ぼくとエノーラの秘密の隠れ家  Enola

上原 友里@男装メガネっ子元帥

秘密基地〜 ぼくとエノーラの秘密の隠れ家

 大通りが三叉路になってるところでスクールバスが止まる。


「ありがとう! さよなら。また明日お願いします」

 ぼくは運転士のおじさんにお礼を言ってバスを降りる。

「寄り道せずにまっすぐ帰るんだぞ」

「分かってまーす!」

「今日は外で遊んじゃダメだって先生に言われたのを忘れずにな。じゃあ、気をつけてな、エム。また明日」


 背中の後ろで、スクールバスのドアがばたんと閉まる。プゥー。クラクションが鳴って、発車。バスはここでUターンする。なぜでしょう? 答え、ぼくしか乗ってないから。


 ぼくはバスを見送りもしないで、家への帰り道を山へ向かって走り出す。

 急な坂だ。息が切れる。でも急がなきゃ。

 エノーラと約束してるんだ。


 今日こそ、あの秘密基地を一緒に探検しようって。


 ぼくの家は、ハイザールの街の山側の坂道を上ったところにあった。

 すごく見晴らしが良くて、二階のベランダからなら、街並みが全部見渡せた。ブロックを並べたみたいな全部同じ形のアパート、市役所とか警察とか消防署とかハデな明かりの店とか、それからフェンスで囲った大きな運動場、飛行場。あと貨物列車の線路も貨物集積所みたいなのも。

 海岸線沿いには、大きなねずみ色の船やクレーンが何本も立つ造船所のドック、煙を吐く工場なんかがあって、それが波止場に沿って突き出したり引っ込んだり。建物がどこまでもつながってた。年の半分ぐらいは、真っ黒な煤煙で工場の向こうが見えなかったけどね。


 ぼくは九十九折りの山道の、いつもの坂道で足を止める。ここから景色、風景の色が、ぱっと空と海の青に変わるんだ。

 ほら、見えてくる。

 山際から、横にしゅっとしなる水平線。

 今日も水平線の向こうから、もくもくと数珠つなぎにひしめく雲が空いっぱいに伸び上がっている。

 まるで青い空と入道雲が背比べしているみたいだ。


 刻々と移り変わる積乱雲の空は、ほんのちょっと目を離すだけでもガラッと形が違って、まるで別の空を見てるようで、眺めてるだけで楽しい。

 でも今日はひとりじゃない。エノーラが待ってる。早く帰らなきゃ。


 ボーーッ、ていう低い音が、空を通って山の向こうにまでこだましている。


 いつもの場所に、エノーラの姿が見える。

 ぼくの家の前なのに、まるで自分の家みたいに。門扉の前で、腰に手を当てて。


「おかえり、エム。早かったのね」


 言葉とは裏腹に、ずいぶん長い間待たされたんだけど? みたいなふくれっつらを隠そうともしないで言う。

「ごめん。これでも走ってきたんだ」

 はあはあ息をしながら一応あやまってはみるけれど、でも、エノーラは、ぼくの話なんてだいたいのところいつもぜんぜん聞いていない。海の方角へ、何げなく目をやる。

「なんかさっきから、ぼおおお〜〜って変な音がずっと聞こえるんだけど」

「うん、なんだと思う?」

「すごい音よね」

「答えは?」

「別にわからなくてもいいんだけど?」

 エノーラはあごをつんとそらして、不満そうだ。


「答え、汽笛でした!」

 ぼくは鼻をこすりあげる。

「港に大きな船が入ってるんだ。いつもだったら霧の朝がいちばんよく聞こえるんだけどね」

「へー。そうなんだ。ふーん。あっそう」

 涙のしずくみたいな形の白いイヤリングがちらちらする。

 エノーラの方から聞いてるくせに、ぼくが教えたらあからさまにつまらなそうな顔をするのは、さすがにちょっと不本意なんだけどな。


 ぼくだって、こんなところで立ち話する前に、できたら家に入って冷たい牛乳を飲みたい。夏は一日二リットルの水分補給。これは勤労動員の指導教官のありがたいお言葉だ。

 残念ながら、ぼくの身長を伸ばすには二リットルじゃあちょっと足りなかったみたいだけれどもね。


 頭の上を、ヘリコプターの音が横切る。ぼくの家のある山の上が、どうやらお決まりのルートになっているみたいなんだ。たぶん、このへんでいちばん高い山だからじゃないかな?


