第25話 頼もしい相棒
「さむぅっ」
予想通り、寒さは徐々にその牙を喰い込ませている。
鈍色の雲の僅かな隙間から漏れる、燃えるような茜色。同時に、反対側の空からは藍色が刻一刻と、この街に覆い被さらんとしている。所謂、マジックアワーと呼ばれる美しい空の下で、フォニーは途方に暮れていた。
冷たい風はコートの隙間に入り込む。脚に巻いている鎖も、凍てつく冷たさになりかけていた。
ヴェームより情報を得たのはいいが、肝心の宿屋が一向に見つからない。
いや、宿屋は見つかっている。既にこの通りに店を構えるものは全て。見つからないのは、ムカデとされる美女の情報だ。
どの店のどの従業員に聞き込んでも、男女で一部屋に泊まりに来たペア等いないという。ここ数日で、そのような男女は一切現れていないと。
おかしい。ヴェームの情報が確かなら、この通りのどこかで彼女は春を売った筈だ。
「こぉれは困りましたっ」
何処かの倉庫か、煉瓦造りの壁にもたれ掛かり、顎に手を添えながら思案に耽る。
この状況、考えられる可能性は幾つか。
従業員が、ムカデとその客を覚えていない可能性がある。
この付近、特に隣の通りは娼館も多く、公娼はまだしも決まった仕事場を持たない私娼はこの辺りを仕事場にしていてもおかしくは無い。となると、従業員にとって男女一組の客はごく自然なものとなり、記憶にすら引っ掛からなくなっている可能性。
だが、これはすぐに否定できる。
全ての従業員は、男女ペアは一切訪れていないと言ったのだ。フォニーに嘘を吐く意図が無い限り、彼らは少なくとも一切いなかったとは断言する筈がない。
ムカデは変装の名人だ。彼女がもし、彼になっていたら。つまりは男装していれば、男女がいないと言われたのも説明が付く。
だがこれも弱い。
ムカデは絶世の美女の評判を武器に客を取り、獲物に狙いを定めていた筈だ。その評判をかなぐり捨て、男装して客を取るとは考えにくい。
最も有力なのは、やはり最後の一つ。
「……いない」
再び、陽の当たらない酒場を訪れる。男が数人と、甘い匂い。そこに、特徴的な黒いドレスに身を包んだ女はいなかった。
仮定その三、そもそもヴェームの情報が真実ではない場合。
ヴェームは金次第でどのような相手にも付くような女だ。
彼女は今ムカデの被害に遭った貴族の末裔に雇われていると言っていたが、それらが全て嘘で彼女がムカデの側に付いていたのなら、警戒されずに近付く為フォニーを騙すのも不自然ではない。むしろ、彼女の雇い主の意に沿うならそうするべきである。
「一杯食わされましたねぇえ」
とは言え、概ね予想通りだ。
あの場では両者警戒を解いていなかった為何も起こらなかったが、こうなったことで彼女が敵であることは確定的に明らかだ。次に会う際には、刃を交えることになるだろう。
彼女の情報も、フォニーは話半分でしか信用していなかった。金で買ったとは言え、普段同じことをフォニーもしているのだ。予想が付かない筈もない。
「……まぁあ、帰りますかっ」
宿屋の捜索に時間を殆ど使ってしまった。じき夜が来る。
雪は激しくなっており、最早睫毛が凍りそうだ。百足は夜行性だが、ムカデが活動するのも夜だろう。だが、慣れていないフォニーにとってこの気温で活動するのは非効率的だ。
「でしたら今日はぁあ」
フォニーの表情に玩具を見つけた子供のように、徐々に綻んでいく。
それよりも、フォニーは二つ目の目的があった。
人が生きる上で欠かせない行為といえば睡眠、排泄。そして、食事である。
フォニーは行商の真似事で世界を練り歩き、その度に異国の食を吟味してきた。徐々にそれらが、愉しみとなる程に。
国によって食事が異なるように、寒地には寒地の食事がある。
宿屋も取っている事だし、今日は地元のグルメでも堪能しようか。そう思いながら道を引き返し始めた時、フォニーは首元に這うような違和感を感じ取る。
「……?」
まるで風が擽ったような感覚。咄嗟に首を触れど何も無い。僅かに浮かんだ首の筋肉の形を、指先で感じられるだけ。
幸いと言うべきか、その感覚はすぐに収まった。再び歩みを進める。
この街を訪れた時と比べると、人通りは大分少ない。紙袋を提げる女性に、懐中時計を見ながら歩く紳士。仕事終わりの時間帯か。道行く者は皆、家への帰路についている。
結局、街に訪れた際の違和感はなんだったのだろうか。
ムカデによるものなのか、ヴェームによるものか。はたまた、別の何かなのか。この街では、何かが起こる気がするのだ。無論それが、気のせいであれば構わないのだが。
「んぁ?」
宿屋まであと幾つかの角を曲がれば、と言うところで再び首筋に違和感が走る。指先でなぞるようで、少しだけ擽ったい。
やはり気のせいではない。そう思い、恐る恐る手を伸ばした。
確実に、フォニーの首以外の触感が指先で撫でる。フォニーはそれを、包み込むようにして首筋から引き剥がした。
「おぉや、これはこれはぁ小さなお客様ですね」
それは、親指の関節程度の小さな蜘蛛だった。
