運気爆発デーモンハーツ

元とろろ

運気爆発デーモンハーツ

 出かける前に声をかけようと居間を覗くと、柱にかけられたカレンダーが目についた。

 もうすぐ今年が終わる。

 僕がこの家で暮らし始めてから一年が過ぎようとしている。

 炬燵に入ったお爺ちゃんは僕に気が付くと目を細めて笑いかけた。


「ハーツ、今日も榊原さんの所かい?」

「うん、夕方には帰るよ。行ってきます」


 いってらっしゃい、お手伝いをしっかりな。そう言ってお爺ちゃんは皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。

 穏やかな表情は感情の高ぶりを感じさせないけれど、きっと榊原さんの仕事には大きな期待をかけているのだと思う。


 玄関で靴を履き、ガラガラと引き戸を開けると、雲のまばらな青空の下に葉の落ちた木々が並ぶ街並みがよく見えた。


 

 一年前、ここに住む人々は記憶を失った状態で突如この街に放り出されたのだ。

 わかるのは一般常識と自分の名前。由来は不明のまま体に染みついた生活習慣。住居や身の回りの品から察する生業。

 それらが本当に本来の自分のものなのか証明もできないまま。それでも僕らはこの街での暮らしに適応し始めていた。


 


 榊原さんのいる図書館に向かう通り道、神社と呼ばれる建物の様子を横目で見る。

 木造の建物の前で数人の人物が自身の右手と左手を打ち合わせている。二、三度打ち合わせたら満足した様子で帰っていき、建物自体の中に入ろうとする人はいない。

 そのようにする場所なのだという。

 その行為の意味は誰にも説明できないのだけれど、何かに引き付けられるように神社を訪れてはそれを行う人が絶えない。

 僕自身、同じようにしたことがあった。

 失った思い出があの場所にあったのだろうかと期待して。

 かつて呼び寄せられるように神社に向かい、しかしそこで思い出すことは何もなかった。他の人々と同じように。

 僕自身のことは名前しかわからない。

 僕の名前はハーツ・モウデン。



 図書館の中には図書がある。だからそういう名がつけられたのだろう。

 図書にはいくつかの種類があった。

 僕たちが持っている常識や職能に関するわずかな記憶を肯定するもの。人々の心を慰める物語。そして一年以上前から存在するとされる記録。

 榊原さんを始めとする何人かの人々はこの記録の解読に挑んでいた。ほとんどの記録が平易な文章で書かれていた中に、意味の掴めない暗号らしい書類がいくつか紛れ込んでいたのだ。

 その暗号文に僕らの記憶が失われた原因についても対抗する術が記されているのではないか。

 根拠があるわけではなく、大いに願望が混ざってはいたが、それはこの街にとって一つの希望だった。

 暗号の解読は幾つかのチームに分かれて進められている。

 一人で一チームという扱いになっているのは団体行動の苦手な榊原さんだけで、僕の手伝いというのはあの人が体を壊していないか様子を見る意味もあった。


「こんにちは! 調子はどうです?」


 暗号文を持ち込んだ作業部屋のドアを開けると、榊原さんはがたんと音を立てて立ち上がった。

 縁のない丸いレンズの眼鏡の奥で隈のできた目が見開かれている。


「ああ、ハーツ君か。いや、調子はね、とてもいいよ。この前話した解読法でまた幾つか読めたんだが……」

「すごいじゃないですか」


 良いことだと思う。だが榊原さんの様子はあまり嬉しそうに見えない。明らかに狼狽していた。


「いやあ、内容がね。愉快なことではないんだよ。これは解読できたということ自体伏せて置かないといけないかもしれない」

「え?」


 それは、どういう。

 


