ある会社員の奔放な母親に対する悩み

田吾作Bが現れた

飯沼正治の悩み

「いやー、あの時は親父に助けられたよ。持つべきものは理解ある家族ってね」


「なるほど。良かったじゃないか」


 あるオフィス街の一角にあるビルの中、昼食を終えて昼からやる仕事の書類を軽く整理しながら飯沼正治いいぬま せいじは同僚からの話に付き合っていた。


「ホント助かったぜー。あそこで美樹を言いくるめてくれたんだからな」


「そうか。いい父親だな。ちゃんと感謝したか?」


「相変わらず説教臭いな。お前こそ俺の父親かよ」


 先日、自分の妻に趣味の無駄遣いのことを咎められた際、父親がどうにかとりなしてくれたというエピソードを語る同僚に正治はうんうんとうなずきつつも自分の意見を返していく。それを聞いた同僚はクスッと笑いつつも冗談を言いながら彼の肩を叩く。


「ま、そっちも親御さん一人だけなんだろ? あんまり心配させてやんなよ」


「あぁ。そうだな。それで滝原、お前昼はそれで足りるのか?」


「まぁ美樹に弁当のおかずの量減らされちまったしな。後でコンビニにでも行ってくるさ」


 親を心配させるな。その言葉に当たり障りのない返事をしつつも、正治は同僚の食事のことに言及する。彼の妻の怒りはまだ続いていたらしいことを聞き、そのことに内心同情を寄せつつも彼との話を続けていく。


(……お前の方はともかく、俺の親なんていいものじゃないぞ)


 ……心の中で自分の肉親のことを苦々しく思いながら。


「それで親父へのお礼なんだけどさ――」


(滝原の奴がうらやましいよ。俺の親はそんな褒められた相手じゃない)


 同僚の話を聞きながら正治は自分の家族のことについて思いを馳せる……アラサーの頃に父も他界し、今家にいるのは母だけであったがその母も彼にとっては疎ましい存在であった。


(あのはいつも俺の邪魔ばかりしてくれる。親が子供の味方だってのは俺の場合は当てはまらなかったな)


 正治は『家族』を身近な敵のようなものだと感じている。学生の頃、テストに備えて真面目に勉強している時に限って部屋に現れ、いきなり外食やら小旅行などに連れまわされることがしばしばあった。また受験に合格したらお願いを聞いてあげると言われ、それを一応頭の片隅に入れながらも頑張って成果を出したら『そんなこと言ったっけ?』と覚えてない様子で返されたことだってある。


(就職してからも変わらなかったな……いや、むしろ今の方が余計に厄介か)


 この会社に就職をした後も思い付きの行動に振り回されることがしばしばあった。仕事が立て込んでしまって残業せざるを得ない時にもかかわらず、ママ友会で酔いつぶれたから自宅に送ってほしいと参加者から頼まれたこともある。同窓会で隣の県に行った時にも同様のことをやらかし、そのせいで仕事を放り出すしかない時だってあった。係長の席に座れていること自体ある種の奇跡ではないかと彼は思っている。


(まぁ俺の親が特殊なのはわかってる……滝原にしたって相当家族仲が良いのはわかるが、世間一般じゃあっちの方が普通だってのはな)


 そんな正治の不幸はあまりに真面目過ぎたことだろう。世間一般における親の姿というものについては理解しており、そのため自分の親との差が激しいこともわかっている。けれども彼の持ち前の真面目さ故に道を踏み外すことも出来なかった。


「でな、俺は親父に言ってやったんだよ。『親父こそ趣味で家を潰す気か』ってさ」


(頼む滝原。他の話なら何でも聞くから今すぐに家族自慢はやめてくれ)


 故に彼は滝原の話を苦々しく思いながらもそれを容赦なく切ることも出来ず。ただ話に耳を傾け、相づちを打つのが精いっぱいであった。



 タバコを吸いたいからと話を切り上げ、正治は休憩室へと向かっていた。彼との話に付き合うことに軽く疲れたのもそうだが、愛煙家であるが故にニコチンが切れて少し気分が浮ついていたというのもあった。それを聞けば滝原も快く彼を送り出してくれたため、そのことに感謝しながらも正治は胸ポケットに入っていたタバコの箱を右手で握ったまま歩いていた。


(ん? メールか?)


