今朝は毎朝聞こえていた嫁の怒鳴り声も聞こえない。ついに俺に愛想を尽かしたか。


 俺の嫁は短気で気が強く、俺が部屋に籠る事をよく思っていない。今朝は静かなので今小説を書く事に集中する事が出来ている。この小説を書く前は数か月間、嫁のせいでスランプもあり何も書けなくなっていた。去年の今頃は働きながら六十四万文字も小説を書けていたのにどうしてだと悩んでいた。


 俺はふと、ため息を吐いた。


 母親の残したアイデアノートには所々に俺の執筆へのアドバイスが書かれている。それはまるで俺が将来小説を書く事を見越しているような内容だ。


 “書いていても詳しく分からない。実際にやったらどうなるのだろうか?”


 俺は書斎の机の前の椅子に座り、デスクトップパソコンの横に置いてあるアイデアノートに書かれた文字に視線を送った。その時俺はゆっくりと首を横に傾げた。この文字は母親の文字ではなく俺の文字だ。俺はこのノートに自分で何か書き足したのだろうか。覚えていない。


 俺はデスクトップパソコンの右下にある時計に視線をやった。もう朝の六時だ。そろそろ出勤の支度をしなくてはならない。このまま小説を書き続けたいが、生活の為にはそうもいかない。


 嫁がそろそろ朝食が出来たと大声を掛けてくる時間帯のはずだが、部屋の外からは一切声が聞こえて来ない。俺は毎朝四時半に起きて執筆をして嫁の声を合図に朝の支度をするので、毎朝のルーチンの合図が来なくて苛ついてきた。そろそろ声が掛かるだろうか。まだあと十分程は書けるだろうか。


 嫁が声を掛けてくるまで今書いている短編を書き終えてしまおうと思った。短編を書く事は久しぶりだ。いつもの長編小説の続きが書けないので、気分転換に短編を書いている。


 ふと、頭痛がしたので俺は頭を抑えた。昨晩は久しぶりに仕事帰り酒を飲んだので、二日酔いで頭痛がしたのだ。重い肩を回した際に腕の筋肉痛も気になった。基本デスクワークなので腕が筋肉痛になる事など滅多に無いのだが。


 “どうしても書けない”


 俺はアイデアノートの隅に書かれている文字の続きに再度視線を送った。この文字も俺の文字だ。


 “貴方は私の分身。貴方が私を救ってくれる。貴方は私の作品をきっと昇華させてくれる。私の書きたい作品が完成に近付く。貴方の為なら私は悪役にもなれる。貴方の邪魔をする存在は私が消してあげる”


 俺はアイデアノートを捲って反吐が出そうになりながらも、他のページに書かれている母親の文字に視線を送った。アイデアノートの後半の文字は、狂ったように黒いボールペンで殴り書きがされていて読めない。


 嫁からの朝食の合図はまだ来ない。


「あれ」俺はアイデアノートを右手で捲りながら、左手でこめかみを抑えて一人呟いた。「父さんは、何で死んだんだっけ。そうだ。父さんは急に俺に会いに来なくなって、送った手紙も急に返事が返って来なくなって…。あいつは…愛は確か昨日母さんと喧嘩をしてて…そう、愛は母さんが嫌いだ。母さんのせいで俺がおかしくなったって言って。母さんは、まだ寝てるのか?いつも俺と同じで朝早いのに…愛は…あれ、俺は昨日何を…」


 俺はふとページを捲る手を止め、昨晩の事を思い出そうとした。だが嫁の愛と母親が口論をしているのを背に浴びるように酒を飲んでいた事しか記憶がなかった。


「亡き母親って。俺の母さんはまだ生きて俺と愛と同居しているじゃないか。小説に嘘を混ぜるのも考え物だな」俺は少し苦笑いをしながら呟いた。


 俺は覚束ない足取りで椅子から立ち上がり、左手でこめかみを抑えたまま寝室の扉へ向かった。今朝は起きた後すぐに寝室の横の書斎に向かったので、顔もまだ洗っていなかった事に気が付いた。


 喉が渇いた。この渇きは二日酔いの状態で朝一時間半も何も飲まずに小説を書いていたので水分を欲していた渇きか、小説が書きたいのに思うように書けない心の渇きだろうか。


 俺は扉の鍵を内側から開けて廊下へ出た。寒い空気が一気に俺の身体を包み身が縮まった。今は正月からまだ二週間しか経っていない。寝室は暖房が付いており温かかったので、俺は寝間着にしている黒いスエットの上に羽織っていたカーディガンの袖を伸ばして指先を隠した。


 廊下の奥にある一階に降りる階段へ向かった。最近購入したばかりの一軒家だが、中古で購入してリフォームを特にしていなかったので俺の進む足で階段が軋む音が聞こえた。


「母さん?」俺はまず一階の、リビングとは廊下を挟んだ向かいにある母親の寝室へ向かった。寝室である和室の襖は閉まっている。俺は襖に手を伸ばしたが、まだ母親が寝ているかもしれないと考え、襖を開ける事を止めて伸ばした手を引いた。母親の寝顔は見たくなかった。


