サファリ教習所
沖ノキリ
第1話 フェザント・ラストフライ
質量mの物体が速度vで運動しているとき、運動量は質量×速度mvとなる。
諸君、物理は好きか。
俺は難しいことはさっぱりわややだ。交通安全教習のビデオでお馴染みのこの計算式を、俺が思い出したのは他でもない。
ここが教習所だからだ。
それは南に向いた二階の窓から横一直線に、勢いよく食堂へ飛び込んできた。
直撃すれば、ただでは済まない大きさの物体が風切り音とともに、目の前をよぎっていく。鳥だ。小鳥ではない、それなりのサイズの派手な――
どぉぉ――ぉおおん。ベギッ!
――赤と緑のクリスマスカラ―の鳥は、カウンター上に張られた「ワカメうどん」の札に大きな衝突音を立てて激突し、ぼっだんと結構な音を立てて落ちた。
最高時速数十キロで飛ぶ鳥がコンクリートの壁に衝突したのだ。結果はおして知るべしである。
これは一大事、と俺は勢いよく立ち上がった。
しかし、俺以外動くものはない。
食堂には数組の大学生がいたが、彼らはちらりと顔を上げて見ただけで、すぐに食事と会話へ戻っていった。カウンターの中にいるおばちゃんたちも、あらあらまあまあと呑気にしている。
なんで、この珍事に誰も驚かない!
これが噂に聞く平和ボケ、はたまた正常化バイアスか。
しかし、鳥さんの死体は事実いま、そこにぬっ転がっている。俺は、近くの席に座っていた大学生四人組を問いただした。
「おいおい、アレなんだ? どうすればいいんだ、あれ」
「え、先生。
先生と呼ばれているが俺は教師ではない、教官だ。なるほど、あの派手な鳥は
「って、誰が食うか! なんで、そんなに落ち着いているんだ、お前ら」
ここは教習所内に併設された食堂。
訳あって現在、教習生は全て地元の大学生オンリーだ。必然、彼らの多くは幼馴染であり、幾つかのグループを形成していた。
「意図的に殺傷したわけではないので、法的には問題ないかと。中学の時、夕飯にすると持ち帰ってた先生もいましたし」
法学部の北田がうどんを啜りながら、いらん豆知識を披露した。食べる前提から離れろ。あと、友達と飯を食う時ぐらい本から手を放せ。
「寄生虫がいるかもなので、素手で触っちゃ駄目ですよ⭐︎」
そこに小動物系女子の大森が口を挟む。くりくりした目をした到底二十歳に見えない童顔の持ち主だが、人は見かけによらない。こいつは旧帝大理系学部現役合格、中高通じて常に学年トップだったという大秀才らしい。
「雉は赤みが多くて、しっかりした肉質だから噛み応えがあるって教授が言ってました」
へー。流石は秀才。
いや、感心している場合ではない。あのでかい鳥の死体をどうすればいいんだ。
そうこうしているうちに、食堂のおばちゃんと送迎係の運転手が大きなビニール袋を手にやってきて、哀れな雉は無事に仕舞われた。
「……地元民、余裕だな」
「よく授業中に、教室へ突っ込んできたからね~」
何でもないことのように一人が言えば、全員がうなずく。正常化ではなく、ただの日常だった。
聞けば、雉という鳥は飛ぶのが下手くそで、授業中に勝手に突っ込んできては首の骨を折って死ぬ事故が、年に数度はあったらしい。
きっと木に囲まれた山頂に校舎があったのが原因だと、学生たちは笑いあった。ほのぼのしてんじゃねえ。
美大生の笹本が思い出話を始める。
「突っ込んできた雉がさー、教壇にいた体育の河西に直撃しそうになったことあったよな~」
「あったあった。あれ避けたの、さすがは日体大出身って言われてた」
「ぬはは、伝説の河西リンボー!」
「河西、俺を殺る気かってぶち切れてた……あ、それであいつ、食ってやるって意地張ってたのか」
人数の少ない田舎の中学校とあって、クラスも同じだったらしい。
野鳥を食うな、教師リンボー。
「そいや北田は、いっつも保健室のケンシロウがうるさくて寝れないって、文句言ってたよね」
「あいつ、ケンケンよく鳴いててさ」
ケンシロウという無駄に宿命を背負っていそうな雄雉は、例によって教室に飛び込んできたものの、奇跡的に一命を取り留めた。
慈悲深い養護教諭が保護して、保健室の前に手製でシェルターを作り飼っていたという。なんという世紀末救鳥伝説。
たしか野生の鳥獣の飼育は禁止のはずだが、彼らの在校中はずっとケンケン元気に鳴いていたらしい。
ここは無法地帯かと、俺は教習所の敷地の向こうにある川と山々を眺めた。
山を越え谷を越え、麓の街より気温が二度ほど下がる山間に、その教習所はあった。
どこの教習所の看板にも書いてある「技能試験免除」の文字。実はあれを書く資格を得るためには、教習所として一定の実績を積む必要がある。すなわち、教習を施したものを送り込み、運転免許センターでの実技試験において、一定以上の割合で合格者を出さなくてはならないのだ。
いわゆる「一発試験」、その難易度は決して低くはない。
かくして実績を築くために、モニターとして地元の大学生約百名あまりが招集された。片田舎の癖にあっさり集まったと訝しんだが、どうやら大きな住宅街があるらしい。
いわゆる郊外型ベッドタウン。しかし、川一本隔てればトラクターが堂々と道を塞ぐ農村。つまり、こいつらの一見しゅっとして見える都会の大学生の姿は擬態、中身は半端な田舎者なのだ。
入所式のときに、はしゃぐ声が聞こえた。
「おい、見ろ。信号機が沢山ある!」
「本当だー、町内全部合わせたより多いかも〜」
雉の特攻には驚かなかったくせに、設置された信号の数に目を丸くしている田舎民。
教官である俺たちは無事、この学生どもに免許を取得させられるのか?!
不安しかない。だが、こいつらを卒業させねば自動車免許教習所としてオープンできない。
その果てしない路に、想像だにしない障害が次々と立ちはだかることを、当時の俺はまだ知らなかった。
雉(フェザント)の巻、了。
この話はフィクションです。
あくまでフィクションです。大事なことなので二回言いました。
ところで雉はあまり美味しくなかったらしい(リンボー談)
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