 ぼくは空を見上げてヘリコプターを探す。

 いた。黒い、胴長のヘリコプターだ。どうしてだろう。今日は、ずいぶん低いところを飛んでるような気がする。

 一段と音がでっかい。


「エノーラ、君が言った通りだったよ。ぼくんちの地下室の奥にも、もうひとつドアがあった!」

 ぼくは声を大きくする。ローターの音がうるさすぎるせいだ。

 ヘリコプターはぼくたちの声をかき消しながら、頭の後ろの方から海の方角へと消えていく。続いてもう一機。山を飛び越え、前のヘリコプターを追いかけて海へと向かう。


「やっぱりね。家の作りが同じだからそうだと思ったわ。野郎ども、心の準備はよろしくて?」

「よくないね。勝手に入ったらママに叱られる。友達を連れてきたなんて言ったらもっと怒るよ」

 半分は本当で、半分は冗談。

 ママはぼくが地下室に近づくとすごく怒る。たぶん心配してるだけだと思うけど。ちょっと気にしすぎだよね。

 ぼくだって、いつまでも昔のぼくじゃないんだけどな。地下室のはしごをひとりでは上がれなくて、わんわん泣いてた頃のぼく。


 エノーラはふふっ、て笑う。

「大丈夫よ。これでわたしとエムもお父さんたちと同じね」

 たぶん、エノーラのパパと、ぼくのパパが《戦友》だったって話。

「うん、えっと、その、奇遇だね」

 ぼくははぐらかして答える。やっぱり早く牛乳が飲みたい。

 どうせ、ぼくがエノーラに質問したって的確な返事が返ってきたためしはないんだから、同じことをしても罰は当たらないだろう。当たらないんじゃないかな?


 またヘリコプターが後ろからやってくる。今度は三角に編隊を組んでいる。ローターの音が、次から次へとやってきては海の向こうへ飛んでいく。まるで、上から重たい音のかたまりが降ってくるみたいだ。


「じゃあ、そろそろ行動開始と行こう。入って」

「わたしがいたら、ママに叱られるんじゃない? こんなご時世だし、勝手に知らない人を家に入れるんじゃないって」

「大丈夫だよ。今日は仕事に行ってていないはずだから」


 ぼくは背後のエノーラと肩越しに話をしながら、玄関のロックにカードキーを差し込み、暗証番号を入力する。暗証番号は簡単な数字、1234とか9999とか、自分の誕生日とか。要するに誰でもすぐ思いつく数字は設定しちゃだめなんだって、パパが前に言ってた。

 だから今は、絶対忘れない数字を暗証番号にしてる。その数字は……

 おっと、いけない。誰にも知られちゃいけないんだ。エノーラにも。


 ロック解除。ドアを開ける。ぼくは紳士だからね。レディーファーストを忘れない。エノーラをうながす。

「じゃあ、エノーラ。お先にどう……」

「あっおかえり、エム。良かったあ早く帰ってきてくれて!」

「うわっ!?」

 心臓が飛び上がる。ママの声だ。まずい!


 首の後ろで髪をきゅっとむすんで、きっちりしたカーキ色の制服を着て。ママがばたばたと廊下を走ってくる。

 まさしく出会い頭ってやつ。


「うわあ遅刻しそう。やっばあ。早く行かないと。ごはんの用意はしといたから。あっ」

 突然、着た方向にくるっと向きを変える。忘れ物したみたいだ。

 その隙に、エノーラはささっとドアの裏側に隠れる。いや、今さら? さっき真正面からこんにちは状態してなかった?


 ママが戻ってくる。すれ違いざまにお弁当入りのカバンを持ち上げて、揺すって見せる。いつもの、ちゃっかりした笑顔はそのまま。

「う、うん、いってらっしゃい」

 狭い玄関先でぼくは、体を横に平たくこわばらせて避ける。

「ほら、入ってエム」

「えっ、あっ?」

 すり抜けるなりママは、ぼくを玄関の中へ押し込む。

 待って。エノーラが。そこに。ドアの裏! やばい! あっ! あっ!

