第27話 一つだけの花 sideクロード
「公爵様お初にお目にかかります。私、コナー侯爵家次男のドミニク申します。良ければ少しお話を……」
「すまない。人を探しているのでまた後で」
爵位を継いでから初めての公の場。注目が集まる中、呼び止められる声にクロードは適度な応答で返した。
のんびりと挨拶回りをしている余裕は、今のクロードにはなかった。
「公爵様さま初めまして。私は……」
「すまないが、後にしてくれ」
しかし、いくら断っても次々と立ち塞がる人の壁に、焦燥感ばかりが増していく。辺りを見渡してみても、未だ目的の人物は見つけられないままだ。
「……一体どこにいるんだ」
クロードは独り言ちながら、王城の廊下を渡る。続く先にあるのは庭園だ。広間では見当たらないから、別の場所を探すつもりだった。
格子付きの窓からは夜の光が差し込んでいる。一瞬だけ横へと向けられていた視線が再び、正面を向いた時。向こう側から誰かが歩いて来るのが見えた。
クロードの足が止まる。桃色の長髪を揺らしながら、こちらへ近づいて来ている少女から目が離せなかった。
間違いなく彼女だと、すぐに分かった。
彼女はまだこちらに気付いていないのか、小さなヒールの音だけがその場に響く。
クロードの数メートル前で、彼女の目線が上がった。ついに交わった視線。
「もうっ、遅かったじゃない。ずっと待ってたのよ!」
花が満開に咲くように、彼女の顔が明るく染まった。
「リリ――」
「ユリウス!」
ぴたりと。クロードの身体が固まった。瞬きの仕方も息の吸い方も忘れてしまったように、その場から動くことができなくなる。
「ごめん、中々抜けられなくて。姉さんこそまたそんな格好でいたの?夜は冷えるんだから、はい。これかけて」
「ユリウスったら心配性ね。このくらい全然大したことないわ」
「でも心配だから。それに姉さんは可愛いんだからもっと危機感も持たないと」
「そっ、そんなこと言うのなんてユリウスくらいだから大丈夫よ……!」
繰り広げられる光景に、クロードは目の前が真っ暗になった。男が差し出した手を彼女が取り、二人はそのままどこかへ向かっていく。
その場に一人残されたクロードは、ただぼんやりと立ち竦んでいた。
「はっ……」
手の平で顔を覆いながら息を吐く。哀愁か、憤りか、あるいは失望か。自分でも分からない感情が渦巻いて、喉の奥に引っ掛かる。酷く息苦しかった。
今この瞬間。確かにその場に居たはずなのに、彼女の目にクロードは一切映っていなかった。映っていたのはただ一人『ユリウス』と呼ばれていた青年だけ。
酷い女だった。そばにいてと先に言ったのは彼女の方だと言うのに、そんなこともすっかり忘れて他の男の隣で笑っているのだから。
あの日が特別だと感じていたのはクロードだけだった。
「……所詮は子供の口約束だ」
自分に言い聞かせるように呟く。それにクロードの方だって、今の今までずっと連絡一つせずにいたじゃないか。彼女を責める資格なんてないはずだ。
だから忘れよう、そう思ったのに。気付いたら視界に入ってくる。
決して目立つような存在じゃないはずなのに、どうしてだろうか。やけに目についてしまう。
「ハーシェル令嬢、初めまして。私はコナー侯爵家次男のドミニク申します。もし宜しければ、私と一曲いかがでしょうか?」
「おい、なんだアイツは」
夜会でどこからか現れた男が、彼女に手を差し出す。偶然目撃してしまったクロードは、湧き上がる不快感を隠せずに眉を顰めた。
「そんなに嫉妬されるくらいなら、クロード様も早く行ってきたらどうですか」
「嫉妬なんかしていない。馬鹿なこと言うな」
「ならその殺気を隠す努力をしてください。ユリウス・ハーシェル令息に対しても」
「その男の名前を出すな」
ただでさえ不愉快な状況だというのに、嫌いな男の名を出されて更に気分は悪かった。
その間にも、彼女は男の誘いを受けているのがもっと気に食わなくて。
クロードは持っていたグラスを呷った。
***
「……あの女を手引きしたのはお前だろ、オリヴァー」
「さて、一体何のことでしょう」
「とぼけるな」
十数分前、グレース・フルク令嬢が自室へと侵入した。ただの子爵令嬢である彼女が、一人で辿り着くのは不可能な場所に。
誰が手を貸したのかなんて、明白だった。
「最近は仕事も落ち着いてきましたし、クロード様にも恋人の一人くらいは居てもいいのではないかと思いまして」
「ハァ、なら口で言えばいいだろう」
「何度も言いましたとも。それでもずっと聞き流していたのはクロード様の方ですよ」
「だからってこんな事までする必要はないはずだ。もし、彼女の耳に入ったら……」
クロードは途中で言葉を止めた。一体彼女の耳に入ったらなんだと言うんだ。別に何と思われようがいいじゃないか。そもそもグレース・フルク令嬢のことだってすぐ追い出したから、勘違いされるようなこともなく。
「とにかく。今回は見逃してやるが、二度とこんなことはするな」