短い毛に覆われた黒い脚と複眼、腹部には赤い模様が波打っている。
フォニーは命を脅かすものの知識は並よりもは達者だ。
自然界において赤や黄色といった目立つ色彩は、捕食者に自身が有毒の生物であることを示す為の警戒色だという。
その知識に当て嵌めれば、この蜘蛛は毒蜘蛛なのだろう。手袋をしていて良かった。虫は得てして寒地には生息していないイメージがあるが、このような寒い地域でもこうして活動するものなのか。
フォニーは首を傾げながらも、蜘蛛をはたき落とす事も無く眺め続ける。
掌の上の蜘蛛は、まるでフォニーにアピールするかのようにクルクルと踊ると、フォニーを噛むでもなく途端に彼の手から飛び出した。
「あぁっ……」
蜘蛛は石畳の上を小さな足取りで進んでいく。獲物を探して右往左往、といった様子ではない。どちらかと言えば、まるでフォニーを導いているかのような。
その様子を、フォニーは屈んで見下ろす。
「何処へぇ行くんです?」
その言葉に返事をするように、蜘蛛は左右に小刻みに動いた。
どうせ、今日はこれ以上やることも無い。強いて言うなら、宿屋に帰って参加者一人のパーティーを開催するのみだ。
この蜘蛛に着いて行くのも、退屈凌ぎとしては悪くない。
大通りを数十分かけて抜け出し、蜘蛛は小さくも猛々しい足取りで郊外へ向かう。
既に日も落ちた。気温も現在進行形で下がり続けており、手袋をしていても指先の感覚がなくなりかけている。
「温かぁあいシチューが食べたいですねぇえ」
蜘蛛が数十歩歩く度に、フォニーが一歩を進める。それを繰り返す事数十回。
確実に分かった事は、やはりこの蜘蛛は何処かへ向かっているという事。或いは、フォニーを何処かへ案内しているのかも知れない。
足音が、石畳を蹴る音から雪を踏み固めるものに変わる。
風も出て来た。雪は止むことを知らず、既に足元は舗装されていない街道だ。加えて風雪は視界を遮り、数十歩先はもう何も見えない。
蜘蛛はそんな状況下でも一切歩みを止めようとせず、振り返ることも無くフォニーの前を先導するように歩いている。建物を上るでもなく、さも気遣うようにあくまでフォニーが通ることの出来る道を通って。
蜘蛛を追う選択は間違いだっただろうかと、少し後悔が顔を覗かせた時だった。ちらりと、吹雪の中に炎の灯りが見えた。
「あれは?」
剥がれかけた鍍金と、錆び付いた金属の壁と巨大な煙突は天を突く程長い。取り囲む金属網のフェンスは、所々穴が空いている。
大きな鉄の扉は扇状に外側に開く物。まるで、車や航空機が出し入れ出来そうな大きさだ。その小さな隙間には、僅かだが確かな炎の灯りが漏れている。その脇には、人間用のものだろう普通の大きさの鉄扉もある。何か巨大な物を格納する為の場所のようだ。
窓は高所に幾つか、窓ガラスは磨かれておらず、茶色い焦げのような汚れがこびり付いている。壁の形状から見るに、よじ登るのは難しいだろう。
外装を見るに、放棄された工場といったところか。フェンスの劣化具合、鍍金の剥がれ方。少なくとも、放棄されて数年は経過していると見て間違いないだろう。そのような場所に炎が灯っている、つまり人がいるとは。どうも怪しい。
足音を消し、音が立たぬよう鎖をより一層強く巻き直す。
案内は終わったとばかりに立ち止まる蜘蛛からフォニーは注意をずらし、大きな鉄の扉の頭半個分程度の隙間の中を覗いた。
「おぉやおや」
黒いスーツとラフな服装に身を包む男がずらりと集まり向かい合っている。その集まりは二つ。恐らくは、それぞれの陣営に分かれている。
片方の陣営、中央には背の高い男がいる。取り巻きと同じく服装はラフだが、顔はフォニーにとって見覚えがある。階級や名前はフォニーの記憶には無いが、この国の軍人だった筈だ。
その列の背後には木箱の中に山と積まれた銃が。見覚えのあるそれは、この国で陸軍に正式に採用されていたものだ。恐らくはそれらを、もう片方の陣営に売り捌こうとしているのだろう。
買手の方は全員がスーツ。陣営の奥には取り分け恰幅のいい男が一人と、その脇にこの空間で唯一の女性を侍らせている。山と積まれた金は、その銃を全て買い取るのに足りるのだろうか。
この格好、この状況から察するに、おおかた軍の銃を違法に売り捌いているといった所だろうか。嫌な現場に居合わせてしまったものだ。
「……」
銃でもなく、金でもなくそれぞれのボスでもなく。フォニーの視線は片方の陣営の頭目に媚びる女に向いていた。もしや、あれがムカデだろうか。
「もしかしてぇえ、ここへ私を?」
毒蜘蛛は返事をするようにフォニーの身体を駆け上り、頭の上に乗った。
フォニーを噛もうとする様子は無い。まるで助太刀をするとでも言わんばかりに、フォニーと同じ取引の方向を見つめている。随分と知能が高い。
どうやら、心強い味方が出来たようである。
フォニーはその事実に少しだけ微笑みを浮かべ、すぐに表情を引き締めた。
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