第10話 覚めてや夢に -足利尊氏の受難- 五

 道誉は朝廷軍の陣中で新田義貞と向かい合っていた。新田が真面目な顔で首を捻っている。

「ではお主はあくまで帝側だったという訳だな」

「左様です。此度はたまたま巻き込まれただけで、帝を裏切るつもりは毛頭ありませぬ」

「相分かった。しかし、足利軍は存外の弱さだな。仲間割れでもあったのか?」

「いいえ。尊氏殿が伏せって大将が弟直義様に替わってしまったので、皆士気が上がらないのでしょう」

「何と! お前たち、味方に尊氏は病だと触れ回れ! こちらの士気は上がろう」部下に指示を出すと怪訝な顔で道誉に向き直った。

「お主は奮戦もなく降伏し、内情もあっさりと教える。足利への忠義はないのか?」

「はて。私は足利の家人でも一門でもございませんので」

「あ、そうだったな。すまぬ」素直に頭を下げる姿に道誉は何やら腹が立ってきて、これ見よがしに眉を上げた。

「しかし後醍醐帝も酷なことをなさる」

「ん?」

「貴方に対してですよ。鎌倉を滅ぼせば武士は無用とばかり消耗品のようにこき使う。此度も新田殿と足利が相討ちになればいいという思いが透けて見える」

 薄く笑ってチラリと新田を見やると、しかし目の前の精悍な武士はこたえた様子もなく微笑んだ。

主上おかみは確かに人使いは荒いが、俺は信頼の証だと思っている。この戦いも俺には誇りだ」

 何も考えていないのか、どうせ使い捨てられるに決まっている、と心の中に一瞬嘲りの言葉が渦巻いたが、道誉ははたと気付いて唇を噛んだ。俺はこの武士の鑑のような男にとって、何者でもないのだ。

 愕然とする道誉をよそに、新田は立ち上がり叫んだ。

「ようし、足利を叩くなら今の内だ! 道誉殿、お主も帝に忠誠を示す良い機会だぞ。ついて来い」



 足利軍が新田軍の猛攻に必死で応戦している間も、足利尊氏は鎌倉の浄光明寺でただ座っていた。

「……何故だ」

 帝が討伐軍を寄越したことではない、直義や師直が帝に刃向かったことではない。

 天は、私を導かなかったのか。今までどんな時でも天に導かれている感覚があった。その声に耳を澄まし逃さぬようにさえしていれば必ず上手くいった。尊氏はそれ以外に判断し行動する術を知らなかった。

 天に見放されたなら最早死ぬよりーー、暗くまどろむ考えが頭を掠めるよりも少し速く、悲痛な叫び声が耳に届いた。

「足利軍惨敗ーッ! 直義様討死寸前ーッ!」

 弟が、死ぬ? 尊氏の身体は先程の逡巡を忘れて仏堂から飛び出した。



 箱根•竹ノ下では新田軍と足利軍が激闘を繰り広げていた。

「死ぬ気で守れ! ここを突破されると後がないぞ!」

 直義と師直、師泰は自身も前線に立ちながら兵たちに発破をかける。だが新田軍の士気に押されてジリジリと追い詰められていった。

「直義様、もう持ち堪えられそうにありません。一度尊氏様の浄光明寺へお退きを!」と師直が叫ぶ。

「いや……師直、師泰。兄上を頼む」直義が切り傷だらけの顔で微笑んだ。

「何を仰います?!」

「元はと言えば私が不甲斐ないばかりに皆を鎌倉に呼び寄せた。殿しんがりはこの直義が務める」

 てこでも動かせなさそうな直義の強い表情に、何も言えなくなってしまった師直はキッと鎌倉の方向を睨んだ。

「こんな時に我が殿は引きこもりとは、何を考えているんだあの……」

 強い語気はだんだんと萎み、その視線は目の前に突如現れた我が殿に釘付けになった。

「すまぬ、遅くなった。続けてくれ」

「……ッ! 不肖師直、殿のお心も知らずとんだご無礼をッ」

「兄上!! ここでお立ちになるなら何故最初から立たぬのですか? ここまでの兵たちの死はなかったかも知れぬのですよ」

「た、直義様それは今言わなくても……」

「すまぬ、この通りだ。私が不甲斐ないばかりに皆を死地に送り込んでしまった。……だが今は私がいる、足利の兵も戦っている、そしてお前たちが生きている。天はまだ私を見放していない! 勝つぞこの戦!!」

「……!! おうっ!!」

 皆の目に勝ちへの希望が湧いてきた。それは瞬く間に足利の兵たちに伝播し、足利軍の雄叫びが地を揺らした。形勢は突如逆転し始めた。



 朝廷軍の最後尾にいる道誉たちからも、尊氏の戦振りはよく見えた。生死を分ける戦場だというのに尊氏は無邪気に笑いながら、兵を動かして弓を射、太刀を振るう。萎れて引きこもっていたのが嘘のようだ。

 道誉は先の戦で尊氏を大鷹と評したが、適切ではなかった。あれは、空だ。曇れば嵐を呼び、晴れれば灼き尽くす。気分の赴くままにこの世を引きずり回す、大空そのものだ。道誉は歯噛みを忘れて尊氏に見惚れていた。

 我に返ると、隣で息子秀綱が状況の急変に狼狽しているので、鷹揚に肩を叩いた。

「さて、こういう時の処世を教えるぞ。混乱に乗じて我らは近江に帰り、京に逃げ戻る新田を暗に足止めして足利に討たせる。今はまだ帝と足利は拮抗している故、表舞台に出る時ではないのだ」

「なるほど、難しいですね……」

 まだ飲み込めていない息子にそういうものだと言いかけて、道誉は言葉を止めた。

 そういうものだと俺は自分にも言い聞かせて、またこの塞いだ世をただ上手く立ち回っていくのか? 俺が欲しいものは何なんだ? 夢で見た高時様の笑顔が瞼の裏で揺らぐ。俺は……。

 肩に手を置いて急に押し黙った父に、秀綱が不審な表情になる。

「父上?」

 道誉は緊張した面持ちで、ばさら、と呟いてみた。みるみる身体中に熱が回る。何か訳のわからないものに急かされるように道誉の口から言葉がまろび出た。

「だがな、今日俺は処世の正道から外れる。……それが婆娑羅だからだ!!」

「うぇぇ?! 何ですか婆娑羅って?」

 秀綱の腕を掴んで大きな岩に登ると、道誉は高らかに叫んだ。

「聞け、佐々木の武士たちよ! 我らは婆娑羅。我らは足利につくぞ!!」

 兵たちは棟梁の突然の表明に一瞬呆気に取られたが、いつになく心から楽しそうな殿の姿に気分が高揚してきてこちらも雄叫びを上げた。

「新田の横腹を突けい!」

 新田軍は予想外の佐々木軍の襲撃で大混乱に陥った。新田義貞は必死に兵の陣形を戻しながら、撹乱のため素早く退いていく佐々木軍に向かって怒鳴った。

「おのれ佐々木! お主に武士としての矜持はないのか!」

 それを聞いて道誉はカラカラと笑った。

「俺がもつのは婆娑羅の矜持よ! 見誤ったそなたの負けだ!」

 足利軍の奮起と佐々木軍の寝返りにより新田軍は総崩れとなった。後は撤退する新田軍を追いながら京になだれこむのみだ。

 やがて足利軍が佐々木軍に追いつくと、尊氏は道誉の背を叩いた。

「この勝ちはあなたの功だ。……ん? 何やら顔付きが変わったか?」

「ご冗談を、元からこの顔ですよ」

 道誉はカラカラと開け放つ様に笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る