元社畜、悪役令嬢を回避したら溺愛された件について

えるにれ・-・

序幕

第一幕 

1.夢うつつ


 事の始まりはほんの些細なことだった。

 子どもや猫を助けてトラ転だとか、カミサマが出てきて君は選ばれたと言われるだとか。或いは急に地面が光って見知らぬ宮殿に飛ばされるだとか、そんなことは全くなくて。


 ただ普通に、帰り道を歩いていただけだった。

 まぁ少し急いでいて歩きスマホをしていたことは悪かったけれど、誰だって一度はした事あるはずだ。

 

 いつも通り、この時代にもまだあるブラック気味な仕事を何とか終えて、家に着いたらスーパーで買ったプチスイーツを食べるのが楽しみで。

 そんな、世界のどこにだっていそうな一般人の日常だ。

 

 だからなぜ私だったのか、どうしてもわからない。

 日々程々に不満があって、特に働き出してからは逃げたいと思うこともあったけれど。それはその環境から逃げたいだけであって、非日常が欲しいと願ったことも、ましてや違う世界に行きたいだなんて思ったこともない。


 そもそも秘められた力があるだとか、本当の私はこんなつまらない人間じゃないだとか、夢見る年頃はとうの昔に過ぎ去った。

 人が目を背けるほど醜い見目や性格はしていないと思うけれど、かといって誇れるほど優れていることは何も無い。

 

 平々凡々、つまらない、どこにでもいる。

 そういう表現が似合う人間だということは自覚している。

 

 ファンタジーな物語はとても素敵で今でも好きだけれども、夢物語だと分かっているからこそ憧れ、楽しめるのだと。そう思っていたのに。

 

 まさか二十代も半ばに差し掛かろうという歳になって、こんなことが起こるだなんて、それこそ夢にも思っていなかったのだ。


 ──ふと気がつけば、目の前には見たことがないくらい大きな樹と、幻想的な空間が広がっていた。ただっ広い草原に一本の巨木がそびえるだけだったけれど、それらは全て淡く発光していて、枝葉はもはや光そのものといったように輝く。

 現実離れした美しさに、ふらふらと吸い寄せられるように大きな樹に近づいていった。

 

 ここはどこなのか?夢を見ているのか?と、普通なら真っ先に思い浮かべるであろう疑問は、しかし何故だか疑問に思うことは無かった。

 ただ目の前の美しい光景に圧倒されていたのもあるし、この空間を認識してからずっと、暖かな熱流に包まれている感覚があって、不思議と安心感を覚えていた。


 ひら、ひらり。

 桜のような薄桃色をした花弁が宙を舞って、思わずそれに触れようと手を伸ばす。

 けれど、花弁は触れる前にするりと逃げるように空間に溶けて消えてしまった。


「あ……」


 残念に思って、伸ばしかけた手を下ろす。

 そこで、持っていたはずのカバンやスマホも、スーパーの袋も、何もかもが消えてしまったことに気付いた。

 落としてしまったのかと来た道を振り返るけれど、どこにも荷物はなくて、ただ現実離れした美しい景色が広がるのみ。


 あぁ、これは夢か。

 家に帰った記憶は無いけれど、もしかしたらそれほど疲れていたのかもしれない。帰路はもう歩き慣れた道で、特に意識していなくても家まで辿り着ける。きっと帰ってすぐに寝てしまったのだろう。


 それにしたって、不思議な夢だ。

 こんな幻想的な空間を、私の脳のキャパシティで創造できるのだろうかというのもそうだし、私は明晰夢を全くと言っていいほど見たことがない。だから、こんなに意識がハッキリしているのは新鮮だった。

 

 ふと柔らかな風が吹いて、優しい香りが漂う。まるで、記憶から呼び覚まさされるように。

 