 ぼくの心の中の声が届くわけもない。ママは外からばたんと戸を閉める。


「あっ!?」

 また、勢いよく扉が開く。

「何っ?」

「牛乳飲む前に、ちゃんと手を洗ってよね」

 ママはちょっと疲れた笑顔で付け加える。

「次にまた冷蔵庫に泥の手形をつけたらダメだからね。あの時はマジでホラゲかと思ったし。それから戸締まりも。鍵はママがしとくから、ドアチェーンを忘れないで。危ないから勝手に外にでちゃダメよ。あと、夜遅くにうるさい音を立てたり、電気をつけっぱなしにしちゃダメ。いい? チェーンしてよ?」

「大丈夫。ママも」


 気をつけて、って。


 いってらっしゃい、って。


 早く帰ってきて、って。


 いつもならそう言うんだけど。

 あれをしちゃダメ、これをしちゃダメって、エノーラが聞いてるかもしれないのに口うるさく言うから。

 今日に限ってぼくは、ママの向こう側をちらちら見ながら違うことを口にする。


「早く行ったほうがいいよ。今日からだって先生が」

「あっそうだった行ってくる。あああ遅刻遅刻ぅーー」


 まだ、心臓がばくばく言ってる。

 ママはぼくが冷蔵庫に泥の手形をつけないかどうかを心配しすぎて、どうやらエノーラには気づかなかったっぽい。


 ぼくは言われた通り、先に手を洗う。それから部屋に戻って黒い遮光カーテンの隙間におでこをくっつけて外を見る。

 ママはガレージを開けて、後部座席にカバンを放り込んで、それからバックで車を外に出してガレージのシャッターを閉める。やっと出発だ。

 帰ってくるのは明日の夜。


 軍需工場の夜勤は大変だけれど、光栄な仕事だ。だからぼくは自分でできることは全部自分でやれるようにしてる。もちろん、ママの言いつけも全部。

 でも、今夜だけは特別なんだ。


「うまくいったみたいね」


 あれだけ口うるさく言っておきながら、どうやらママは鍵をかけ忘れてったみたいだ。ぼくが牛乳を飲もうとキッチンに入ると、いつの間にかエノーラが後ろからついてきている。


 テーブルには、丸い黒パンが二つとステンレスの保温ジャーに入った夏野菜とチキンのスープが載っている。それとじゃがいものフライ。

 たぶんママのお弁当も同じメニューのはず。ズッキーニやトマト、インゲン、それからビーツ。配給しかない町のみんなと違って、ぼくらは恵まれてる。野菜は夏のごほうびだ。


「いっしょに食べる?」

 ぼくは、内心ちょっとびくびくしながらも紳士的に尋ねる。エノーラは首を横に振る。

「いいえ、けっこうよ。お弁当あるもの。でもあなたは先に食べていいし、食べておくべきよ。だって秘密基地には、恐ろしいモンスターがひそんでいるかもしれないから」

 いつもの、腰に手を当てた格好で言う。


「ゲームじゃあるまいし。いるわけないだろ。でもちょっと待っててくれる? 食べ終わったら片付けをする約束なんだ」

「もちろんよ。ゴミだらけの汚れたキッチンを見せられるなんて、誰だってお断りだものね」

 エノーラは、いつもだいたい正しい。正しくは、仕事帰りのママにそんなキッチンを見せて悲しませたくない、だ。


 ぼくはラジオのスイッチを入れる。音楽と笑い声が重なってひびく。残念ながらうちにテレビはないんだ。あっても映らない。

 急に音楽が止まって、ニュースに変わる。


 ぼくはつまらないラジオを消してごはんに集中する。あっという間に完食。あとは、底に赤いお酒の輪がこびりついたたくさんのコップと一緒にお皿を洗い、ゴミ袋をしばるだけ。


「じゃあ行きましょ。地下室はこっちね」

 エノーラはふわっと髪をかきあげる。まるで草原をスキップしてるみたいだ。知らない花の匂いがする。

「エノーラは、おうちの人には言わなくていいの?」

「秘密基地に行ってくるなんてわざわざ言うの? それじゃ秘密でもなんでもなくない?」


 つまり、ぼくらがどこに行くのか、誰も知らない。ふたりっきりの隠密行動ってわけ。


 夜に、女の子の友だちと、二人っきりで冒険に出かけるなんて。

 なんてドキドキするひびきなんだろう……!


