水際の彼方
緋糸 椎
💧
「プールに行きたい」
息子の言葉に、私は戸惑った。一年前に中学教師を辞めてから、一度もプールに入ったことがなかったからだ。
「いや、まだ寒いしやめておこうか」
「あそこの温水プール、全然冷たくないから大丈夫だよ!」
そうやってゴネる息子にとうとう折れた私は、近所の温水プールに一緒に行く運びとなった。
私は鳥山和也、先述の通り元教師である。辞めた事情については追々話すとして、今は職さがしをしながらアルバイトなどで食いつないでいる。
息子の裕太は小学校一年生。前回プールに行ったのはまだ幼稚園生の頃で、アームリングをつければ何とか泳げた。
ところがいざプールに来てみると、今度はアームリングなしで泳ぎたいとゴネだした。
「だって学校で(アームリングなしで)ちゃんと泳げるもん!」
「いや、しかし……」
結局、裕太を説得すること叶わず、一応アームリングは持ち込みながらも、なしで泳ぐことを許可した。
裕太のいう通り、浮き輪類なしでも思ったより普通に泳いでいた。しばらく注意深く見守っていたが、やがてもう大丈夫だと慢心した。
迂闊だった。
調子に乗った裕太は、足の届かない深いプールに向かって駆け出したのだ。
「こら裕太、ちょっと待て!」
父親のいうのもきかず、裕太はそのプールに飛び込み、スイスイと泳ぎ出した。
「何やってるんだ、早くこっちに戻れ!」
こちらが必死になればなるほど、裕太は悪戯心を起こして泳ぐ。が、泳げるようになってまだ間もない泳力は、案の定限界が来た。疲れて立ち止まろうとして、そのまま水中に吸い込まれた。
「裕太!」
私は咄嗟に飛び込んだ。そして溺れる裕太目がけて一目散に泳いだ。
バシャバシャもがく裕太を抱きかかえ、立とうとしたが、足がつかない! しまった、私の背よりも深いプールだったのだ。仕方ない、抱えて泳ごう、そう思ったが、裕太は必死で助かろうとするあまり、私の頭にしがみついた!
「おい……これじゃ息が……」
などと水中で叫ぶが誰にも聞こえはしない。仕方なく顔全体を水に漬けたままつま先歩きでプールサイドに向かう。息止めはすぐに限界が来た。頭でいけないとわかっていても、体が本能的に水中で呼吸する。肺の中へと次々に水が入り込む。
プールサイドまで1メートルもないというのに、全く近づいている実感がない。もはや万事休すか。そう覚悟した時、水面からスーッと手が伸びて来た。私はその手をつかもうと、夢中で自分の手を伸ばした。すると向こうの手が伸びてきて私の腕を掴み、引き上げた。命からがら水面に顔を出した私は、助けてくれた相手の顔を見て腰を抜かしそうになった。
「……加藤!」
そう、それは私を恨んでいるはずの、まさしくあの加藤だった。
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