 俺は背後にあるリビングの扉を開けようと手を伸ばしたが、曇りガラス張りの扉から廊下に光が漏れている事を不思議に思った。昨晩電気を消し忘れたまま全員眠ってしまったのだろうか。


 俺はリビングの扉を開けた瞬間、眼球疲労で細めていた目を自然と見開いた。


 女が二人リビングの絨毯の上に倒れている。二人共仰向けに倒れていたので、誰かはすぐに分かった。母親と、嫁の愛だ。


「…は?おい、何してるんだよ。冗談だろ」


 俺は気が付いたら、震える声でまた独り言を呟いていた。まず先に手前に倒れて目を見開いている愛の元へ足を進めて、愛の顔元で跪いた。愛の顔を見たが、既に死んでいる事が分かった。


「愛、愛。何で。どうして」俺は愛の頬に震える手を添えて呟いた。


 愛の首にはロープが巻き付いている。このロープは以前俺が自殺をする為に購入した物だ。愛は口から唾液を垂らした跡があり、顔面が腫れて赤黒かった。俺は泣きそうになりながら愛の頬を軽く叩いたが、愛は何の反応も返さなかった。俺は愛の首に巻かれたロープを解こうとしたが、長いロープは震える手で解く事が出来なかった。


「誰か。誰か、助けて。母さん」俺は咄嗟に母親に視線を移した。


 愛の少し向こうの窓際に倒れて目を見開いている母親の顔も、愛と同じく顔面が腫れて赤黒かった。窓は厚いカーテンが掛かっており外は見えない。


 母親の顔は丁度こちらを向いていたので、俺は母親と視線が合う形になった。だが母親の虚ろな視線が、俺の事をもう見ていない事を伝えてきた。いや、最初から俺の事なんて見ていなかった。この女は最初から自分の事しか見ていなかった。


 “貴方は私の分身。貴方が私を救ってくれる”


 先程見た母親のアイデアノートの文章が、突如俺の脳内で母親の声で再生された。優しい物言いだが、俺に圧力を掛けてくる高い嫌な声だ。


「ああ、やめてくれ」俺は両手で自分の頭を抱えた。ふと、昨晩の出来事が脳裏に過った。


 俺はずっと、死にたいと思っていた。だが立場上誰かに迷惑を掛ける事が嫌だったので、職場で抱えているプロジェクトが終わったらロープで一人静かに首を吊ろうと考えていた。貯金もあるし、しばらくは愛も生活には困らないだろうと思った。遺書も前以て用意しておいた。


 昨晩はプロジェクトがやっと終わった解放感と、これでやっと死ねるという安堵から最後に酒を好きなだけ飲もうと思い、職場から帰宅後自宅で一人酒を飲んでいた。いつも通り母親と愛の口論を無視して飲んだ。愛は俺の深酒を止めようとして、母親はこんな日も時には良い経験になると言って俺を庇い愛と口論をした。


「いや、違う」俺は頭を抱えながら震えた声で呟いた。「違う。そうじゃない」


 俺は普段の死にたいという欲求のある自分とは別に、死にたいと考えてしまう要因を思い出した。


「書けないんだ。書けないからずっと死にたいと思ってた。母さんは俺に書けって言うけど、俺は文才がないから書けなくて。あのシーンがどうしても書けないんだ。それがやっと書けると思って…」俺は口を開けたまま、倒れている二人を見下ろした。


 また頭痛がした。俺は現実を直視したくなくて、また頭を抱えて俯いた。倒れている愛の赤黒い顔が目に入った。


「父さんは」俺は呟いた。「父さんは母さんが殺したんだ。きっとそうなんだ。ずっと気が付いていたけど、知らないふりをした」


 俺は優しかった父親の笑顔を思い出した。


「でもどうやって?母さんは俺に憎んで欲しかったんだ。俺は母さんの思い通りに、母さんが嫌いになった。だけど母さんが居ないと小説が書けない。いや、もう書きたくない。だけど書かないと頭の中の母さんが怒るんだ。愛は…俺が殺した?母さんも、俺が…そうだ、俺が殺した。昨日。酔った後に二人共殺した。そうだ、このシーンが書けなくて困っていたんだ。これでやっと書けるようになる」俺は涙を流しながら、自分が笑顔になっている事に気が付いた。声は震えたままだった。


 俺は母親に言われた言葉を思い出した。


「貴方が私の意思を受け継いでくれたら嬉しいの。」


 父さんは母さんが、殺した。母さんは俺が殺した。母さんの小説は俺が書く。親子のバトンだ。きっと刑務所に入っても、もう俺は小説を書き続ける事が出来るだろう。憎しみという感情は手に入った。アイデアはもう全て頭の中に入っている。

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