プロローグ『イミテーション・スタンドアップ』②
かつん、かつん、かつん。
重苦しい沈黙の中で、イミテーションの履く新品の革靴が立てる靴音が響き渡った。
規則正しく、一定の歩調で、何の気負いもない足取りで、イミテーションは白い手袋に包まれた拳を握りしめる。
死んだ空気をかき分けて、イミテーションは進む。全ての因縁を断ち切り、より濃く暗い地獄へと進むために。
その深く青い瞳の奥に、熱が灯った。煮える視線と、黒一色の濁った視線が交差し、火花を散らす。
「……あくまで楯突くつもりか?」
教官はそれまでの無表情を一転して、悪鬼染みた凄惨な表情で、イミテーションへ、自分が虐げていたはずだったものへ問うた。
「おや? やっと理解したのですか? 遅いですね。所詮は脳の髄の髄をかび臭い闇に侵食された負け犬に過ぎない、という事でしょうか?」
しかしイミテーションはまるで堪えた様子もなく、悪びれもせずにしれっと言ってのけた。
イミテーションの手酷い返しに教官は、闇の者は瞬時に沸騰した。
「ケーッ!!!」
闇の者は瞬く間にイミテーションの前まで踏み込むと、大ぶりのフックを繰り出した! イミテーションは手の甲でフックを弾き逸らし、カウンターの掌打を繰り出す!
「ッチィ!」
闇の者は引くのではなくあえて踏み込み、威力が乗る前に自ら掌打に当たりにいき、距離的に威力を半分以下にまで抑え込んだ。
「おりゃ!」
間髪入れずに闇の者は剃刀染みたエルボーを繰り出す! イミテーションは屈み込んでこれをかわす。額を裂くはずだった肘は数本の髪を切り取るのみで、空しく頭上を通過していった。
イミテーションは屈み込んだと同時に極めて低い下段蹴りを繰り出した!
「は! 甘いわ!」
それを読んでいた闇の者は機先を制して跳躍していた。しかしそれこそがイミテーションの狙いであった!
イミテーションは素早く立ち上がり、踏み込み、空中で無防備に浮かぶ闇の者へ強烈なコークスクリューブローを叩き込んだ!
(な! はや!?)
反射的にガードを固めようと腕を動かしたが、間に合わず胴体に痛烈な打撃が突き刺さった!
「がわっ!?」
渦を巻く拳を叩き込まれた闇の者はきりもみ回転しながら吹き飛び、破損したトレーニング器具を刎ね飛ばしながら、壁に大の字でたたきつけられた!
「馬鹿なっ!?」
口から血を吹き出しながら、闇の者は驚愕に目を剥いた。
闇の者、教官は暴力のプロである。故にどれだけの力で暴力を振るえば死なせずに痛めつけられるのか、相手がどれだけの力を持っているのかは一目で分る。
つい昨日まで、目の前の存在は確かに自分よりも下だった。見誤る筈もない。何せずっと見てきていたのだから。
―――ずっと?
闇の者は目を見開いた。
(こ、こいつまさか……抑え込んでいたのか! ずっと! 俺に痛めつけられている間も! 今日この日まで! 馬鹿な!)
暴力に精通しているからこそ、闇の者の驚愕はひとしおである。
彼は生まれてからずっと、やられたらやり返していた。おやつを取られた時も、好きな人を取られた時も、謂れのない罪で捕えようとしてきた警察にも。
その凶暴性に目をつけ、『神』によって闇を植え付けられてからはその性質は手が付けられなくなった。
『聖光教』のエージェントたちの迎撃ミッションでは真っ先に手を上げ、惨たらしく殺戮した。
何度も何度も。舐めた奴は殺す。
そうしてきた。そして、教え子。我が子たる小さくてイジメがいのあるカワイイなイミテーション。当然、同じような教えを施した。
舐められたら殺せ。
口酸っぱく。何度も。繰り返し。延々に。倒れ伏す彼に、毒のように流し込んできた。
彼には分かる。イミテーションにはその教えが染みついている。染みついているはずなのだ。それなのに、イミテーションはその教えを抑え込み、あろうことか偽り、誤魔化していた!
