六年前の男
武良嶺峰
第1話
兄が市役所の別部署にいる女性と結婚した。結婚と同時に兄は西東京の市役所から岩手の町役場への配置転換を言い渡された。兄妻は兄の異動が決まると市役所を辞め、岩手へついて行った。兄はこれまで実家から職場へ通い、私も実家から大学へと通学していた。兄が、幼い頃から過ごした西東京の実家を離れ、家族という枠組みから飛び出たのは暑い夏の日だった。引っ越しの手伝いのため兄達が引っ越しの翌日に私と両親は兄の住む公務員宿舎へ向かった。盛岡駅に着くと想像していたよりも地方都市としての風格があった。駅前には商業ビルが建ち、大きなバスのロータリーもある。立派な観光案内所も設置されていた。駅ビル内の店でじゃじゃ麵を食べると盛岡に来たことを実感した。ただ立派な駅ビルは人がまばらで、しんと静まりかえっていた。東京の夏の暑さは熱風の質感が留まっているような質量的な暑さだが、盛岡の夏は希薄な暑さだった。
駅からはタクシーで事前に聞いていた住所へ向かった。出発して十数分程でビルや店舗は無くなり、希薄な田舎町を通るとタクシーは石門柱のあるさびれた集合住宅の前で止まった。そこが兄夫婦の住む公務員住宅だった。兄夫婦は三階に住んでいると聞いていた。狭い外階段を上り、三階に着くと同じ形状のドアが六個続いて並ぶ。兄夫婦の部屋は一番手前だった。チャイムを押すと兄が嬉しそうな顔をして、遠い所来てくれてありがとうと笑った。兄の後ろに荷物を片付けている兄妻がいた。結婚と同時に異動という環境の変化に疲弊しているだろうと想像していたが、二人共元気そうだった。いつも達観し諦めているような顔つきの兄だが、この日は新しい門出に明るい顔付きをしていた。
昼になり、近くのそば屋で皆でそばを啜った。そばは兄のご馳走になり、皆満足そうだった。私達は駅近くのホテルに泊まり、次の日、少し片付けを手伝い、東京へと帰宅することにした。岩手への一泊旅行はせわしいものだなと私は思った。
両親共に東京へ戻る新幹線の中、座席にめり込まんばかりに深い眠りに落ちていた。窓際の席の私は車外に風のように流れ行く暗い風景をじっとりと眺めながら、ガラスに反射して映る自分の虚ろな顔付きをぼんやりと眺めていた。もの思いついた時に初めて家族ではない個人の中で交わす孤独を認識した。孤独な個人を守ってくれていた一番小さな集合体が家族なのだと幼い私は発見した。
昨日、駅前のホテルで一人寛いでいた時にぼんやりと思ったのは兄が離脱してこの集合体は分解したのだということだ。兄は新しい生活を楽しんでいるだろう。それは良い。兄はこれから新しい家族の集合体を形成していくのだろう。それも良い。ただこれまでの集合体に残った私は置いて行かれてしまったのか。高速で後方へ過ぎゆく漆黒の風景の中、窓に映った私の残像だけが静かな暗闇に取り残されている。
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