ひろった命
「…くそっ」
破れて効力を失った〈姿隠しの外套〉を投げ捨て、すっかり暗くなった森の中で、ジール・カートは呻くようにつぶやく。
彼は山の麓にある街の『マルカファミリー』の構成員である。
マルカファミリーは、街と太いパイプを持っており、裏社会の管理を担っているギャングである。しかし、その活動は義を持って行われており、表社会でもある程度の知名度と信頼を獲得している。
しかし、基本的に加入した後の脱退は認められていない。
ギャングであるが故、その構成員の多くは社会からはじき出された者である。彼らを受け入れ、働かせる代わりに、社会に迷惑をかけないよう脱退は許さない。義を持った活動の一環らしい。
どうしてもという場合には、生還は不可能と思われるようなミッションの成功が条件となる。
ジールは犯罪者だった。
しかし、マルカファミリーに加入してからその性根を叩き直され、良縁に恵まれて結婚し、娘も一人授かった。生活は決して楽ではなかったが、妻と娘とのつつましい暮らしに幸せを感じていた。
しかし数年前、娘が魔法学園に通いたいと言い出した。これまで質素な生活に文句ひとつ、わがままひとつ言ってこなかった娘の初めての願い。彼はこの願いに応えてやろうと固く決意した。受験にも合格し、お金の融通も貯めてきたものを使えば足りる。しかしここで障害となったのがジールの身分である。
魔法学園への入学は簡単ではない。受験に合格したのはひとえに娘の頑張りによるものだが、通う者の身分も一定以上が求められる、暗黙のルールのようなものがあった。
ゆえに彼は、マルカファミリーの脱退を申し出たのである。彼に与えられた脱退のためのミッションは、ネームドモンスター『人殺し』の生態調査だった。
「ここまでか…。すまない、エルト、ミーア…」
大枚はたいて買った魔道具も、嗅覚の優れた害獣に襲われた際に破れ、効果を失った。夜の森は昼とは比べ物にならないほどに危険で、持参した武器も役には立たないことが多い。
帰還すら難しい状況である。おまけにどうやら『人殺し』がこちらに向かってきているようだ。
せめて死ぬ前にその姿を拝み、命がけの特効でもしてやろうと覚悟を決め、見晴らしの良い開けた場所のすぐ手前で息をひそめる。
待ち伏せを始めてすぐに、強烈な違和感を感じたジールは眉を顰める。
「…遅すぎないか?」
『人殺し』の恐ろしさの本質は、その機動力と残虐性にある。
接近を感じ取ってすぐに身を潜めたが、本来なら既に自分の前に姿を現しているはずだ。動きを探知してみると、何かを窺うような行動をしているようだ。
『人殺し』に関する情報はとても少ない。それはそのまま、情報を持ち帰ることができた人間の少なさを表す。とんでもない感知能力を持ち合わせているという噂もある。
「ッ!?」
ジールは息をのむ。『人殺し』が突然加速し、こちらに向かってくるのを探知したからである。やはり気づかれていたか、とジールは口元を歪める。
ボウガンを構え、深呼吸を一つ。装填された矢には、ファミリー腕利きの薬屋が最高傑作と称した、強力な複合毒が仕込まれている。ボウガン本体も、矢の速度と貫通力を増すための魔法を搭載している。
『人殺し』の体毛は尋常ではない固さ故、矢は間違いなく弾かれるが、目、鼻、あるいは口や耳の中などに打ち込めれば効果が見込めるはずだ。
「さぁ来やがれ。殺せずとも、後遺症を残すくらいはしてやる…!」
まだ少し距離がある。到達までおよそ5秒ほどか。
と、そこで突然木々の隙間から何かが飛び出してくる。視界の端でとらえたそれは──
(人間!?なんでこんな場所に!?)
思考に生まれた一瞬の空白。その空白に滑り込むように、『人殺し』が宙を舞って姿を現した。その眼光は、ただ逃げている男を捉えている。その男は肩越しに振り返り──
「う”わ”ぁぁぁぁぁぁ明らかに生態系が違うぅぅぅぅ!」
と叫んだ。
無理だ。あいつは助からない。撃たなければ。
引き金に指をかける。瞬間、目の前で信じられないことが起こった。
逃げていた男が、踏み出した左足で急停止する。
途端、虚空からにじみ出るように、一本の長剣が現れた。
男の手に握られたそれは、武器に詳しくないジールでも一目でわかるほどの業物だった。そして──
止まった左足とは逆の右足を『人殺し』の方向に向けて踏みしめ、身体を時計回りに回転。そして、男は振り向きざまに、その剣を横なぎに振りぬいた。
──ゾンッッッッ!!!!!!
空気を切り裂く、なんて言葉すら生ぬるい音が響き。
『人殺し』は、空中でその巨体を上下に分断された。
ジールは状況が理解できずに硬直する。
目の前の男が、先刻情けない叫び声を上げていた男にはとても見えなかった。と、そこでその男の体がゆらりと傾き、地面に倒れた。
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