「あ。君にも言ったらダメだったか。忘れ、じゃなくて聞かなかったことにしてくれ」

「いや、いくら何でも――」

「――別の話をしよう! 最近学校はどうかな!? 最近ここに来てばかりだけど大丈夫なのかい?」

「学校って、今は冬休みですよ」

「ええ?」


 今度は呆気にとられたような顔をした。

 榊原さんはほとんど休みなくここに籠っているせいか季節というものをほとんど意識していないらしかった。

 冬休みに入ったので土日以外も昼から手伝えるという事を話した覚えはあるのだけれど、それも忘れたのだろう。

 僕は今まで書類の入った段ボール箱を動かしたり、榊原さんが書いたメモを揃えてファイリングしたり、食べ物や飲み物を用意したりというちょっとした手伝いを続けてそれなりに仲良くなれたと思っているし、向こうも一応感謝しているらしいのだけれど、暗号解読に直接関わりのない事柄にはあまり意識を向けていないというのは今までの付き合いでわかっていた。


「それより誤魔化さないでくださいよ。秘密にしたいんだとしてもせめてリーダーには伝えておいた方がいいんじゃないですか?」

「うん、まあ確かに私の一存で黙っているわけにもいかないか。仮に隠しても他のチームが同じ結論を得ていたら意味はないのだし」

「じゃあリーダーを呼びましょうか。僕は聞かない方がいいんですよね」

「ううん、いや、いっそのこと聞いてもらおうか。どうせその内うっかりメモに書くだろうし……」


 自分で見こせるうっかりなら気を付けてほしい。


 とにかくリーダーに知らせてきますよ。

 そう言おうとした瞬間、ひどい揺れと轟音が部屋を襲った。

 棚の上の資料がバサバサと落ちる。


「これは、あの時と同じか……!」


 榊原さんの表情は確かに怯えているように見えた。

 なにかを思い出し、恐れている。

 僕もそうだ。きっと同じものを想像している。


 それは実態のある脅威だ。



 この街の人間が恐れるものは二つある。


 実体のない恐怖。

 実態のある脅威。


 一つは僕らの知識にしかないもの。

 

 僕らの知識の中に刷り込まれていたそれが何なのか。どのような姿をしているのか。どのように力を揮ったのか。

 覚えている者は誰もいない。

 ただそれが僕らの記憶を奪ったこと。それが再び現れること。その事実だけが僕らの記憶に残されていた。

 嘘だったらいいと思う。

 誰も見たことがないのだから。

 しかし僕ら自身の境遇が一年以上前の記憶を奪ったなにかの存在を示していた。

 この一年の間、僕たちは再び記憶を奪われることを恐れていた。


 そしてそれが唯一の恐怖というわけではなかった。


 それが現れたのは僕らの記憶がある一年、今年が始まってすぐのことだった。

 それは前触れもなく現れ、前触れもなく消えた。


「やっぱり、あの時の!」


 一番重要だという一冊の本だけを抱え、図書館の外へと駆けだした僕と榊原さんが見たモノは。


 巨大な、あまりにも巨大な怪物。

 体から伸びる黒い影のような足が住居を踏みつぶし、木々を蹴り砕いている。

 骨格のうかがい知れない緑の体。その至る所にうねり狂う白い紋様が浮かぶ。

 胴体とは別個の生物のような真紅の頭部。白いたてがみを振り乱し、まともな関節があるかも疑わしい挙動で猛り狂う。

 圧壊を目的とした機構のようにも思える不気味なほどに均質な黄金の歯が地上に嚙みついた。


 怪物と呼んで差し支えないそれを、一年近く前にも僕たちは目にしていた。

 植えつけられた知識がそれの名前を告げていた。


 


 それが実体のある脅威の名だ。


「早く逃げよう! 避難所はどこだったかなあ!?」

「高台の学校ですよ! 僕はお爺ちゃんを迎えに行きます! 榊原さんは一人で行けますよね!?」

「それなら私も――」


 榊原さんが言いかけたのを無視して僕は駆けだした。

 ひたすらに走る。

 獅子舞がまだ到達していないこの道にさえ、遠くから何かの破片が落ちている。

 僕の家とは別方向に逃げる人々を横目に走る。

 破壊の狂騒に紛れて誰かの悲鳴が聞こえる。

 それにも背を向けて走る。

 一刻も早くお爺ちゃんの元に向かわなければ。

 そう思うのに、僕は何故か足を止めていた。

 呼び止められたように。

 呼び寄せられるように。


 僕の視線はもう誰もいない神社に吸い寄せられていた。

 以前もそんな感覚に誘われて手を打ち合わせたことがある。

 何も起こらない場所のはずだ。


 