どれだけ叩き伏せられようが、どれだけ罵られようが、どぶ泥にまみれ、血を吐こうとも、この男はあらゆる衝動を、力を、感情を奥底へ封じ込め、今日この日まで決して悟られない様にしていたのだ!
(狂気だ! こいつイカレてやがる!)
壁にめり込んだ体を引き抜きながら、闇の者は胸中で吐き捨てた。
そしてそんな奴に自分がいい様に殴られていると理解したその瞬間、闇の者の中で凄まじい怒りと憎悪が植え付けられた『闇』と結びつき、血中を流れて人知を超えた活力をもたらした。
「……」
イミテーションは体勢を整えた闇の者への警戒の度合いを一段階上げた。殆ど同時に、訓練場の空気がさらに重いものとなった。
「フウゥウウウウ!!!」
口から血と泡を吹き出しながら闇の者はイミテーションへと飛び掛り、手刀突きを放った! イミテーションは首をかしげて手刀をかわし、意趣返しとばかりに手刀突きを放つ!
「Foooooooooooo!!!」
闇の者は奇声を発しながら手刀を逸らし、短打を打ち込んだ。イミテーションも同様に短打を返す。
拳と拳がかち合い、弾かれ、またかち合った。両者は示し合わせた様に拳を突き出し合った。短打の打ち合いの応酬である!
ガンガンガンガンガン!
機関銃の斉射じみた断続的な炸裂音! 闇の者は、イミテーションは零距離という途方もなく短くも長い距離の中でただ互いを抹殺すべく拳を打ち付けあった!
(こ、の、やろ……!)
右拳を心臓へ向けて撃ち込み、弾かれた左腕を瞬時に引き戻して腹部を狙って突き出し、逸らされた右腕を戻して顎に向けて打ち込みながら、闇の者は再び驚愕した。
黒い者として実績を積み、ついにはさらなる『闇』を与えられ闇の者として人間の限界を遥かに超える力を身に着けた。
パワー、スタミナ、スピード、そして異能の限界を超えた強化。全て人間とは比較にもならない。
にも拘らず、目の前の存在に、追いつけないでいた。すでに彼は数十打受けていた。重い拳だった。それこそ人間の限界を何段階も超えていると思えるほどの。継戦出来るのは偏に人間離れしたタフネス、無意識に張っている闇の防御膜によるものだ。
だがそれ以前に速い。いや、速すぎる。何かしらのからくりが無ければ、この速さは説明がつかない!
(だがさっぱり分からない! こいつ一体何しやがった!?)
脇腹に拳。耐えて反撃の掌打、手刀、ボディブロー! イミテーションはそれら打撃を一つ一つ丁寧に叩き落し、その倍の打撃を胴体に叩き込んだ!
(異能の力ではない! そんな小細工ではない!)
闇の者は確信していた。これはそういう技術だと!
「ギッ……このガキ!」
顔面に炸裂したフックに、いよいよ闇の者に余裕が無くなってきた。流れ落ちる鼻血もそのまま、もはや突き刺さる打撃に構わず、右拳を突き出す! 速度を捨て、重さに重点を置いた右正拳突きである!
イミテーションはその苦し紛れの打撃を見切り、最小限の動作でかわすと素早いワンツーパンチで顔面を打った!
「ガ、ガァアアアア!!!」
憤怒の雄たけびも露に放たれた闇の者の闇雲な拳の乱打を、イミテーションは絶対零度の眼差しで見ながら捌き、弾き、逸らし、瞬く間に懐へ飛び込むと顎へ掌打を放つ!
「ブッ!?」
「ハァ!」
更に腹部に一打!
「グフッ!?」
腹を抑えて後退る闇の者へ、大振りの右アッパー!
「ガわッ!?」
そして仰け反ったがら空きの胴体へ、鋭いサイドキック!