 (まだ夕方だけど)ぼくはすごくワクワクしてる。

 ママに立ち入りを禁止されている、秘密の隠れ家へこっそりと侵入。(ぼくんちの地下室だけど)

 何もかもが初めてづくしだ。同じ年頃の友だちがいるのも、その子とどこかへ出かけるのも。エノーラは学校には行かなくていいらしいけど。

 どうしてかな。質問。答えは……


 いくら友だちでも理由は聞かない、だ。


 誰にだって言いたくないことはある。

 もちろん、ぼくにも。

 それが大人になっていくってことなんだ、たぶん。

 ほんの少しの秘密が、やがてたくさんの嘘に積み上がっていく。ぼくだけじゃない。ママにだってぼくには言いたくないこと、言えないこと、言えなかったことが山ほどあるんだろう。


 ぼくらは、たくさんの嘘とほんの少しの罪悪感を抱えて、何も悪いことが起きてないふうな顔をしたまま今日をやり過ごし、耳をふさいで明日を待つんだ。みたいに。


 地下室へは、玄関横の階段を降りるようになってる。

 ぱっと見はただの物置部屋だ。ばけつを横にどけて、置いてあるデッキブラシを他の壁に立てかけ、床下収納の戸を持ち上げると。

 下に降りる鉄のはしごが表れる。


 はしごに足をかけて、おそるおそる降りていく。壁はじとっと濡れていて、土の下の臭いがして、お先は真っ暗。はしごの段を握る手が、冷たい汗で滑りそうだ。

 暗いし。狭いし。寒いし。息苦しい。

 心臓の音が、胸の中だけじゃなく外にまで反響して聞こえる。

 冗談じゃない。まるでびくびくしてるみたいじゃないか。全然、こわくなんかないのに。

 無理して降りる速度を上げる。乱暴に降りていくと、急に足が地面につく。想像していた位置よりちょっと下にあったせいか、踏みはずしたふうになって。

 ガクン、とずり落ちる。


「痛っ」

「大丈夫?」

「ぜんぜん大丈夫!」

 エノーラが上から懐中電灯で照らす。髪の色が、懐中電灯の白い光にふんわりと透けて、ゆらゆらまぶしい。

「いいよ、降りてきて」


 エノーラが降りてくる間、ぼくははしごに背中を向けて、何もない地下室をうろうろと調べて時間をつぶす。さっきまでは思い至らなかったけど、いくら夏だからってふわふわスカート姿で探検するのって少々、いや、かなり合理的じゃない。


 降りたところにある重たい木の扉を横にずらすと、そこにはもう一枚、黒光りする鉄のドア。これが秘密基地の扉だ。

「隊長! 謎の扉を発見しました!」

「了解! では質問です。どうやって開ければいいでしょう?」

「えっ、ここでクイズ?」


 あちこち探ると、すぐそれっぽいものが見つかる。左右に回すとカチカチ音が鳴るダイヤルがふたつ。切り欠きのついた鉄のレバーが一本。ラジオのチューナーみたいに、前後に回すとメーターの針が上下に動くつまみがひとつ。


 右にカチカチ。

 左にカチカチ。

 音はすれども反応なし。残念。鉄のドアは動かない。


「そんなので開くわけないでしょ」

「分かってるなら、クイズの答えを言ってみてよ」


 エノーラはぺろっと舌を出す。

「答えは、正しい数字に合わせる、です!」

「えーっずるい! そんなの答えになってないよ」

 ぼくは、むっとくちびるを尖らせて言い返す。きまり悪いのをごまかすのに、ほっぺたが赤いままじゃあ格好がつかない。

「でも間違ってないでしょ?」

「間違ってはいないけど、正しくもないじゃないか。そもそも番号が分からないから開かないわけだし」

「探せばどこかにメモしてあるんじゃない?」


 先行きがすごく不安だけど、そうするしかない。ぼくは弱気なため息を吐いた。壁にヒントっぽいものがないかどうかを手探りで探す。やっぱりない。


「メモなんてどこにも……」


 がたっ。

 大きな音がする。がたん。地面が揺れる。かたかたかた。木の扉が振動する。

 え、うそ。地震!? まさか。

 きっと立てかけておいたデッキブラシがバランスをくずして倒れたんだろう。そうに違いない。そうだよね?