 早く家に行かないと。


 


 お爺ちゃんを助けないと。


 


 そんなものがあるわけがない。

 そう思うのに。

 僕は神社に向かって駆けだした。


 そして。


 あの黒い脚が神社を踏み潰し、瓦礫や木片が、土埃と衝撃が、僕の全身に叩きつけられ――。



 目の前の獅子舞はひどく矮小に見えた。

 僕よりも小さいという事はないが、せいぜい僕と同じくらいの大きさだ。

 視界の隅で蠢く人々こそ虫のように小さい。


 荒ぶる獅子舞が口を開く。

 僕も負けじと顎を動かす。


 彼我が噛みつくのは同時。

 痛みは感じない。

 僕はまるで鏡のようだな、と他人事のように思う。


 互いに噛みついたまま、全身をばねの様にして跳ねる。

 踊るように。遊ぶように。

 地面が砕けていく。

 獅子舞の体がひび割れていく。

 僕はそれが楽しいと思った。


 亀裂は広がり、獅子舞の体と頭が分かたれた。

 僕自身も砕け散りそうだった。


 眼前に落下する獅子舞の頭。

 黄金の歯に映りこむ金の獅子舞。


 いや、違うか。

 金色に映ってはいるが、実態は銀色のはずだ。

 僕はそれを理解している。

 それが僕だと知っていた。



 必死に走って、ついに家までたどり着いた。


「ああ、ハーツ。騒ぎは収まったみたいだね」

「何言ってんだよ、早く逃げないと――」


 その時になってようやく気付く。

 喧騒が止んでいる。地を揺らす衝撃もない。

 いつからだ?


 


 脅威はむしろ近づいていると思っていたのに。


「え?」


 なにか。なにかが異常だった。

 世界の全てが信用できなくなったような、足元どころかこの体が崩れ去るような、そんな奇妙な感覚があった。


「ひどい顔だ、ハーツ」


 お爺ちゃんはいつの間にか立ち上がり、僕の頬に手を当てていた。


「今日はもう休みなさい」

「いや、でも」

「休みなさい」


 いつになく真剣な声だった。

 僕にはあえて逆らう気力もなかった。

 何も考えず、ただ言われたとおりにする。それが何よりも楽だと思った。



 縁のない丸いレンズの眼鏡をかけた人物が、珍しく他人の家を訪ねていた。


「ハーツ君はもう寝ているんですね?」

「ええ、もうぐっすり。随分疲れていたようです」

「日頃から随分手伝ってもらっていましたから……本当にいい子ですよ、彼は」

「ありがとうございます。しかし今日はいつもとずいぶん違う様子でした。あなたが無理をさせたとは思っておりません」


 皺だらけの老人が湯呑に口をつける。


 この場には炬燵を囲んで向かい合う二人の人物だけがいた。


「いや本当に助けられてばかりで……。実はですね、どうしてもお話ししないといけないことがありまして。これはリーダーにも伝えていないことなんですが」

「と言うと、暗号のことですか」

「ええ、まあ。他の話題はないです。他のことはしてないですし」


 口元はへらへらと笑う様に見えて、眼鏡の奥の瞳には緊張の色が現れていた。


「実はですね。悪魔の名前がわかりました。隠そうかとも思ったんですが、話します」

「ほう」


 老人は普段から細い目を一層細めた。感情は伺いしれない。ただ穏やかな気配だけがある。


「いやしかし暑いですね」

「炬燵の温度を下げましょうか」

「いえお構いなく」


 眼鏡の人物は袖で汗を拭う。

 へらへらと笑い、用意された湯飲みに口をつける。


 流れた時間は長いようでもあり、短いようでもあり。

 そして、それはついに告げられた。


。解読の結果に間違いはないと思っています」


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