「~~~~~~ッッッ!!!」
声ならぬ悲鳴を上げて、闇の者は再び壁に大の字で叩きつけられた。
まるでビル解体用の鉄球が撃ち込まれたが如き衝撃が、部屋全体を揺らした! 常人なら当然即死。実力者とてあの一撃を喰らえば致命傷になりうるだろう。しかし、イミテーションは決して構えを解かなかった。死んでいないと確信があったからだ。
見るがいい。壁にめり込んだ闇の者は苦痛の呻きを上げこそすれ、おとなしくはならなかった。どころか、苦痛の中、怒りと憎悪はさらに強まり、相手の中の『闇』が激しく脈打っているのを内なる『闇』が敏感に感じ取っていた。
「……そろそろ、か?」
めり込んだ体を苦心して引き抜く闇の者を見つめながら、イミテーションはぼそりと呟いた。
「クソガキがぁあああああ!!! 下手に出てりゃあ調子に乗りやがってェ!!!」
闇の者が憤怒の雄たけびを上げると、足元の影が泡立ち、沸騰し、まるで大蛇の如く身をもたげた。
異能『影』。
その名の通り、影を操る異能である。
この力を使い、闇の者は幾多の人間を秘密裏に葬り去ってきた。闇の者は、異能の使用に踏み切ったと同時に、目の前の存在の捕縛の選択肢を捨てた。
(このガキは俺に楯突いた! 幹部共や魔王閣下の足元にも及ばぬが、この反抗的態度、到底許容できるものではない! 後でお叱りを受けるだろうが、ここで
莫大な殺意が放射された。殺意に比例するように、身をもたげる影は数を増し、より太く強靭になった。その先端が、異常緊張によって震えていた。まるで限界まで引き絞られた弓矢のようだ。
近接戦闘能力の高さに加え、闇によって強化された異能の力。絶望的な光景だった。しかし、それこそを彼はずっと待ち望んでいたのだった。
異常緊張が最大に達し、幾本にも分かたれた影の大蛇が眼前の敵へと発射される、その瞬間であった!
イミテーションの眼光が赤熱した! 彼の体が一瞬弛緩したかと思えば、その体が有り得ない速度で加速した!
残像すら発生しない、稲妻の如き速度! 闇の者の眼前に、残心したイミテーションの姿が映った。
残心?
闇の者が訝ったと同時に、その体に、右で4発、左で4発、計8発の打撃がほぼ同時に叩き込まれた衝撃が駆け巡った。
「グァアアアアア!!!」
一瞬遅れて衝撃波! 空気がはじける音とともに、闇の者は壁を突き破りながら吹き飛んでいった!
「ガ、ガガ、ガガガガガ……ッ!?」
闇の者は死ぬ直後の虫めいて手足をバタバタと振り回した。起き上がろうとしたものの、最早体のコントロールが利かなかった。無限に注がれていたはずの活力が、急速に失われてゆく。死が近づく。
「人間が最も脱力する瞬間とはいつだと思いますか?」
すぐ真横で声が聞こえた。その方向へ顔を向けると、青髪の悪魔がすぐ傍らに立っていた。
「っ!?」
「答えは、死ぬ間際です」
真っ暗な部屋の中で、暗く青い瞳の光りだけが、薄ぼんやりと浮かび上がっていた。闇の者は息を呑んだ。
「あなたが何度も何度も私を死の瞬間へと誘ってくれたおかげで、この技を完成させることができました」
暗闇に浮かぶ二つの青を、闇の者は呼吸すら忘れて、ただ見上げる。
「着想を得たのは居合切りです。脱力、そこからの瞬発力。究極の脱力から放たれる打撃の威力は……ふふっ、中々のものだったでしょう?」
闇に浮かぶ青い瞳が細められた。笑ったようだった。闇の物は呆けた顔のまま、やはり何も語らない。
「さて、名残惜しいですが、私には時間が無い。これで終わりにさせてもらいましょう」
悪魔は話を切り上げ、足を振り上げた。
「何か言い残すことはありますか? 長く教えてもらったのです。遺言くらいは聞きましょう」
青き瞳を見つめながら、闇の者は、教官は、消えゆく意識の中で、浮かび上がった言葉を、あの素晴らしい暴力への、嘘偽りざる想いを告げた。
「美しい……」
「……」
教官は、暴力のプロである。だからこそ、目の前の存在が、育てていた子供が、こんなにも美しい暴力を振るっている事に、感動すら覚えていた。
絶命する最期の瞬間まで、教官から笑みが消えることは無かった。