「はいはい、もうしませんよ。するだけ無駄だと分かりましたから。……でもクロード様。いい加減、他の方に目を向けてみるのはどうでしょうか。もう十年ですよ」
オリヴァーの声色が変わる。真剣な物言いに、クロードは口を噤んだ。
「気になる理由は、彼女だからですか。それとも初めて出会った相手が彼女だったからですか?」
「……」
「クロード様を慕う相手は沢山いらっしゃいます。そこまで彼女に拘る必要は本当にあるのでしょうか」
「……」
「もしそれでも尚、クロード様が彼女ではないと駄目だと言うのであれば、これ以上は何も言いませんが」
押し黙ったクロードにオリヴァーは「私はこれで失礼します」とそのまま下がった。
静かになった寝室のベッドで横になりながら、先程の発言について考える。
『気になる理由は、彼女だからですか。それとも初めて出会った相手が彼女だったからですか?』
もし後者なら、それは過去に執着しているだけではないかと奴は言いたいのだろう。
正直クロード自身も分からなかった。彼女が覚えていないことが悔しくて、ただ過去に固執しているだけなのか、そうではないのか。
答えが出ない日々の中で、無意識のうちに彼女へと視線が向かってしまうのは、もう癖のようなものだった。
「そういえばお前婚約したんだってな。ハーシェル令嬢はもういいのか?」
パーティー会場を抜けて外へと歩いていた最中、彼女が立ち止まっているのを見かけた。
ドアの先からは光が漏れていて、室内からは数人の男の声が聞こえてくる。
「ああ、リリアン・ハーシェル?弟が凄いだけで、姉の方は平凡で何もない女だったよ。顔は多少可愛いけど、やっぱグレース嬢とかに比べると普通だよな」
その言葉に、彼女は瞳を揺らして下を向く。しかしそれも一瞬で、すぐに何もなかったかのような表情で踵を返した。
クロードはぐっと拳を握り、ドアを開いた。
「こんな所でレディへの侮言とはみっともないな」
「こ、公爵様!」
「お前はコナー侯爵家次男のドミニクだったな。自分の見栄やプライドのために、陰でレディを貶すのは恥ずべき事だと思わないか?」
「そ、それは……」
「なんだ?まだ何かあるなら俺が聞いてやるが」
「いえっ、すみませんでした……!」
男たちが勢いよく部屋を飛び出していく。クロードは溜息を吐いた。あんなクズが一瞬でも彼女の視界に映ったと思うと我慢出来なかった。
「あの……」
部屋から出て角を曲がった瞬間、不意に現れた影にクロードは肩を跳ねさせた。幽霊かと思ったけれど、違う。
彼女が今、自分の目の前に居た。
「先程は、ありがとうございました」
薄暗い場所のせいで、表情はよく見えない。けれど、確かに自分への言葉だった。何か言いたいと思うのに、突然過ぎて口が上手く動かない。クロードが固まっている間に、彼女は今度こそ去っていってしまった。
一言もまともに話せなかったというのに、口角は上がり心臓が高鳴っていく。
クロードの中を占めていたのは、紛れもない歓喜だった。
初めて彼女の視界に映れた喜び。自分の気持ちを、もう認めるしかなかった。
『気になる理由は、彼女だからですか。それとも初めて出会った相手が彼女だったからですか?』
その問いの答えも。
いくら可愛くて綺麗だと言われている令嬢にアプローチされても、それこそ裸で誘惑されようとも、一切心が動くことはなかった。
彼女以外は。
出会うのが先でも後でも、どこに居たとしても。きっとクロードは見つけていただろう。
小さくも、誰より愛らしい花を。
***
リリアンを送り届けたクロードは、心を落ち着かせるために深く息を吐いた。
リリアンから聞いた話は、クロードに予期せぬ衝撃をもたらした。
「……まさかユリウス・ハーシェルと勘違いしてただなんてな」
リリアンがクロードとの出会いを覚えていたことを喜べばいいのか、人違いしていることに悲しめばいいのか分からなかった。
「だけど一番の馬鹿は俺だ」
初めから名乗れば良かったんだ。そして、いつか絶対に迎えに来ると素直に言えば良かった。
オリヴァーより強くなったらとか、大きくなったらとか意地を張らずに。
すぐにでも相手は自分だと名乗り出たかったけれど、結局クロードはしなかった。
ユリウス・ハーシェルだと思っていた相手が、本当は別の人物だったと知った彼女がガッカリしないかと恐れた為だ。
「リリアン……」
始めは視界に映れただけでも嬉しかったのに、近付く程にどんどん欲が溢れてきてしまう。
彼女の名前を呟いたと同時に馬車が止まり、ドアが開かれた。
「クロード様お待ちしておりましたよ」
にっこり微笑むオリヴァーに、クロードの頭が急激に冷えていく。
「今日の分の仕事は既に終わらせたはずだが」
「残念ながら、クロード様の不在中にまた増えております」
「……」
一気に引き戻された現実にクロードは重い腰を上げる。
だけど不思議と、足取りは普段よりも軽かった。
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