 ずっとこの場所にいたいと思うほど、この空間は心地よかった。春のような温かさ、優しいそよ風、何よりこの安心感。

 夢だから仮初ではあるけれど、いや、正しい意味で夢の空間ということか。


 ゆっくりと木に向かって歩きながら、日々の疲れが癒されるのを感じていたけれど、長くは続かなかった。

 大樹がそよそよとどこからか流れてくる風に乗って、知らない声が届いたのだ。


「大丈夫よ、泣かないで」

「……え?」


 何も知らない幼子のように純粋で、けれどこの世の全てをを慈しむような愛情がこもった声を認識して。

 思わず足を止めた私がその言葉を理解する前に、途端、ぶわりと強い風が吹いて目が開けられなくなった。

 

 咄嗟に顔を庇うようにした腕の隙間から、薄目を開けて大きな樹を見る。

 いつの間にか木の根元には小さな女の子が立っていて、慈愛に満ちた笑顔で手を振ったのを見たような、気がした。

 

 すぐに目も開けていられないほど風が強くなってギュッと目を瞑れば、瞼越しにでもわかる眩しさと、そして優しい温かさに包まれる。

 

「……様、……ところで…………ますよ」


 さっきの声とは違う、しかしこれまた優しい声がうっすら聞こえて、けれどまだ眩しくて目を瞑ったまま眉をひそめれば、今度ははっきりとを呼ぶ声がした。


「お嬢様、せめて自室に移動致しましょう」

「ん……」


 慎重に目を開けると、目に入ったのは先ほどの幻想的な空間ではなく。

 可愛らしくパステルカラーでまとめられた、だった。

 いや、見慣れたってなんだ?こんなお屋敷にあるような部屋なんて、実際に見たこと無いはずなのに。

 私はいつの間にか椅子に座っていて、大きな窓から差し込む陽光が当たって眩しい。


 ぱち、ぱち。

 戸惑って、大きく二回瞬きをしたけれど、目の前の光景が変わることはない。

 さっきまでいた場所はどうなったのだろう。


「お嬢様、泣いていらしているのですか」


 呆気に取られていると、再びを呼ぶ声。

 視線を向けると、優しそうな美女が心配した様子でこちらを見ていた。

 

 言われたことに驚いて思わず目元に手をやれば、確かに濡れた感触がした。

 いつの間に泣いていたのだろうか。

 というか、夢ってこんなに感触までリアルだっけ。


「大丈夫、ただ夢を見ていただけだよ。シーナったら心配症なんだから」


 何故かスルスルと出てきた言葉に困惑する。

 シーナというのが目の前の美女の名前なのだろうけれど、初めてこの人を目にしたのに私がそんなことを知るはずがないのだ。

 

 それに、この人の心配そうな視線。まるで家族に向けるような温かさと愛情がこもったそれは、少し居心地が悪く感じた。

 

「悪夢だったのでしょうか?」

「どんな内容かは忘れちゃったの」

「夢ですものね。起きたばかりですし、何かお飲み物でも持ってきましょうか」

「うん、お願い」

「かしこまりました」


 当たり前のように、私が考えるまでもなく返事をしているのにも気味が悪い。

 先程の空間では夢と気付いても、自分の意思で動いていたから尚更。

 

 そもそも、どこから夢だったのだろうか?

 明晰夢とはこんなにも感触まで再現されるものなのか。状況はどう見ても夢でしか無いのに、五感があまりにもなせいで混乱してくる。

 ……もし、もしも夢じゃないとしたら。私は一体どうなってしまったというの?


「うっ、」

「お嬢様!」


 ズキン、と強い頭痛が走って思わず呻き声が出た。ドクドクと脈打つのと同時に痛みを感じ、冷えた自分の手で頭を抑えるけれど、あまり効果はない。

 視界の端で、のための飲み物を取りに部屋を出ようとしていた彼女が慌てて駆け寄ってくるのを見た。


 しかしそれに応える気力も無く、痛みを堪えるために目を瞑ると眠気が襲ってきて、それに誘われるがまま私は意識を失った。

 ……目覚めは悪いだろうな、と思いながら。

 

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