イミテーションは何の感慨も無く教官の顔面を踏み砕いた。そして無残な師の亡骸に背を向け、部屋を出た。
先の戦闘の余波で、殆どの電灯がいかれてしまったようで、廊下は真っ暗だった。視界が効かない中、イミテーションは悠々と進み、自室の前までくると、ドアを開けた。
自室の電灯はかろうじて生きていたようで、弱弱しい電灯の光が、もう訪れる事の無い第二の故郷を照らし出した。
硬く、冷たいベッド。死んだファン。朽ちた壁。罅の入った洗面台。空になった軟膏の容器。使い古された救急箱。その他数々のトレーニング用具の残骸。
真っ二つになった鉄アレイをまたぎ越し、イミテーションはスーツの入っていたアタッシュケースを再び開いた。そしてケースの内側を剥がすと、中から現れたのはケーブルが剝き出しの物々しい装置であった。
手慣れた様子で操作すると、装置に緑色のランプが付き、トリガーを引けばいつでも作動するようになった。
イミテーションは立ち上がり、振り返ることなく部屋を出て、外を目指した。
無言で廊下を歩くイミテーションの顔に、表情は無い。虚無の瞳の奥、心の地平は絶対零度の如く冷え切っていた。
階段を上り切り、天井を開けた先にあったのは、無人の廃墟と化したスポーツジムであった。地下同様死んだ器具たちを横切り、外へ出る。
空は白み始めていた。懐に入れてあった時計に目をやると、時刻はもう間もなく6時に差し掛かるころだった。
((予定より遅い……時間をかけすぎたな))
舌打ちを一つ零しながら懐に時計をしまうと、次に拳銃のグリップ部に似た装置を取り出し、イミテーションは何のためらいもなく引き金を引いた。
ピィー、という甲高い音が装置から聞こえたかと思えば、目の前のスポーツジム廃墟が爆発した。地下やその主を徹底的に破壊するためだろう。爆発は一度だけに止まらず、その後何度も爆発は起こり、何もかもを粉々に破壊し尽くした。
人払いは事前に済んでいるため、やじ馬の気配はない。尤もこんなスラム一歩手前の廃れた地域に集まってくるような者など皆無であったが。
また重要度が低いとはいえ、曲がりなりにも支部の一つが消えた事による教団の調査員が派遣される事のについても、懸念は不要であった。
こちらも事前に虚偽の書類は提出済みであり、承認されている。イミテーションは別の支部に移されたことになっており、この支部には支部長以外構成員はいない事になっている。
仮に調査員が来たとしても、証拠は全て爆炎が消し去ってくれる。
爆炎を上げて、悪夢が消えてゆく。熱波が頬を撫でる。周囲の気温が一気に上昇したが、健太郎の心の温度は冷え切ったままだった。
膨れ上がる黒煙を見上げていると、健太郎はふと、そういえば人を殺したのはこれが初めてだったな、という事に思い至った。
「……」
装置を握っていな方の掌を見る。白い手袋には、自分が行った恐るべき行為の証拠である真っ赤な染みがべっとりと染みついていた。
しかし、どれだけ見つめていても、やはり何の感慨も湧いてこなかった。初めての人殺しに心ここにあらず、というより、頭はもうすでに次の作業への事でいっぱいになっており、とても過去の自分の行いを反芻する暇など無かったのである。
「何とまぁ……」
健太郎は苦笑いを浮かべて首を振った。今更そんな下らない事で悩む事など無いだろうに。
爆発が、景気良く鳴り響く。新生活の門出としては、中々どうして、悪くない。
イミテーションはネガティブな感情を切り捨て、そう思った。
中国では春節という祭りで爆竹を鳴らして祝うという。大きな音を鳴らして、厄や病を追い払うというのだ。
((だったらなおの事この爆発は縁起がいいものだな))
イミテーションは一人頷いた。同意するように、最後の爆発が、大きく、大きく、鳴り響き、過去の全てを、爆炎が洗った。
雲一つない空に、焦げ臭い黒煙が汚点のように広がった。あたかもこれからイミテーションの辿る道筋のように、澄み渡った青空に黒煙が黒く黒く燃え広がっていくのだった。
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