 もう休憩室まで目と鼻の先まで来た頃、ふとズボン左ポケットに入れたスマホが振動する。一回こっきりであったため電話の着信ではないだろうと思って手に取ると、そこに表示された宛名を見て正治は軽く顔をしかめた。母のものであった。


『せいちゃんへ。この前ママ友の吉武さんからいただいたお土産のお返しに何がいいか考えて。今日の三時に来るの』


 メールの内容を見て正治はため息を吐きたくなるのをグッとこらえた。確かに吉武さんから頂き物があったということは覚えているが、それも二日ほど前の話である。その日は母の日であり、催促されたのもあって自分も贈り物をしたのだが『あぁ、ありがとう』と言っただけですぐに流されていたこともあって覚えていたのだ。


 自分ですぐにやれば良かっただろうに、とこの手の頼みをされた際の疑問を今回も浮かべながらも正治は考える。


(全く……記憶が確かなら、いただいたのは今治のタオルだったはず)


 休憩室に入り、定位置となった奥のスペースへと向かいながら正治は自分の記憶を洗う。母が見せびらかした時は確か木箱の中に入っていたはずだと考え、すぐに自分のスマホで今治タオルの情報を探る。


(タオルもピンキリだな……高ければ二万そこら安ければ一万は切るか)


 相場を調べ終えると、すぐに取り出したタバコを口にくわえて火をつけた。肺にしっかりと煙を行き渡らせてから長めに吐き出し、スマホの数独のアプリに手が伸びそうになったのを抑えて何がお返しにちょうどいいかと考えを巡らせる。


(あまり高いものを出しても相手に悪い。となれば相場は一万前後、かつ家の近くで調達できそうなものは……と)


 すぐに地図アプリを起動して自宅の住所を入れ、近所のスーパー以外にデパートか何か無かったかと探す。最悪、スーパーの贈答品コーナーで売ってる果物やお歳暮のギフトを選ぶというのもあるが、やはりちゃんとしたものを贈った方が喜ばれるだろうと検索でヒットしたデパートの情報を調べていく。


(やっぱりあまりわからんか……ったく、また趣味の時間が減った)


 タバコを吸ってる時の暇つぶしとして始めた数独のアプリも今は無しでは考えられないぐらい習慣化しており、それに費やす時間が減ったことを嘆きながらも正治は何を選べばいいかと思案していく。


(チッ、またか)


『せいちゃん。はやく。私もあまり時間がないの』


 母から返信を催促するメールが届き、思わずタバコのフィルターを少し強めに嚙みしめる。いっそいつぞやの時に言ったみたいに『言い出しっぺの法則という言葉があってね。母さんが自分でやればいいだろう』とメールに記載して放り出してしまおうかとも考えた。


(いや……やめよう。以前それをやってママ友に言いふらされたじゃないか)


 だが前にそれをやって近所の人間から白い目で見られたこともあり、その二の舞は避けたいと考えた正治は他に何かいい案が無いかと地図アプリとサイトを交互に確認していく。


(丸英デパート……確かここ、三階に漬物の瓶詰を売ってる店がなかったか)


 そんな時、ふと正治の頭にある情報が浮かんだ。家から車で三十分、そこにあるデパートの中に少し高めの贈答目的で売られている漬物の瓶詰を扱ってる店がなかったかと。


 吉武さんの話で漬物関連のことが出ていたはずだと思った正治はすぐさま丸英デパートを検索し、フロアを確認して目当ての店を見つける。


(よし、あった!……昼休憩もあと十分そこらか。急がないと)


 しかしもう時間もそこまで残ってはいなかった。フィルターギリギリまで灰になったタバコを灰皿に押し付けて捨て、もったいないと思いながらも二本目のタバコにすぐに火をつけて浅く煙を吸い込む。