「それは困ったわね」

 エノーラはぜんぜん困ったふうじゃない感じに首をかしげてみせる。

「肝心な時に開けられないなんて、これじゃ《戦友》失格だわ」


 また、《戦友》の話。


 エノーラの本心を疑うわけじゃないけど。それが本当かどうか、前に一度ママに聞いたことがある。

 困った顔をしてた。最初は知らないの一点張りで、それからだんだんいらいらしたふうになって、最後にはエノーラのことも『知らないわよそんな子!』って怒りだして、お酒飲んで、泣いて。庭に飛び出して、手紙みたいなものをいっぱい持ち出してきて一枚ずつ破っては焼いてた。火がゴウゴウ燃えて、焦げ臭い匂いがして、真っ赤な壁に幽霊みたいな影が踊り狂って——


 どん。

 太鼓みたいな音がする。どん。地面が揺れる。どん。どこか遠くからサイレンが聞こえる。これは何の《警報アラート》だったっけ? ずっと聞いているとそわそわして、どうしようもなく不安になってくる不協和音のサイレン。


「何の……」

 ぼくの声が、空から降る轟音にかき消される。ガラスの割れる音。めきめきと柱の折れる音。

 空一面の音が、ぼくらの街、ぼくの家、ぼくの耳に蓋をする。何も聞こえない。爆発の音以外は、何も。


 天井から絶え間なく砂が降ってくる。地面がぐらぐらする。


 いったい、何が起こってるんだろう。

 何が起きたっていうんだろう。


 降りてきた縦穴から、なぜか真っ赤な灯りが射している。やけに焦げくさい。上で黒い影が踊っているみたいだ。


 デッキブラシが火の粉を散らして目の前に落ちてくる。熱い。ぼくは悲鳴をあげて飛びのく。煙が立ち込める。

 降りてきたはしごの横棒の段が外れて、バラバラと床に散らばる。


 はしごの上は真っ赤だ。燃えてる? 何で? これじゃあ、上に上がれない。

 どうしよう。やばい。とじこめられちゃった。


 頭の中がパニックで破裂しそうになる。台所で火なんか使ったっけ。それともランプを消し忘れた?


