第6話 して欲しいことがあれば、なんでもするよ

「風呂を手伝うとは……」


 混乱しながらそう呟くと、花江りこはきょとんとした顔で小首を傾げた。


「体や髪を洗ったり? 支えたり? 他にも新山くんがして欲しいことがあれば、なんでもするよ」


 なんでも――。


 考えるより先にやましい想像がぼんやりと浮かんできた。

 いやいやいや、やめろやめろ。

 慌てて首を振って、あれやこれやを払いのける。


「新山くん、何してほしい?」

「何って……」


 頭が真っ白になる。

 だめだ。

 花江りこに「なんでもしてもらえる俺」なんて、まったく現実的じゃない。


「だって、え。……お風呂だよ……? わかってる……?」


 もしかして天然なのかと思ってそう尋ねてみたら、花江りこは恥ずかしそうに俯いて「わ、わかってるよ……?」と呟いた。


「あっ、待って! 違うよ!? 私、痴女とかじゃないよ……?!」

「……!!??」


 な、ななななんつうことを言い出すんだこの子は……!


 しかも本人は至って真剣らしく、痴女という言葉を口にしたことに照れながらも、真面目な顔で拳をきゅっと握り締めている。


「介護についても通信教育で勉強してあるの。だから何も気にしないでね……!」


 花江りこにとっては介護と変わらないのかもしれないけれど、俺はそんなふうに思えない。

 だからこそ、絶対に手伝ってもらうわけにはいかなかった。

 そんな善意に付け込むようなことをして、万が一、花江りこに俺の下心がバレてしまったら……。

 きっと彼女は俺のことを心底軽蔑するだろう。

 花江りこにゴミ屑を見るような視線を向けられるところを想像して、ブルッと震え上がる。

 下心の言いなりになる勇気すらない俺を笑うがいい。

 俺は女子から嫌われることが本気で怖いのだからしょうがない。


「気持ちはありがたいけど、他のことと違って風呂を手伝ってもらうのはやっぱりまずいよ……。花江さんが俺のことを意識してなくても、俺はやっぱり気にするし……」

「なんで私が新山くんのことを意識してないって話になってるの……?」

「……? だって、介護って言ってたから」

「それはそう言わないと新山くんが、私を受け入れてくれないかなって思ったからで……っ、……でも、意識してないとかじゃなくて……っ」

「えっ」

「あっ、な、なんでもない! 今のは忘れてね……! と、とにかくお風呂行こ!」

「待って待って、それはほんとだめだから」

「うう……。……わかった。具合が悪い新山くんを困らせるようなことはやめておくね……。代わりに、ご飯のお手伝いはさせてね……!」


 ご飯の手伝い?

 作ってくれるとは言ってたけど、配膳とかそういうことか?

 それで引き下がってくれるなら、ここは承諾しておいたほうがいいだろう。


「わかった。それは花江さんに頼むよ」

「う、うん……! 任せてね……!」


 なぜか花江りこは、さっきと同じように恥じらいながらそう言った。

 なんで照れてるんだ……?


 あまり回らなくなっている頭では深く考えることができず、俺は風呂場へ向かった。

 寒い脱衣所で震えながらジャージを脱いで、バスルームに繋がる扉を開くと、湯気と一緒に暖かい熱気が全身を包み込んだ。


 バスタブの中のお湯は、乳白色に染まっていて、ミルクのようないい匂いがする。

 うちに入浴剤のストックなんてなかったはずだから、花江りこが食材の買い出しの時に、一緒に買ってきてくれたのだろう。


 湯船に浸かることに対して全然思い入れなんてなかったはずなのに、あんまりに気持ちよさそうで早く沈みたくて仕方なくなってきた。


 今日は動きが重いせいで、なかなかスムーズに体を洗えないのがじれったい。


「……よ、よし。やっと終わった」


 さてと……。

 ふらついて情けなく倒れたりしないよう、一応、壁に手をついてバスタブを跨ぐ。

 冷えていた右足がお湯に触れると、なんともいえない感覚が全身を駆け抜けた。


「おおう……」


 絶妙な湯加減で妙な声が出てしまった。

 そのままゆっくり体を沈める。


 ああ……、たまらない……。


 思わず心の底からの「はあっ……」というため息が零れ落ちた。

 体が芯から温まっていくのを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。


 風呂ってこんな気持ちよかったっけ……。


 それに熱のせいで痛んでいた関節が明らかに楽になった。

 しかもなんだかホッとする。

 風邪のせいで気が張っていたのかもしれないと、この瞬間に初めて気づけた。

 シャワーでザッと体を洗うだけじゃ、こんなふうにはならなかっただろう。


「風呂、最高か……」


 この数年忘れていた喜び。

 それを思い出させてくれた花江りこに対して、また新たな感謝の想いを抱いた。


 ◇◇◇


 ――二十分後。

 湯上りでポカポカとする体をパジャマ代わりのスウェットに包み、リビングに戻ったところまではよかった。

 しかしそれからわずか五分後の今、俺は猛烈なピンチに見舞われている。


「はい、新山くん。お口開けてください。あーん」

「……っっっ」


 隣にぴったりとくっついて座った花江りこが、レンゲを俺のほうへ近づけてくる。


 俺は視線を忙しなく動かすことしかできない。

 なんだこれ、どうしたらいいんだ……。

 ていうかなぜこんなことになった……!

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