(じゃあ後は店のサイトを……待った。そういえば)


 そしてデパートに出店している店のサイトを探ろうとした時、ふと正治の目にチョコレート専門店も同じ階に出ているのを確認してしまう。そこにも贈答用の菓子類のボックスがあるため、漬物と菓子箱のどちらを贈った方がいいかと軽く迷ってしまう。


(どうする。こういうのは菓子類が定番だが、あの人確か和菓子を食べるって言わなかったか? 思い出せ思い出せ)


 念のため両方の店のサイトを確認して品ぞろえを見れば、どちらも想定通り贈り物にちょうど良さそうなセットが見つかった。ならばと他のフロアで和菓子類を扱ってる店が無いか確認してみたがそちらは見当たらず、どちらを贈るべきかと悩む。


(一応どっちかから選べとメールには書いたが……やっぱりか!)


『せいちゃん。どっちか選んで。せいちゃんの選んだものなら間違いないもの』


 一応の安全策として両方の店から選べと母に伝えたものの、すぐに返ってきたメールからはどちらかを選べと迫るだけだった。しかもチョコレート類が苦手かどうかについては一切触れないまま。


(あと五分……もう時間がないぞ。あぁ、どうする)


 残り時間はあとわずか。もう戻らなければ仕事に間に合わない。一度吸ったきりで半分が灰となっていたタバコを灰皿に押し付けて消すと、正治は半ば破れかぶれになりながら選択をする。


(だったら漬物でいい! これで――)


 一心不乱にメールを打ち込み、ドンと親指で送信のボタンを叩く。ヒュッとやや気の抜けた音と共にメールが送信されたのを確認した正治はすぐに休憩室を後にし

そのまま自分のいる課のデスクへと向かっていく。


(まったく、疲れた……頼むからそういうのはもっと早い段階で相談してくれ)


 どうにか時間以内に自分のデスクに戻るとすぐさま正治は仕事を始める。部下から出された書類の精査、上に提出する資料などのチェックなどやらなければならないことが山のようにあるからだ。


 そうして仕事をこなしていると、不意にスマホが震えた。取引先からの連絡だろうかと思って確認すれば母からのメールが届いていたのである。こっそり確認すれば内容はたったの一言、『じゃあこれを買うわね』と書かれただけであった。


(わかってる……わかってるんだがな)


 おそらく悪気はないのだろう。あのちゃらんぽらんとはいえこちらに悪意をむき出しにして接してきた経験は無いことから意図してぞんざいに扱ってる訳ではないということはわかっていた。


 が、こういう場合は感謝の言葉が返ってこないことからまたしても軽く脱力してしまった。業務のメールの方がまだしっかりあいさつを返すと思えばなおさらだ。


(……やっぱり実家、離れるべきか)


 そうしてまた何度目かわからない誘惑が頭の中をチラついた。親にこうして振り回されるというのならばいっそ離れてしまった方が精神的な衛生もいいと何度も思っていた。


 けれども学生の頃から続けているタバコや親に渡している水道代や光熱費などのことも考えるとそこまで預金も多いという訳でもない。何分職場の近くのマンションの敷金礼金もお世辞にも安いとは言えないし、老後のことも考えれば蓄えは少しでも持っておきたい。そのため正治は家を出るということに踏ん切りがつかないのだ。


「――長、係長! あの、頼まれてた資料なんですけど」


 今後の人生について考えにふけっていた正治の耳にようやく部下の声が届く。少し心配そうに見つめてくる部下に対し、申し訳なさを感じつつも正治は目の前に出された書類に手を伸ばし、それを受け取る。


「ん?……あぁ、すまなかった。では目を通しておくから戻ってくれ」


 部下にいらぬ配慮をさせたことをわびるとすぐに正治はデスクトップのパソコンに向き合う。今後自分はどうすればいいのか。目の前に積みあがった書類の山ほどにある心配や悩み事を前にして正治はタバコを吸いたくなってしまった。

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