 違う。サイレンの音はもう聞こえない。代わりに聞こえるのは——


「さあ、クイズの時間です」


 エノーラが、早く目を覚ましなさい、とでも言いたげな態度で、手をぱん、と鳴らす。ぼくはぎょっとして、それからお化けを見るみたいな目をしてエノーラを振り返る。


「クイズ?」

 わけがわからない。

「なんで今?」

「だってエムはクイズ好きでしょ?」

「そりゃあ好きだけど今はそれどころじゃ」


 地下室はもう、蒸し風呂みたいに暑くなっている。

 頭がふらふらする。

 汗がどっと出て、めまいがし始めて。咳き込む。喉が痛い。息が苦しい。煙を吸い込んじゃったみたいだ。何も考えられない。

 地面が揺れる。どんどん言う音はますます大きくなる。柱の崩れる音が重なる。

 それ以外の音なんて何も聞こえないはずなのに、天井が燃えて熱いはずなのに。


 エノーラの声だけが、なぜかきれいなベルの音みたいに透き通って聞こえてくる。

 まるで本当はそこに誰もいないみたいに。


「そんなことより早く逃げなきゃ」

「逃げるってどこに? どうやって?」

「まさか、それもクイズって言うんじゃないだろうね」


「エムのパパとわたしのパパは《戦友》で、お互い困ったことがあったらいつも助け合ってたの。それとおんなじよ。だから、エムなら答えが分かるはず」


 エノーラはやけに大人びた仕草で、耳元の髪を指でかき上げる。

 涙滴形の真珠のイヤリングが、ゆらゆら揺れて。

 白く、眼に焼きつく。


「言ったでしょ。うちの地下室も同じ作りって」

 くすくす笑う。

 エノーラは、ぼくの話なんてだいたいのところいつもぜんぜん聞いていない。分かってるなら教えてくれればいいのに。

 ぼくの頭の中が、蒸したプリンみたいに熱と煙でふらふらになっていて、何も考えられないぐらい真っ白になってることなんて、まったくもってお構いなしなんだ。


「さあ、答えて。問題です。秘密基地の鍵の数字は何でしょう?」


 ぼくは何も考えられないまま、誰でも思いつく適当な数字を入れる。最初の数字を合わせるのでさえ、指がぶるぶる震えて、うまくいかない。


 エノーラの声が、後ろから聞こえる。


 エムのパパはね、わたしの家が爆弾で壊れた時に助けに来てくれたの。

 わたしのパパはどこ? って聞いたわ。そしたら、残念だけど用事があってどうしても来られなくなったから、代わりに俺が来たんだって言ったの。

 あいつは俺の《戦友》だったんだ。だから。必ず。

 君を助けるって。このシェルターに入れば助かる、って。


 でも、間に合わなかったの。


 そんな話、信じられる? 個人シェルターの鍵を開ける暗証番号がわからなかったの。目の前に自分の家のシェルターがあるのに、入れなかった。何度も間違ったわ。どの数字も違ってた。ママの誕生日も。パパの誕生日も。わたしの誕生日も。電話番号も。住所も。全部。違ってた。思い出せなかったの。


 結局、間に合わなかった。


 こんな時だけセキュリティしっかりしやがって。って、あなたのパパも笑ってたわ。

 俺なんて、何も考えずに一番に思い浮かんだ数字にしちまったのに、って。


 そんなの、ぜんぜんセキュリティがなってないわよね。もしものことがあったらどうするのよ。急に開けなきゃならないような、もしものことがあって、何の番号か分からないようなことがあって、誰にでも分かっちゃう数字だったら。


「それから? パパは? エノーラのパパは? エノーラはどうしたの? ねえ、エノーラ。返事をして」

「エムのパパは、誰よりもエムのことを愛してたのね。だから、いちばん大切な数字、絶対に忘れない数字、絶対にエムが間違わない数字をキーにした」


 ぼくは、つまみを動かして最後の数字を入力する。肺がすぼんで、カラカラのぞうきんみたいに空気を絞り出そうとしても、あと一息ができない。頭が割れそうだ。


「何があっても、きみを助ける。それが《戦友》ってものでしょ?」


 息をするたび、ガラガラした煙だけが喉を焼く。こんな時に数字を思い出せなんて言われても思い出せるわけがない。


 出征する前の最後の夜に、パパ自身が言ったんだ。

 誰でもがすぐに思い当たるような数字を暗証番号にしちゃダメだぞ、って。

 なのに。パパときたら。


 ほんと、セキュリティリテラシーがなってない。

 何が、何も考えずに一番に思い浮かんだ数字だよ……いちばんダメな数字じゃないか……


 大事な鍵の番号が、ぼくの誕生日って。


 こんなご時世だから、いつ、どこで敵の空襲を受けるか分からない。特に、が出てる夜は。電気を消して、かぎをかけて、外にでたりしないで、家でじっとしてなきゃいけないんだ。


 秘密基地の鉄のドアが、音もなく開く。ひんやりと冷たいきれいな空気が流れ出る。

 ママが地下に降りるのを嫌がった理由に、やっと思い当たる。これはパパが——名前もわからないどこか遠くの街で戦死したぼくのパパが用意してくれた個人用の核シェルターだ。


 一晩中、ぼくは、秘密基地の中でじっと隠れていた。


 次の日。ぼくは秘密の隠れ家から外に出た。

 空は真っ黒なのに、街は真っ赤だった。無数の流星が海の果てまで次々と落ちて、海を真っ赤に染めていた。

 工場が吐く煙の代わりに、街の燃える煙が何本も立ち上っていた。ブロックを並べたみたいな全部同じ形のアパートも、市役所とか警察とか消防署とかハデな明かりの店とかも、それからフェンスで囲った大きな運動場、飛行場。あと貨物列車の線路も貨物集積所みたいなのも。


 全部なかった。海がよく見えた。


 ぼくは何度かこぶしで眼をこする。ママを助けにいかなきゃならない。工場のシェルターに避難しているはずだ。きっと無事でいる。

 それと、たぶん。

 ぼくは背後を振り返る。エノーラの姿はもう、見えない。

 今度は、ぼくがエノーラを探してあげなきゃならない。

 ひとりぼっちだった女の子と、ひとりぼっちのぼく。でも、ぼくらはもうひとりじゃない。


 火の玉が空に向かって飛んでゆく。少し遅れて、どん、と空気が響く。火花が四方に飛び散る。打ち上げ花火みたいだった。

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