【短編】親子のバトン
吉岡有隆
一
俺の母親は昔、小説家になりたかったらしい。
だけど独身時代は小説を公募に出しても受賞をした事がなく、売れた事はなかった。結婚をしてからも小説を書いていたと聞いたが、小説ばかり書いて家事をしない母親に愛想を尽かした父親には、離婚をされてしまった。
母親は俺が幼い頃に離婚をしてから、俺を女手一つで育てる為に朝晩忙しく働き始めて、小説を書く時間がなくなってしまった。離婚をされないように努力しなかった事を後悔していると昔母親から聞いた。それは小説を書く時間を得る為だった。
父親は俺を引き取ろうとしたらしいが、母親が断固拒否した。精一杯働いて俺を育てるからと母親は言って俺の親権を得たらしい。父親は母親に俺の親権を取られた後もよく面会に来てくれた。俺が小学校を卒業する頃には会いに来なくなってしまったが。
母親は小説を書く時間がなくなっても小説のアイデアをよく思いついていたのか、ノートによく小説のアイデアを書き綴っていた。朝も夜も猫背になりながら机に向かって、片手にペンを持ってボロボロのノートに何か殴り書きをしている母親が俺の中の母親のイメージを占めている。
そう、時には早朝に「思いついた」と急に言い起きて、母親はノートにアイデアをメモしていたのだ。今思い出すと狂気的だ。
俺は幼い頃狭いアパートで暮らしていたから、寝室が母親と一緒だった。俺の隣に寝ていた母親が朝三時や四時に起きて、俺がまだ寝ているのに部屋の電気を点けてノートとペンを持ち寝室の片隅に置いてある机に向かい、何かを書いている姿が今も脳裏に焼き付いている。
父親は離婚前、そんな母親の性格を受け入れようと努力はしていたようだが、結局母親の性格に付いて行く事が出来ずに離婚を選んだそうだ。母親が自虐的に言っていた。
母親は何かに熱中すると周囲が見えなくなる所があった。あと毎日空想に耽っているようで、俺や父親が話しかけても無視をされる事がよくあった。
母親は俺を養う為に昼間工場で働き、夜は週に何日かスナックで働いていた。工場は立ったままずっと同じ流れ作業をしていたので、よく空想に耽りながら仕事をしていたそうだ。その時間によくアイデアが降りて来るのだと母親は言っていた。
そんな母親でも俺が寝る前には、よく本を読み聞かせてくれた。読んでくれたのはおとぎ話でも子供に人気のファンタジーでもない。全てミステリー小説や殺人犯の出て来る恐ろしい話だった。
「私は小説を思いついても小説を書く時間がないの。だから貴方が将来私のアイデアを元に小説を書いて。私の人生は残り短いから、書きたくても書ける物が限られるし、読みたい作品も限られる。貴方が私の意思を受け継いでくれたら嬉しいの。今から読む小説は貴方の将来の為になるものなの。しっかり聞いてね」
母親は毎回布団の中に居る俺に向かって悲しそうな表情でそう言っては、推理小説を読み始めた。俺は幼い頃推理小説の内容を理解する事が難しくてよく眠気に襲われたし怖くて泣きそうになったけど、母親がその都度俺の身体を揺すぶって起こしては続きを読み聞かせた。夜遅くなるまで読み聞かせた。
それはまるで、俺の為に小説を読んでいるのではなくて、母親が小説に熱中して読んでいるかのようだった。
母親は幼い頃読書の出来ない環境にあったらしい。祖父母が読書を否定してきたからだそうだ。大人になってからやっと好きな本を読めるようになったと聞いた。だけど大人になってから読書を始めて気付いた事があるそうだ。“短い人生の中で読める本の数は少ない”
「世界中の本を読めるほどの時間を無限に生きられたら良いのにね」無類の読書好きの母親は幼い俺にそう言った。「もっと小さい頃から本を読めたら良かったのに。貴方は恵まれているのよ」
俺は母親の言う内容が理解出来なかった。何故なら俺は小説が嫌いだからだ。
だけど、俺は大人になり今小説を書いている。亡き母親が俺に残したアイデアノートを見ながら作品を書いている。それはまるで死んだ母親の脳内を覗くようで怖い作業だけれども、同時に母親が、俺や俺の父親を無視して空想に耽っていた時に何を考えて何を感じていたのかを後から読み取る作業になっている。
小説を書く事は苦痛だ。何なら学生時代活字自体嫌いだった。大人になり母親のノートを改めて見て小説を書くようになり、大分活字には慣れてきたとは思うが。文才はないと思っている。だけど俺の脳内で母親の言葉がこだまするのだ。
「貴方が私の意思を受け継いでくれたら嬉しいの。」
我が家の俺の部屋には母親の残したアイデアノートの他に、母親が残した推理小説や参考文献が沢山本棚に仕舞ってある。これらの本は残酷で時に未知の世界に俺を誘う。いや、もう誘われて俺はそれらの本に憑つかれているのかもしれない。
快楽殺人の動機追究や海外の殺人犯の生い立ちを書いた作品。頭のおかしいサイコパスな殺人鬼の登場する参考文献。その参考文献の中に混ざって本棚に仕舞ってある、探偵の登場する推理小説がまだ健全に感じる。探偵小説も殺人犯が登場するのだが、参考文献よりも殺人犯が人情味あり優しく感じるのだ。探偵小説は幼い頃母親によく聞かされていた物語たちだ。
これらの本は今全て、俺の書く小説の参考文献になっている。幼い頃から気付いてはいたが、どうやら母親は心温まる物語よりもサイコサスペンスが好みだったようで、アイデアノートの中身も全て頭のいかれた殺人鬼が登場する。
俺は自分の部屋に籠ってよく小説を書いているので、嫁からの言葉を無視する事が多い。どうやら母親に似てしまったようだ。
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