再生された再生人間です。あなたは当時、唯一創造信教の預言者だったため、あなたの遺体は、唯一創造信教の伝統的流儀で、機密性の高い棺にアルコール漬けの状態で保存され続けました。あなたの脳内の化学物質の状態は、死亡直後からは相当に変性してしまっていましたが、現在の逆解析と呼ばれる手法により、死亡直前の脳の状態を限りなく正確に再現することができました。これもブーダの創始した実験主義により、科学技術が進歩したおかげです」
「ちょっと待ってくれ。私は浄化による復活をしたわけではないのか? 私はブーダを殺し聖なる浄化に成功したのに、どうして私は千年もの間 復活しなかったのだ?」
「ブーダの言っていた通り、唯一創造信教の聖典が間違っていただけのことです。青い食べ物でも毒ではないものもあった。聖典が絶対的に正しい訳ではないことを理解するには、ブーダが示したその一つの反例だけでも十分だったはずです。しかし、あなたはそれを理解できなかった。現にあなたは浄化を行ったのに復活しませんでしたし、ここは天国ではありません」
「では、ブーダが正しく、私が間違っていたというのか?」
「はい、その通りです」
「天国での永久の享楽を期待して、生きているうちに楽しむことを拒否した私の敬虔で禁欲的な生き方は間違っていたというのか? せっかく禁欲的な生活に耐えてきた私には、保証されていたはずの望み通りの享楽も何もないというのか?」
「ああ、そんなことが気になるなら、なんとでもなりますよ。現在は仮想現実の技術により、あなたが想像しているような『思い通りの享楽』なんて、いくらでもシミュレーションで体験してもらうことができます。まあ、あなたが希望するなら永久に。でも、それが可能なのは、間違ってもあなたが聖なる浄化を行ったからではなく、ブーダが聖典を否定して実験主義を創始したおかげなのです。あの時期にブーダが実験主義を創始していなければ、あと千年は、科学技術の進歩が遅れていたことでしょう。あと千年後に現在と同じ水準の技術が達成されていても、あなたの遺体は劣化が進んでいて、このように再生されることは無理だったでしょう」
「それでは、私はブーダに感謝しなければならないというのか? 私がブーダを殺したのは、とんでもない独りよがりだったというのか?」
「はい。あなたがそう思えるだけ進歩できたのも、ブーダの創始した実験主義のおかげで、あなたを再生できるだけの科学技術が発達したからでしょう」
「なんということだ。子供時代、ブーダと私は親しい友達たった。ブーダを、ブーダも私と同じように再生できないのか? 私はブーダに謝らなければならない」
「それはできません。あなたの脳はアルコール漬けされて保存されていましたが、あなたに殺されたブーダの遺体は火葬され、再生に必要な情報は消失しました。しかし、あなたに殺されるまでの三十年間のブーダの短い人生は、というか、あの時代、実験主義の創成期に次々に新しい発見や発明を実体験できたドゥーボを始めとするブーダの仲間たちは、あなたがこれから仮想現実シミュレーションで体験するだろうどんな『望み通りの享楽』でも敵わない、どんなにかわくわくする充実した人生を全うしたことでしょう」
了
叶った! 永久の享楽 後藤文彦 @gthmhk
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